第077話

 カフェでドーナツを食べた後、倖枝は自動車で帰路を走った。初めてのデートは反省点こそあるものの、互いに楽しめたと思った。

 午後五時過ぎ、高速道路から地元の出口を降りた。

 倖枝は意識をせずとも、出入り口付近に立ち並んだ『ホテル』が嫌でも視界に入った。

 長時間の運転も含め、今日一日の疲労は確かに重い。それでも、今日一日ずっと一緒に居たせいか、このままどこか適当な所に入りたい欲求が湧いた。下半身が疼いた。


「あのー、舞夜サン……。『休憩』ですってよ」


 その気持ちを伝えるべく、ぽつりと漏らした。

 舞夜は助手席でうとうとしていたが、周囲を見渡し、呆れるように溜息をついた。


「……帰ってからでよくないですか?」

「違うの。そうじゃないのよ」


 このような施設を使わざるを得ないほど、場所に困っているわけではない。それでもわざわざ利用したいと思うには、この場の性欲以外にも理由があった。


「あんたが思ってるよりも全然綺麗だし、可愛い部屋もあるから。お風呂も凄いから。カラオケもあったりするから。とにかく、レジャー感覚で楽しめるのよ」


 性交だけではなく、遊びも――遊びの延長での性交としても、楽しみたいからであった。だからこそ、倖枝はうまの合う相手と行きたかった。


「へぇ。よくわかりませんけど、そうまで言うなら一度は行ってみたいですね」


 舞夜は同意するものの、声はまだ呆れ調子だった。

 前方を見て運転している倖枝は、助手席の舞夜からの視線を感じた。見上げられているのだと分かった。


「ていうか……そういうのは、黙って入ってください。ムードが大切ですので」


 遠回しに誘ったことを責められた。

 確かに、雰囲気としては悪手だったと、倖枝には反省する点がある。しかし――


「あんたが嫌だったらどうしようって、思うわけじゃない?」

「嫌なわけありませんよ! もっと空気読んでください!」


 あくまで舞夜を想っての言動のつもりだったが、これも怒られた。

 現在まで無茶な要求を散々してきたのだから、今更だったと倖枝は思う。それでも、自分なりの気遣いも少しは汲んで欲しいが――口にはしなかった。その代わり。


「あのさぁ……」

「何ですか?」

「ごめん。やっぱり、何でもない……」


 恋愛って難しいのねと素直な感想を述べようとしたものの、反感を買いそうなので止めておいた。

 雰囲気を大切に、そして空気を読め――これまで恋愛経験の無い倖枝にとっては、馴染みの無いことだった。これらを自然に行える者だけが誰かと交際し、そして家庭を持てるのだと思った。

 これまで、誰かを気遣ってきたつもりだが、気遣えていなかった。ようやく気づいた現実は、些細だが倖枝には酷だった。独身である理由のひとつだ。

 しかし、諦めはしなかった。どれだけ遅くとも、その感覚を現在から養っていくしかないと思った。

 結局のところ、どこにも寄ることなく、舞夜の館へと自動車を走らせた。


「それで……寄っていきますか?」


 夕飯にはまだ早い。茶を頂くにしても、中途半端な時間だ。

 舞夜の声は淡々としているが――先程の会話の流れから『やるんですか?』という意味合いだと、倖枝は理解した。


「ううん。今日はもういいわよ……。ちょっと疲れちゃった」


 冗談混じりのように苦笑しながら断った。

 すっかり性欲が萎えてしまったのが本音だが、悟られると気分を害すると思い、必死に誤魔化した。

 それに、受験生の舞夜には勉強をして欲しい。しかし、それを諭すのは『母』の役目であるため、敢えて言わなかった。


「そうですか……。まあ、出来ればムードを楽しみたいです……わたしは」

「が、頑張るわ」


 倖枝は無理難題を吹っ掛けられたと思いながら運転し、舞夜を館まで送り届けた。

 門の前で駐めた。


「ねぇ、倖枝さん……。ここで同棲しませんか?」


 助手席から降りた際、舞夜が扉から運転席を覗き込んだ。

 突然の提案に、倖枝は静かに驚いた。


「部屋ならいっぱい余ってます。何なら、わたしのベッドで一緒に寝るのも全然アリです」


 舞夜はぎこちない笑みを浮かべるも、瞳は真っ直ぐに訴えかけたいた。

 冗談を言っているのではないと、倖枝は理解した。恋人ならば、決しておかしいことではない。

 とても嬉しい提案だった。本心では、是非とも賛成したかった。


「ありがとう……。考えておくわね」


 しかし、倖枝は笑顔を作り、遠回しに断った。

 舞夜は一度しゅんとするも、再び笑みを浮かべた。


「わかりました……。今日はとっても楽しかったです。ありがとうございます」

「私も、楽しかったわ。またいつか、どこか遊びに行きましょう」

「はい。お気をつけて帰ってください」


 舞夜に見送られ、倖枝は館を後にした。

 出来ることならば――舞夜と一緒に暮らしたい。四六時中、舞夜と一緒に居たい。

 しかし、それは叶わぬ願いだった。

 倖枝には、守るべき自宅いえがあるのだから。離れたくとも、離れられないのだ。

 咲幸の帰りを待つために――この心持もまた、大事にしたかった。


 途中、スーパーマーケットに寄った。

 夕飯に惣菜をと思ったが、時間があるため料理を考えた。市販のマカロニグラタンの素の他、シャケとホウレン草を購入した。二食分あるので明日も食べられると、無意識に思った。

 買物を済ませて、帰宅した。駐輪場にクロスバイクの有無を確かめるのは、いつからか行わなくなっていた。

 デート帰りなので、倖枝は気分が良かった。

 だから、自宅の扉を解錠して開けた時――リビングの灯りが見えたのは、虚を突かれた思いだった。帰宅時の暗闇が、もうすっかり馴染んでいた。

 この灯りを点けられる人間は、ひとりしか居ない。


「さっちゃん!?」


 倖枝はスニーカーを揃えることなく、慌てて玄関を駆け上がった。

 リビングは明るいが、そこに人影は無かった。

 しかし、開いたままの咲幸の自室から――学生服姿の咲幸が姿を現した。


「おかえり……ママ」


 久々に娘の顔を見たが、倖枝は喜ばなかった。

 咲幸から憎しみを込めて強く睨まれ、喜べるはずが無かった。



(第29章『心持』 完)


次回 第30章『条件』

倖枝は咲幸を叱る。

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