第076話

「倖枝さんは『どっちのわたし』をここまで連れてきたんですか?」


 九月五日、火曜日。

 倖枝は場所も分からない峠で、朝陽を背にした舞夜から訊ねられた。『どっち』が指す二択を理解していた。しかし――


「わからない……」


 その回答に、舞夜は残念そうに苦笑した。

 倖枝は正直に答えた。ここまでドライブした少女は、ファミリーレストランで食事をした少女は、会いたいと誘った少女は――自分にとって何だというのだろう。

 いや、どちらとも捉えていなかったと、倖枝は思う。少なくともこのドライブでは、個としての『月城舞夜』として扱っていた。

 しかし、たとえ現在まで分からなくとも――これからどうすべきか、少女が何を望んでいるのかは、理解していた。


「もしも、ここを超えられたなら……私はあんたと母娘として暮らしたかったんだと、現在は思うわ……」


 それもまた、正直な気持ちだった。先程まで描いていた夢は、そのような内容だった。

 舞夜の表情がぱっと明るくなった。


「でも、ごめんなさい……。あんたのことは、もう『娘』として見れないの」


 だが――その夢は、辛い現実から逃避するための内容なのだ。


「見ちゃいけないのよ」


 向き合わなければいけない現実から、最も遠い内容なのだ。

 だからこそ、望みたくとも望んではいけない。


「そうですね……。わたしがあんな契約はなしを持ちかけたから、こうなったんですね……。すいませんでした」


 舞夜は再び苦笑し、俯いた。

 倖枝もまさに現在、同じことを考えていた。実の娘以上にこの少女を『娘』として可愛がったから、実の娘を『女』として見てしまった。


「違うわ! 私が弱かったから……私が悪いのよ!」


 しかし、あくまでも可能性のひとつであり、結果との因果は不明だ。倖枝としては、舞夜に責任を押し付けるつもりは無かった。


「それに、ワガママ言うようだけど……あんたとこれで終わりにしたくはない……」


 擁護ではなく、本心だった。

 出来ることならば、これからも『娘』として接したいが、出来ない。それでも関係を続けるならば、舞夜とどう接すればいいのか――倖枝は分かっていた。

 その意図を込めて、舞夜をじっと見つめた。


「え……。わたしに言わせるんですか?」


 舞夜はそれを理解したのか、泳いだ目で倖枝を見上げた。


「だって……恥ずかしいし……」

「わたしだって恥ずかしいですよ!」


 倖枝はもう何度も、舞夜と素肌を重ねてきた。何度も涙を見せてきた。

 だが、現在の気持ちを言葉で伝えるのは、とても恥ずかしかった。


「あー、もう! 私と付き合いなさいよ!」


 とはいえ、ドライブと称しこんな所にまで連れてきた責任を、倖枝は感じた。肝心の言葉は省いたが、頬を赤くして、勢いのまま口にした。


「は、はい……」


 舞夜はきょとんと静かに驚き、俯いて頷いた。舞夜もまた、頬が真っ赤だった。

 この返事は、倖枝にとって意外ではなかった。受け入れて貰えると、わかっていた。

 倖枝は一歩踏み出し、舞夜を正面から抱きしめた。もう、恥ずかしさは無かった。


「ずっとじゃなくても構わないわ……。私のこと、支えてくれる?」


 舞夜の耳元で、ぽつりと漏らした。

 そう。あくまでも、これが目的だった。

 自分の『弱さ』を咲幸に受け止めて貰わないために。咲幸の前で母としての『強さ』を見せられるために。一時的ではなく――永続的ではないが、なるべく長期的に支えてくれる存在が必要だった。


「そのつもりです」


 舞夜は顔を上げ、力強く頷いた。

 自分本位な要望だと、倖枝はわかっていた。舞夜は協力する立場であり、利点は何も無い。付き合わせることが申し訳なく思う。しかし、そうも言っていられない状況なのだ。


「ありがとう……」


 倖枝は舞夜の肩を掴み、微笑んだ。

 思えば、バーで出会った頃からであった。舞夜とは、かたちが何度か変わろうとも、どれも奇妙な関係だった。



   *



 倖枝は舞夜と、恋人としての交際を始めた。

 舞夜からの『ちょっと季節外れですけど海に行ってみたいです』という要望を聞き入れ、デートの計画を立てた。

 とはいえ、バーベキューの後は浜辺の散歩ぐらいしか、倖枝は考えていなかった。このあたりは有名な寺がいくつかあるが、自分と同じく舞夜も興味が無いと思った。

 レストランから自動車を走らせた。まだ海水浴向けの有料駐車場が開いていたので、そこを利用した。


 舞夜とふたりで浜辺を歩いた。雲が浮かんでいるため快晴というわけではないが、天気は良かった。

 九月の半ば、しかも平日となると、海水浴を楽しんでいる者はほとんど居なかった。サーファーが疎らに目につくぐらいであり、そもそも人気が無かった。

 昼下がりで陽は高いが、日差しはやや強かった。磯の香りが漂い、耳に触れるさざ波の音が心地よかった。物寂しくはなく、実にのんびりした所だと、倖枝は思った。


「きゃっ」


 ふと、舞夜が転びそうになったので、倖枝は慌てて腕を掴んだ。

 足元を見ても、躓きそうなものは特に無く――厚底のサンダルでは砂浜を歩き難いのだと思った。


「それ、脱いだら? 危ないわよ」

「そうですね」


 倖枝はサンダルを指さすと、舞夜が脱いで片手に持った。

 砂浜がどれだけ熱いのかは分からないが、舞夜は素足でも平気そうだった。


「私が持つわよ」


 舞夜はもう片方の手で頭の麦わら帽子を抑えているので、倖枝は鞄を肩に掛け、サンダルを代わりに持った。


「へへっ」


 片手が空いた舞夜は、嬉しそうに倖枝の手を握った。

 倖枝は舞夜と手を繋いで歩いた。初めての経験ではないが、奇妙な感覚だった。

 恋人として自然な姿なのだと思った。恥ずかしくもあり、どこか嬉しくもあった。


 舞夜に手を引っ張られ、真っ直ぐ歩いていた軌道が海面側に逸れた。波が打ち上がる縁まで来た。

 舞夜は恐る恐る、足の指先で海水に触れた。


「意外と冷たいですよ」


 倖枝は、楽しそうに水遊びする舞夜の腕を握ることに、全神経を集中させていた。


「どうしたんですか? そんなに怖い顔して」

「あんたが転んだらマジで洒落にならないから、必死こいて支えてんのよ」


 どのような理由であれ、全身濡れた舞夜を、乗り換えてまだ間もない自動車に乗せたくないからである。

 そんな倖枝をからかうように、舞夜は倖枝の手を振り解くと、海面へとさらに歩いた。クリンクルスカートを少し持ち上げ、足首まで浸かった浅瀬で振り返った。


「倖枝さんもどうですか? 気持ちいいですよ」

「私はスニーカーこれだから遠慮しておくわ。ハンカチしか無いからね」


 距離が開いたため、声の大きさも上げて会話した。

 スニーカーで来たこと、タオルを持参しなかったことを、倖枝は少しだけ後悔した。準備さえしていれば、柄にも無く舞夜と遊んでいただろう。

 波ではしゃぐ舞夜が、幼い子供のようで、微笑ましかった。


 倖枝は鞄から電子タバコを取り出した。タバコを吸いながら舞夜を眺め、ふと思う――恋人として交際して、何が変わったのだろうか。

 一緒に出かけ、一緒に食事をし、一緒に遊ぶ。疑似的な母娘関係だった頃と、何も変わらない。

 それでも、恋人として振舞わないといけない。しかし、恋人としての実感があまり湧かない。

 いや、峠で舞夜に『付き合いなさい』と言ったものの『好き』との告白はしていない。これまで過ごした時間から分かってくれると誤魔化したが――実のところ、倖枝は舞夜の何が『好き』であるのか分からなかった。

 舞夜のことはひとりの人間として嫌いではないが、恋人として好きというわけではなかった。現在までは『娘役』として、居心地の良い存在だったのだ。

 とはいえ、こうして交際を行っている以上、舞夜のことを好きになろうとは意識した。恋人としての心持は確かに在った。


「この時期、浅いところにクラゲ出るから、足元に気をつけなさいよ。刺されたら腫れるからね」


 倖枝は大声で注意するものの、やはり母親のような仕草だと思い、苦笑した。

 舞夜が浅瀬から慌てて戻ってきた。


 再び、舞夜と手を繋いで浜辺を歩いた。

 しばらくすると人気はさらに減り、文字通り誰も居なくなった。いや、他にも散歩している人間は居るので、きっと一時的な現象だと倖枝は思った。

 同じことに舞夜も気づいたのか、海側とは反対の道路側へと手を引かれた。

 浜辺と一般道とは高低差があるため、階段を使用しなければ道路へは上がれない。浜辺からは、壁の上に道路があることになる。

 その壁沿いに、ふたり並んで立った。誰も居ない浜辺の他、道路を走る自動車や通行人からも、死角で見えない位置だ。

 倖枝は視界の隅で、舞夜が麦わら帽子を脱ぐのを見えた。そして、ほんの一瞬――唇へのキスに、理解が追い付かなかった。柔らかな感触を味わうことなく、後になって恥ずかしさが込み上げた。


「ちょっと! 何やってんのよ!? 誰かに見られたらどうすんの!?」

「誰も居ないから、したんじゃないですか」


 焦る倖枝を嘲笑うかのように、舞夜は悪戯じみた笑みを浮かべた。


「それに……わたし達、付き合ってるんですよ? こういうことは、ごくごく自然だと思いますけど」


 その言葉と実際の行為で、倖枝は恋人らしさを実感した。

 舞夜とのキスは、これまで何度も行ってきた。だが、大抵は性交の一部であり、このような何気ないものは初めてだった。

 恥ずかしいが、嬉しくないと言えば、嘘になる。


「だからって、もうちょっと場所考えてちょうだい……」


 驚きと恥ずかしさから、照れ隠しで誤魔化した。

 倖枝は、三十五歳という年齢なのに――この年齢だからこそ、気持ちを素直に伝えられなかった。



   *



 さらに歩くと足洗い場があったので、舞夜は水道水で足を流し、サンダルを履いた。

 午後二時過ぎ、浜辺から道路へと上がった。

 道路沿いには、先ほどの食堂も含め、沢山の飲食店が立ち並んでいた。その中のひとつ、白い木製小屋のような建物がカフェであり、休憩がてら入った。店の装飾品だろうが、入口にはサーフボードが置かれていた。

 店内ではドーナツが販売されていた。トレイにプレーンとシナモンのドーナツをひとつずつ載せ、レジでアイスコーヒーとアイスフェラテを注文した。


「観光ですか? 娘さんと、仲が良いんですね」


 会計の際、女性の店員からそのように言われた。

 皮肉ではない。事情を知らない彼女に悪気が無いことを、倖枝は理解している。むしろ、他人の目にはそう映るのが自然なのだ。


「えっと……」


 倖枝は本来であれば穏便に済ませるため、その世辞を素直に受け取っていただろう。しかし、どうしてかこの場では、肯定することを躊躇した。


「違いますよ。この人は、わたしのカノジョです!」


 財布を持ったまま立ち尽くしていた倖枝の腕に、舞夜が抱きついた。

 声の明るさから、満面の笑みを浮かべていることが、倖枝にはわかった。その言葉に、自分の表情がにやけるのを、必死に堪えた。

 そして、かつての納車式を思い出した。あの時も、こうして腕に抱きつかれ――あの時は、母娘だと肯定した。


「……まぁ、そうでしたか。失礼しました。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください」


 店員は一度驚く素振りを見せるも、すぐに笑顔を頷いた。

 内心は分からないが、倖枝の目からは、怪訝や嫌悪は感じられなかった。

 倖枝はトレイを持つと、舞夜に連れられ二階へと上った。この店も日時のせいか、客はほとんど居なかった。だから、テラス席を利用できた。

 青い海を見渡せるこの席は、とても開放感があった。外も店内も明るい雰囲気であるため、まるで南国に居るかのようだった。

 だから、気分が踊った。


「さっきは、ありがとうね……」


 倖枝は、正面に向かい合って座った舞夜に、アイスカフェラテを差し出した。


「カノジョだって言ってくれて、嬉しかったわ。……恥ずかしかったけど」


 この席の雰囲気に後押しされ、ようやく気持ちを口にできた。やはり舞夜のことを『好き』であるのかは分からないが、嬉しかったのは事実だ。

 それを聞いた舞夜は、満足そうに微笑んだ。


「別に、恥ずかしがることないですよ。堂々としていればいいんです」

「そうは言ってもね……。あんたが学生服せいふく姿で未成年だと分かったら、通報されるかもしれないのよ」


 未成年とこのような交際をする場合、本来であれば親権者の同意が必要になる。

 倖枝は月城舞人の顔が頭に浮かぶが、そもそも現在は舞夜の未成年後見人であることを思い出した。未成年者と後見人という極めて稀な事例でも成立するのか疑問ではある――もっとも、舞人や周囲に認知させるつもりはないが。


「ふふ……。それじゃあ、早く十八にならないとですね」

「早くも何も、もうすぐでしょ。えっと……いつだっけ?」

「えー。カノジョの誕生日も知らないんですか?」


 不機嫌そうな舞夜から、それぞれ半分ずつに千切られたプレーンとシナモンのドーナツを差し出された。


「あんたから直接聞いてないはずだけど」


 倖枝は舞人より、舞夜の誕生日が十月であるとは聞いていた。そして、後見人申し立ての書類で具体的な日付を目にしたが――思い出せなかった。本当に十月なのだと納得したのが印象的だった。

 とはいえ、忘れたのは事実であり、怒られても仕方ないと思った。ネックレスを弄びながら、舞夜の誕生日には心から祝おうとも思った。


「もうっ。ちゃんと覚えていてくださいね……。十月二十三日です」

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