第29章『心持』
第075話
九月十三日、水曜日。
午前八時頃、倖枝は起床した。洗面を済ませた後、パジャマ代わりの部屋着を脱いだ。
九月の中頃とはいえ、まだ残暑は厳しい。悩んだ末、ワッフル素材の黒いカットソーと、リネン素材のベージュのワイドパンツを着た。どちらも夏用の、さらりとした着心地だった。
着替え終わると、紫外線対策も含めて化粧を行った。そして、誕生日に貰ったネックレスを着け、ハンドバッグを持った。
倖枝は休日だが、世間は平日だ。もしも、咲幸が家出をしていないにしても――この時間帯の自宅は、どの道ひとりだ。
咲幸の家出から約二週間。結局のところ、現在まで咲幸の顔を見るどころか、一度も連絡が取れていなかった。
三日前。ふと、ダイニングテーブルに五万円の現金を置いて仕事に出た。帰宅後、現金が無くなっていた。倖枝は咲幸の態度に苛立ったが、無事を確認できた意味では安心した。
リビングの物寂しさは、すっかり見慣れていた。午前九時過ぎ、改めてリビングを見渡すと、スニーカーを履いて部屋を出た。
倖枝は自動車で、舞夜の館へと向かった。
門の前で駐車し、車内から携帯電話を鳴らすと、館から舞夜が出てきた。
薄いピンクのシアーシャツに、黒いクリンクルスカート。大人びた落ち着いた雰囲気だが、厚底のサンダルの他、手には麦わら帽子を持っているせいか、倖枝には歳相応に見えた。
右手の小指に黒猫の指輪が嵌っているのも見えた。
「お待たせしました。おはようございます」
舞夜はニコニコと笑みを浮かべながら、助手席に座った。
しかし、上機嫌なのも束の間――半眼の瞳で倖枝を見上げた。
「……何か言うことないんですか?」
「え? ……おはよう?」
倖枝は困惑しながら挨拶をするが、舞夜の半眼が治まることはなかった。
「折角のデートなんですよ? 倖枝さんのために可愛くしてきたんですから……一言ぐらい褒めてくれてもいいと思いますけど?」
そういうことか。倖枝は舞夜の言い分に納得するも、頭が痛くなった。
少し躊躇した後――ぎこちなくも仕事用の笑顔を作り、隣の舞夜に向き合った。
「ええ……。可愛いわよ。すっごい似合ってる」
そう伝えると、舞夜に再び笑みが戻った。
倖枝は安心したところで、自動車を走らせた。
「……そういう面倒臭いこと、やめない? 私の歳とか性格とか、わかるでしょ?」
「面倒臭いって何ですか!? 最低限の努力はしてくださいよ!」
運転中であることを盾に本音を付け足すと、やはり舞夜から怒られた。
「だって……わたし達、付き合ってるんですよ?」
舞夜がぽつりと漏らした。
倖枝は前方を見て運転をしながら、舞夜との関係と現状を改めて理解した。
そう。今日は、恋人としてのデートだ。
「私は今日遊びに行けて嬉しいけど……学校の方、大丈夫なの?」
「デートの方が大切ですので、心配しないでください」
「そうは言われても……」
倖枝は土日が仕事なので、当然ながら休日が舞夜とは重ならない。かといって仕事を休めないので、こうして遠出するには舞夜の協力が不可欠であった。
こうして、協力という体で本人が学校を自主的に休んでいるが――受験生である他、出席日数も危ないという印象が強いので、倖枝には後ろめたさがあった。
「もうっ、なに細かいこと気にしてるんですか? デートなんですから、パーっと遊びましょう!」
「あんたは、ちょっとぐらい気にしなさいよ」
心配する倖枝の一方で、舞夜がカーナビゲーションを操作していた。自分の携帯電話とを、無線で接続したのだろう。カーステレオから明るい曲調の音楽が流れた。
それを舞夜が口ずさみ、倖枝としても気分が少し和らいだ。心配事は他にもあるが、今日は割り切って楽しもうと思った。
*
途中、休憩を挟みながらも、館を出て約二時間。ようやく目的地にたどり着いた。
「わぁ。海ですよ、海!」
助手席の舞夜がはしゃぐ通り、海――浜辺沿いの道を自動車で走っていた。
単に海を見るだけならば、地元からの近場である工業地帯で足りる。舞夜の要望が『海デート』だったので、わざわざ遠出して有名な海水浴場にまでやって来た。
「もう予約してある時間だから、先にそっち行くわよ。海は食べてからね」
倖枝はそのまま、事前に予約してある店まで自動車を走らせた。
目的地に到着するが、外観を眺めると、そこはレストランというより食堂だと思った。
広い店内も外観と同じく、レストランのようなきらびやかさは無かった。所々、古びていた。挙げ句、海水浴からはやや季節外れであり、世間は平日でもあり――客の姿もほとんど無かった。
テラス席へと通された。やはり、場所自体は閑散とした物寂しさ雰囲気だが、明るい海を一望できるため、あまり気にならなかった。
「いらっしゃいませ。こちら、バーベキューのコースとなります」
店員が、卓上用のコンロと食材の載った大皿を順次運んできた。主に肉と野菜だが、倖枝の目を引いたのが――
「なにこれ、海老? それとも、ロブスターってやつ?」
サザエやホタテ等の魚介類に混じり、大きな赤い海老のようなものが載っていた。原型そのままの姿が迫力あり、今にも動きそうだと倖枝に思わせた。
「え? わからないんですか? ハサミあるのはロブスターですよ」
正面に座る舞夜は、白けながらも解説した。
倖枝は改めて見ると、確かにハサミを持っていた。その点に気づくと、なんだか大きいザリガニのようにも見えてきた。
「うるさいわね。あんたと違って
「わたしも別に、グルメというわけでもありませんけど……。ただの一般的な知識です」
普段から高級料理を食べているくせに――倖枝はそう思うも、口には出さなかった。もしかすれば自分も食べているのかもしれないが、自覚の範囲でロブスターを食べたことは無かった。
卓上コンロの炭が程よく燃え、顔に熱気が伝わってきた。そろそろ、食材を焼く頃合いだ。
「さて、バーベキューなわけですが――倖枝さん、経験は?」
「食べるだけならあるわよ」
倖枝は過去、寧々の自宅の庭で行われた須藤家のバーベキューに呼ばれことがある。春名夢子がキャンプ場で肉を焼くと言うので、押しかけたこともある。
いずれも準備や料理は無く、率先してのバーベキューというわけではなかった。
「あんたこそあるんじゃないの……て思ったけど、似たようなものでしょうね」
「ええ。わたしも、お皿に取って貰うだけです」
倖枝の中では、舞夜の方がバーバキューに参加する機会は多いように思えた。だが、俗に言う奉行には程遠いとも思えた。
「とは言っても、ここまで揃っていれば失敗のしようが無いじゃない。これが
食材は揃い、炭に火は付き、面倒な工程は代金を支払うことで済んでいた。
バーベキューとはいえ、今回はただの外食だ。実際は焼肉屋と何ら変わらない。
「それもそうですね……。それじゃあ、じゃんじゃん焼いていきましょう」
舞夜とふたりでトングを使用し、食材を次々に載せていった。
波の音に肉の焼ける音が混じり、香ばしい匂いが漂った。
牛ロースが程よく焼けたのを確認すると、倖枝はタレにつけて口に運んだ。
「あっ、ヤバいわコレ。めっちゃビール飲みたくなるやつ」
炭で焼いた香ばしさと肉の柔らかさ、そして濃いタレと混じり合った肉汁が、アルコールを欲した。自動車の運転があるので、残念だった。
「ノンアルコールじゃダメなんですか?」
「あんな不味いものだと逆に萎えるから、こっちの方がまだマシよ」
倖枝は烏龍茶の入ったグラスを持ち上げた。
ノンアルコールビールよりは炭酸水の方がビールにまだ近いと思うが、取り扱っている店は少ない。
「不思議ですよね……。十八で成人になるのに、お酒もタバコも二十歳からなんですよ?」
ふと、舞夜が漏らした。
確かに、成人年齢は引き下げられたが、それらの年齢制限は緩和されない。倖枝は詳しく知らないが、公営競技もそうだろうと思った。
「確か……健康被害というか、成長に害があるからなのよ。この国じゃ、身体は二十歳にならないと大人扱いにならないわけ」
舞夜には言えないが、倖枝は十五歳の時点でタバコを吸っていた。当時から身長は変わっていないが、吸っていなければ伸びる余地があったのではないかと思った。
「なるほど。わたしもまだ、大きくなるかもしれませんからね」
舞夜はシアーシャツの胸元を摘み、にんまりと笑った。
「真っ昼間から何言ってんのよ……」
倖枝は恥ずかしくなり、思わず視線を外すものの――舞夜の胸の大きさは把握していた。大きさ自体は自分と同じぐらいで小ぶりだが、形が綺麗だった。
それを褒めることも、むしろ形が崩れるのを危惧してこれ以上の成長を望んでいないことも、口にはしなかった。もっとも、酒やタバコに関係なく、十八歳以降の成長は現実的ではないが。
会話を挟みながら食材を焼き、倖枝は舞夜とバーベキューを楽しんだ。ふたり共バーベキュー未経験であることを危惧していたが、杞憂だった。
食材はそれなりの品質であるため、炭火で焼くことでとても美味しかった。
広い海を眺めることから、猶更だった。海も店内もがらんとして物寂しいが、穏やかな晴れ空のせいか、のんびりした時間に感じた。古びた店内も、風情があるように思えた。
「それで……これ、どうします?」
あらかた食べ終えた後、舞夜が大皿に目を落とした。
ロブスターが最後に残っていた。このバーベキューで、一番の目玉とも言える食材である。しかし、少なくとも倖枝はどう調理――いや、焼いた後にどう食べればいいのか分からないため、手を出せなかった。それは舞夜も同じのようで、言葉を交わさずとも自然に残った。
ロブスターは活けの姿であり、切れ目は特に見当たらない。店から用意された道具にはトングの他、軍手もあった。おそらく、これを着用のうえ手で解体して食べるのだと、倖枝は察した。
「……ジャンケンしましょうか」
しかし、生理的に嫌であるため、舞夜にそう提案した。いっそ舞夜に押し付けたいところであるが、あくまでも平等に対処する方向へと運んだ。
「いやいや……。ジャンケンというより……倖枝さん、年上ですよね?」
舞夜から、敢えて避けた事実に回り込まれた。
この食事がデートという体であることからも、倖枝が率先しなければいけないのは、自然な流れだ。
「無理よ、無理! 気持ち悪いもん! 足いっぱいあるやつ、なんか蜘蛛とか昆虫とかみたいだし」
とはいえ、舞夜に格好いいところを見せるつもりは無かった。
倖枝は過去より、その理由でカニやエビ等の甲殻類を捌けなかった。活けの姿のまま持つことすら抵抗があった。食べられないわけではないが。
「もうっ。倖枝さんがそんなこと言うから、そう見えてきたじゃないですか!」
舞夜は捌き方が分からない、もしくは面倒という理由のようだった。余計なことを言ってさらに手を出せなくしてしまったと、倖枝は後悔した。
やはり、互いにバーベキュー未経験者であるため、上手くはいかなかった。いや、思わぬところで躓いた。
「仕方ないわね……。店員さん呼びましょう」
「……潔すぎでしょ。プライドみたいなの、無いんですか?」
「そんなものがあっても、食べられなきゃ意味が無いのよ。私は、何としてもこれが食べたいの」
「キメ顔でそういうこと言わないでください」
「うるさいわね。この手数料もコース料金に入ってるわよ、たぶん」
確かに、ここで手際よく捌ければ格好いいと、倖枝は思う。しかし、舞夜には恰好悪い姿を既に何度も見られているので、気にしなかった。
舞夜から呆れる目を向けられるも、倖枝は店員を呼びつけて捌いて貰った。
ロブスターが、このコースで最も美味しかった。倖枝の目から見て、舞夜も満足げだった。
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