第074話

 九月四日、月曜日。

 倖枝は淡い期待を抱いて帰宅をするが、いつも通りリビングは暗かった。


 咲幸が家出をして、一週間が経過した。その間、咲幸からも波瑠からも連絡は無かった。

 この部屋に帰宅した形跡は、分からない。倖枝が帰宅する午後九時まで部屋を空けているため、下校後に私物や着替えを取りに来ることは可能だ。現実的に考えて、それは必要だろう。いや、きっとそうしていると、倖枝は願った。

 咲幸にどうしても会いたいならば、学校前で下校を待ち構えればいい。もしくは、学校側に家出のことを話し、教師に取り繕って貰えばいい。

 しかし、学校側に迷惑をかけることは避けたかった。それに、家出となれば内申に響く可能性があることを危惧した。

 いや――所詮、それらは自分への言い訳だ。そこまでの行動に出る覚悟が無いだけだ。


 倖枝は咲幸の部屋に入った。部屋の灯りを点けないまま、ベッドに倒れ込んだ。

 まだ、咲幸の匂いが残っていた。

 それを鼻で感じても、懐かしさが僅かに込み上げるだけだった。感情は大きく動かなかった。

 涙はもう乾いたのだと、倖枝は思った。悲しみは次第に薄れていた。


 ベッドから起き上がり、リビングのソファーに腰を下ろした。リモコンで冷房を動かすが、テレビは点けなかった。

 この一週間が長かったのか短かったのか、倖枝は分からない。しかし、時間の経過と共に痛みが和らぎ、代わりに空虚が込み上げた。

 もう、何もかもが、どうでもよくなっていた。ひとりきりの部屋に、いつの間にか慣れていた。

 もしも、咲幸を産んでいなければこうなのだろうと、ふと思う。

 咲幸が居なくとも、誰かと結婚している姿は想像できない。親元を離れても、自堕落な独身生活を送っているはずだ。

 そう。きっと、現在のように――生きる意味さえ分からないだろう。


「……」


 週末だからか、須藤寧々の顔が浮かんだ。仕事で会うことはあるが、仕事外では最近会っていない。

 寧々には事情を話せない。寧々ではきっと、この空虚は埋まらない。そう分かっているから、寧々に会いたいとは思わなかった。

 この一週間、咲幸に『もしものこと』があればと身構え、いつでも自動車を出せるよう、酒を控えていた。

 もう、その必要は無いのだろう。せめて、この週末ぐらいは酒を口にしたいと思った。

 しかし、ここで一週間の我慢を解いてしまうと、本当の意味で諦めることになる。もう二度と立ち上がれない気がする。そのような抵抗から躊躇が生まれ、結局は冷蔵庫まで歩けなかった。

 代わりに、倖枝はソファーに身体を倒し、横になった。


 ――弱さも寂しさも、咲幸には埋められませんよ。


 この場所でのこの姿勢のせいか、ふと少女の言葉を思い出した。言葉の真偽は不明だが、少女がそれに近い存在であることは確かだ。

 舞夜にも咲幸と同様、拒絶されている。いや、愛想を尽かされている。だから、咲幸と違い、まだ会える可能性がある。

 空虚感と――そして、舞夜に会いたい気持ち。このふたつに挟まれ少し考えた後、倖枝は携帯電話を手に取った。駄目元で、舞夜に電話をした。


『どうしたんですか? こんな時間に』


 しばらくして、気だるそうな声が聞こえた。

 舞夜が応えたことが、倖枝は意外だった。繋がらないと思っていた。


「ねぇ……今から、ちょっとドライブに行かない?」

『はい?』


 突拍子も無い提案に、呆れた声が返ってくるのは無理がなかった。明白に拒絶されることを覚悟した。


『……まあ、気分転換がてら、構いませんけど』


 しかし、少しの間を置いて頷かれた。

 それを確かめると、倖枝はソファーから立ち上がった。


「今から迎えに行くから、待ってなさい」


 通話を切り、携帯電話と財布、そしてタバコのみを持った。スーツのジャケットは置いたまま、ブラウスとタイトスカートの格好でサンダルを履き、部屋を出た。



   *



 夜間で道が若干空いているため、約十五分で館に到着した。

 門の前で、携帯電話で呼び出すと、舞夜が姿を現した。フード付きパーカーとワイドパンツといった、楽な格好だった。

 舞夜が無言で助手席に乗り込んだ。倖枝は自動車を走らせた。

 カーステレオからは、音楽もラジオも流れていない。冷房と、自動車同士のすれ違う音だけが、車内に聞こえた。


「……ちゃんと学校行ってる?」

「ええ。出席日数、割とヤバイですから……」

「そうね。高校ぐらいは卒業しておきなさい……私の言えた義理じゃないけど」

「そういう考え、古くないですか?」

「残念だけど、学歴が付き纏う風潮は、これからも変わらないと思うわよ」


 倖枝は運転しながら、気だるそうな舞夜と、何気ない会話を交わした。

 お互い、咲幸には触れなかった。まるで、その存在がふたりの間に、最初から無かったかのように。


「これ、どこに向かってるんですか?」

「さあ……。行先なんて無いけど、こういうドライブもいいでしょ?」


 苦笑しながら答えた通り、明確な目的は無かった。

 ただ、街中を適当に走るのではなく、街から次第に遠退いていた。倖枝はその意図だけに沿っていたが、舞夜には伏せた。


「いいんじゃないですか? そういうのも」


 舞夜は驚くどころか、素っ気なかった。冗談を疑う様子も無く、素直に受け入れたようだった。

 拒絶されたと、倖枝は思っていた。だが、舞夜もまた現実がどうでもよくなったのだと、理解した。

 似た者同士、共感した。


 午後十一時。

 高速道路を使わずとも、一時間以上も走れば、景色は少し寂しくなっていた。このあたりはまだ、不動産屋である倖枝の知る範囲であった。

 倖枝はふと、二十四時間営業のファミリーレストランを、道沿いに見つけた。


「ねぇ。私、晩ご飯まだだから、何か食べてもいい?」

「構いませんよ。私も、そろそろお手洗いに行きたいです」


 舞夜と共に入店した。深夜帯のため、客の姿はほとんど無かった。

 トイレに向かった舞夜を待たず、倖枝はチーズ入りハンバーグとライス、ティラミス、そしてドリンクバーをふたつ注文した。


「え……。この時間に、そんなの食べるんですか?」


 しばらくして、鉄板に載ったハンバーグが運ばれてきた。それを舞夜は、半眼で見下ろした。


「食べたいものを食べたい時に食べて、何が悪いのよ。あんたにはこれ注文してあるけど、他に何でも注文していいからね」


 倖枝は、一緒に運ばれてきたティラミスを舞夜に差し出した。

 舞夜の半眼が、ハンバーグから移るも、手をつけなかった。

 それに構うことなく、倖枝はナイフとフォークでハンバーグを食べた。空きっ腹にチーズは重いが、熱い鉄板でよく溶けているため、美味しかった。

 確かに、この時間にこのような食事は身体によくないという自覚はあった。だが、それすらも最早どうでもよかった。この身体は誰かのものではなく、自分のものなのだと割り切っていた。


 この一週間、ろくな食事をしていなかった。何を口にしても、美味しいと感じるどころか、味がしなかった。

 しかし、不機嫌そうな舞夜を正面に食べると、ファミリーレストラン特有の安い味が、美味しく感じた。

 舞夜は痺れを切らしたように溜息をつき、ティラミスを口に運んだ。


「背徳感がヤバイですけど……美味しいですね」

「でしょ? 夜中のラーメンはもっと凄いわよ」


 舞夜が薄っすらと笑った。舞夜の笑顔を、倖枝は久々に見たような気がした。

 誰かと一緒の食事は楽しい。そんな当たり前のことを、ようやく思い出したような気がした。

 その後、フライドポテトを一皿注文した。

 決して美味しくはないが――深夜の閑散としたファミリーレストランでジャンクフードを摘まみ、居心地はとてもよかった。


 店を出た頃には、日付が変わっていた。

 ここを折り返しとして帰ることなく、倖枝は地元の街からさらに離れるように自動車を走らせた。

 途中、ガソリンスタンドやコンビニに寄りはしたものの、ひたすら走り続けた。

 倖枝には、不思議と眠気が無かった。以前から、自律神経の乱れにより睡眠が不安定だという自覚はあった。しかし、鬱病による睡眠障害を引き起こしていることには、気づいていなかった。


 段々と、街の灯りが遠退いていった。すれ違う自動車が減っていった。夜の闇が深くなっていくような気がした。

 倖枝は不安が強くなるはずが――どこか曖昧だった。

 まるで、夢を見ているように。水槽の中を、ゆらゆらと漂うように。ぼんやりとした感覚で、しかし確実にハンドルを握っていた。


「このままね……ふたりで、遠くまで行きましょうよ」


 倖枝は舞夜に話すというより、ひとり言を漏らしたつもりだった。それが倖枝の深層心理にある、限りなく本音に近いものだった。


「充分遠くまで来てますよ。ていうか……ここ、どこですか?」


 助手席に座る舞夜は、うとうとしながらも相槌を打った。

 倖枝は適当に走り続けた結果、現在はどこかの山道を登っていた。明らかに倖枝の知らない所であった。

 曲がりくねった道が続いていた。夜空は徐々に明るくなっているが、ヘッドライトをハイビームにしなければ道が見えなかった。対向車は皆無のため、躊躇も無かった。


「私、もう疲れちゃった……。辛いことから逃げたって、いいじゃない」


 倖枝はヘッドライトの灯りを見ながら、本音を漏らした。涙は溢れず、苦笑した。


「新しいところで……ふたりで、やり直しましょうよ」


 精神面が、限界を迎えていた。

 帰宅後、自宅でそう思い立ち、舞夜を誘ったのであった。その意図で、ここまで長時間走った。


「……そういうのも、いいですね」


 倖枝は前方を眺めたまま運転をしているので、隣に座る舞夜の表情がわからない。

 しかし、肯定へんじに瞳が見開き、そして――どうしてか、怯えた。

 意外だとは思った。舞夜から驚かれる、もしくは怒られると想定していた。


「そうね……。まずは、適当な部屋借りましょう。駅から離れてもいいから、近くにコンビニある物件ところね」

「わたしは、近くにファミレスでもあればいいです。ふたり共、料理できませんし」

「えー。お腹に入れるだけなら、私が何か作るわよ」

「最低限の美味しさは欲しいですよ」


 一瞬の怯えはどこかに消え去り、倖枝は舞夜との会話に花を咲かせた。

 ふたりで夢を語り合った。夢とはいえ、限りなく現実味を帯びていた。少し手を延ばせば、確実に届くだろう。

 倖枝は気分が上がっていた。久々に、明るい気持ちだった。

 きっと、この山を越えれば夢は叶う――そう信じ、アクセルを踏んだ。


 しばらくして頂上とうげに出ると、フロントガラス越しに、広がった夜空が見えた。

 その光景に、倖枝は息を飲んだ。


「……」


 車内の時計に目をやると、時刻は午前四時過ぎだった。

 ちょうど路側帯があったので、そこに駐車した。そして、自動車から無言で降りると、舞夜も付いてきた。


 九月の頭、頬を撫でる風は生ぬるいが、強かった。静かな所だが、風が鼓膜を震わせた。

 風が雲を運ぶ。そんな当たり前のことを気づかせたのは、雲が近いからだろう。

 倖枝は頭上を見上げた。

 夜空は黒色だと思っていた。しかし、時間帯のせいか青みがかかり、現在は紺色だった。その中で、星々が小さく輝き、黒い雲の影が浮かんでいた。

 きっと、前方が東方向なのだろう。ずっと遠くから、陽が昇ろうとしていた。


 紺色の夜空と、橙色の朝焼け。そのふたつの狭間で――藍色の空が広がっていた。

 とても綺麗だ。倖枝は素直にそう思う。

 時計が無ければ、現在が日の出なのか日没なのか分からないだろう。曖昧な感覚で味わうこの景色は、幻想的だった。

 そして、物寂しくもあり、どうしようもない不安に掻き立てられた。


 ――人生は、一度きり。


 遠くに藍色が見えるからだろうか。この景色は倖枝に、御影歌夜の言葉を思い出させた。

 瞳の奥が熱くなった。久々に味わう感覚だった。


「私は……私は!」


 絶望、後悔、そして無念。様々な感情が瞳に込み上げた。

 倖枝は堪えることなく、涙を流した。堰を切ったように、大声で泣き叫んだ。


 ――どうせなら、後悔の無いよう好きに生きて、楽しみましょう。


 出来ることならば、一度きりの人生を楽しく生きたかった。しかし、倖枝には歌夜のように生きることは出来なかった。

 逃げられなかった。『ここ』を越えられなかった。

 人生は一度きりだからこそ――このろくでもない人生を、後悔の無いよう生きねばならなかった。

 たとえ親権が無くとも、腹を痛めて産んだ以上、責任を果たさねばならなかった。ここで投げ捨てれば、きっと後悔するのは目に見えていた。

 辛い現実を改めて振り返り、倖枝はただ泣いた。


「わかってましたよ……。倖枝さんに、覚悟なんて無いことぐらい……」


 舞夜が正面に立ち、倖枝を見上げた。

 ぼんやりと涙で霞む視界の中、藍色の空を背に少女は立っていた。その呆れるような声は、震えていた。


「貴方は強い人なんですから、逃げられるわけないんですよ!」


 叫び声と共に、舞夜もまた涙を流した。同情の涙ではなく――自身の境遇を嘆いているように、倖枝には見えた。


「帰りましょう……。わたしは、倖枝さんの味方です」


 舞夜は自分の涙を拭うと、手を伸ばして倖枝の分も指先で拭った。

 視界が晴れ、倖枝は舞夜の瞳が――この空と同じ藍色の瞳が見えた。力強い眼差しだった。


「ありがとう……」


 それを求めるように、舞夜を正面から抱きしめた。

 倖枝にはこの辛い状況下で、味方と呼べるべき理解者が居ることが、とても心強かった。一緒に過ちを犯したからこそ、尚更だった。

 空虚だった気分から、ひとまずは現実に向き合えるような気がした。

 いや、逃げずに向き合おうと、倖枝はようやく決心した。


 しばらくして、陽が眩しく昇り――互いに涙が収まった頃、舞夜が苦笑した。


「でも、倖枝さんがわたしをここまで連れてきてくれたのは、嬉しかったですよ」

「その……あんたしか居なかったからね」


 倖枝は照れながらも、正直に答えた。衝動的とはいえ、このようなバカげた行動に付き合わせたことを、申し訳なく思った。


「へー。それじゃあ、ひとつだけ訊いてもいいですか?」


 倖枝は舞夜から顔を覗き込まれた。悪戯や悪意といった意図は無く、純粋な興味本位に見えた。

 藍色は、暗くもあり明るくもある――その狭間なのだと印象付いた倖枝にとって、舞夜の瞳の色がどちらかに傾くような気がした。


「倖枝さんは『どっちのわたし』をここまで連れてきたんですか?」



(第28章『藍色』 完)


次回 第29章『心持』

倖枝は舞夜と海に行く。

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