第073話

 八月二十八日、月曜日。

 倖枝は自宅で咲幸の気配を感じながらも、一度も顔を合わせることなく、週末を迎えた。

 いや、同じ屋根の下で生活をしている以上、手段を選ばなければ顔を合わせることは可能だった。しかし、咲幸から明確な拒絶の意思を突きつけられている以上、倖枝に恐怖が生まれた。倖枝からは動けなかった。


 衰弱しきった心でよく仕事を乗り切ったと、倖枝は思う。もしかすれば、帰宅すれば咲幸が顔を出してくれるかもしれない――その願望が毎日の動機付けきぼうとなっていた。

 本来であれば週末は須藤寧々と過ごしたいところであったが、この日も真っ直ぐに帰宅した。

 ――そして、淡い希望は打ち砕かれた。

 玄関の扉を開けた倖枝を待っていたのは、暗闇のリビングだった。恐る恐る咲幸の部屋の扉を開けても、やはり暗かった。


 午後九時になるというのに、咲幸が居なかった。

 予備校の夏期講習は終わり――今日から二学期がっこうだと、倖枝は思い出した。

 今朝、起きた時には居なかった。咲幸の部屋のクローゼットを開けると、学生服が一着無い。つまり、学校に登校したが、帰宅していないことになる。


 きっと、咲幸本人の意思で家出した。しかし、何かの事故に遭っていないとは言い切れない。夜の街で未成年の少女がひとり、何か危ない目に遭わないとも言い切れない。

 倖枝には、これまでとは別の恐怖が込み上げた。取り乱すことすら許されないほど、絶望的だった。

 だから、幸いにも冷静で居られた。闇雲に探し回ってはいけないと思い、ひとまず携帯電話に通話発信をした。

 だが、発信音が延々と聞こえるだけで、繋がらなかった。きっと、物理的に応答不可能なのではなく、拒絶の意思なのだと倖枝は願った。

 仕方なく発信を切り、警察に届け出ようかと思っていたところ――倖枝の携帯電話が通話の着信を告げた。

 発信主は、風見波瑠であった。


「さっちゃん、無事なのね?」


 倖枝は応答するや否や、開口一番そう訊ねた。時機として、波瑠が咲幸の代理としか考えられなかった。


『はい……。咲幸は現在、うちの部屋に居ます』


 波瑠もまた、挨拶もなく答えた。

 倖枝はひとまず、胸を撫で下ろした。しかし、波瑠に対して何を言えばいいのか、次の言葉が浮かばなかった。少し考えた末――


「……さっちゃんに代わってくれる? 本当に居るのか、信じられなくて」


 まるで人質の生存確認のようだと、倖枝は思った。これまで避けてきたが、現在はそうまでして、咲幸と話したかった。


『すいません。咲幸が嫌がってるんで、それは無理です。……信じられないなら信じないで、お好きにどうぞ』


 波瑠の淡々とした口調が倖枝は不快だが、文句を言える立場ではないと理解していた。

 咲幸には取り入って貰えない。波瑠には取り次ぐ気が無い。この状況で、咲幸に近づくためには、どうすればいいのか。


「波瑠ちゃん……。明日の放課後にでも、会えない? おばさんと、少しお話いいかしら?」


 まずは、波瑠から説得するしかないと思った。


『ええ、構いませんよ。十七時ぐらいに……この前のファミレスでいいですか?』

「わかったわ。それじゃあ、明日……。さっちゃんのこと、よろしくね」


 最後の頼み事に対して何も答えず、波瑠は通話を切った。

 咲幸の家出という最悪の展開を迎えたが、ひとまずは望みを繋げた。

 この夜、ひとりきりの自宅は、恐ろしいほど不安だった。しかし、倖枝は泣かなかった。波瑠から咲幸に、この望みが届くことだけを考えていた。



   *



 八月二十九日、火曜日。

 倖枝は約束通り午後五時、HF不動産販売近くのファミリーレストランに向かった。

 盆休み前に会った時と同じ席に、学生服姿の波瑠が座っていた。わかっていたが、波瑠はひとりだった。

 ドリンクバーでアイスコーヒーを汲み、倖枝は波瑠の前に腰を下ろした。


「さっちゃんを返して」


 波瑠の目を真っ直ぐ見ながら、早々に訴えかけた。


「おばさん……。自分が何をやったのか、わかってるんですか?」


 波瑠は、以前のような神妙な顔つきではなかった。ひどく落ち着いていた。

 まるで、何かの覚悟を決めたような、悟ったような――そのように、倖枝には見えた。

 言葉の内容から、あの日に咲幸が見たものを波瑠は知っているのだろう。そして、それを責められている。恥ずかしいが、それにかまけるわけにはいかなかった。


「確かに、私のしたことは許されることではないわ。……だから、さっちゃんに直接謝らせて」


 信頼を取り戻すには、詫びて反省するしかない。

 倖枝から避けることもあったが、家出という状況になった以上、どれほど怖くても向き合わざるを得なかった。それが一晩考えた結論だった。


「それは出来ません」


 しかし、波瑠に拒否された。波瑠の表情には、僅かな変化も無かった。


「どうしてよ? あんたに関係ないでしょ?」

「関係ありますよ――咲幸は、うちの彼女です」


 波瑠から告げられた言葉に、倖枝の瞳が見開いた。

 信じたくはないが、おそらく事実だろう。昨晩、すぐに波瑠から折り返しの電話を受けたこと、そして波瑠の妙な自信が根拠だった。


「咲幸は、うちが守ります」


 舞夜との自滅により、咲幸が波瑠を選ぶのはおかしくないと、倖枝は思った。いや、きっとそれしか選択肢が無かったのだ。消去法で選ばざるを得なかった。

 些細なきっかけとはいえ、匿って貰うなら、これから咲幸に情が湧く可能性もある。

 最悪の時機だと、倖枝は下唇を噛んだ。以前、舞夜が咲幸の彼女面をしているのが許せないと、波瑠が言った。倖枝にしてみれば、現在の波瑠の態度こそ不愉快極まりなかった。


「それが何よ。私は……さっちゃんの母親よ」


 倖枝はどこか違和感を覚えつつも、そう返した。

 恋人としての交際を始めたばかりの人間よりは、肉親である自分の方が咲幸に近い存在――のはずだった。

 母親であると、堂々と言えなかった。躊躇を勢いで押し切り、大口を叩いた。


「うちには本当におばさんが咲幸の母親なのか、疑問ですけど……。それでも母親を名乗るなら、咲幸の幸せを考えてあげてください」


 波瑠は苦笑した。

 ――図星だった。見透かされたと、倖枝は焦った。

 かつては、咲幸の幸せを第一に考えようとしていた。それが、いつの間にか、自分本位な考えで動いていた。

 その結果、家庭が崩壊した。母親としての威厳だけではなく、名乗る資格すら失ったのだ。


「さっちゃんの幸せは、誰よりも……あんたよりも、考えてるわ。あんたの側じゃ、幸せになれない」


 倖枝には虚勢を張ることで精一杯だった。

 少しでも説得力を持たせようと、鞄から財布を取り出した。一万円札が五枚入っていたので、それを抜いて波瑠の前に差し出した。


「私には、さっちゃんを幸せに出来る財力ちからがあるの」


 咲幸はまだ未成年の高校生であるため、保護者から養って貰う必要がある。家出で保護者から離れるにしても、収入が無い以上は限度がある。

 倖枝は、同じ未成年である波瑠に対し、大人げないとは思わなかった。他人より稼いでいる自信があるので、これが唯一の武器だった。そして、過去より咲幸に対しては、不自由の無い生活を与えることを心がけてきた。

 咲幸と、まともな母娘になりたいと思ったことがある。しかし、あれから――結局のところ、母親としての薄っぺらい『愛情』は何も変わっていなかった。

 出来ることなら、変わりたかった。五枚の現金に目を落とし、倖枝は情けなくなった。


「お金ですか……。確かに、大切ですよね。でも……これで咲幸は守れなかった。これだけでは、咲幸を幸せには出来ません」

「そんなこと、わかってるわよ! こっちから渡すのは、これっきり。足りなくなったら、取りに来させなさい」


 波瑠は倖枝に冷ややかな目を送った後、テーブルの現金を受け取った。


「……さっちゃんのこと、面倒見て貰って悪いわね。あんたのこと認めたくないけど、母親として謝罪とお礼はしておくわ」


 倖枝は座ったままテーブル越しに、波瑠に頭を下げた。

 屈辱だった。頭の中は、怒りに満ちていた。しかし、どのような扱いを受けているのかは分からないが、咲幸が波瑠の自宅で厄介になっているのは事実だ。母親としての誠意を見せるならば、こうするのは道理であると、かろうじて冷静に考えた。


「別に、そう思ってくれなくても結構です。……咲幸に生活費渡すだけで、いいじゃないですか。咲幸のことは、うちに任せてください」


 立ち上がる波瑠を、倖枝は睨みつけた。

 小娘め、そういうことは、ひとりで生活を送れるようになってから言え――喉まで出かかった言葉を、必死に飲み込んだ。


「全部、おばさんの自業自得なんですから……。それじゃあ、失礼します」


 波瑠が立ち去った後、波瑠は髪の毛を搔きむしった。

 以前ここで波瑠からの話を聞いた際は、こちらが圧倒的に有利だった。いや、当時の咲幸には迷いがあったので、実際のところは分からない。しかし、少なくとも波瑠よりは有利だったはずだ。

 それが、あの一件で見事に逆転した。

 苛立つが、波瑠の言う通り、全て自分が悪い。未成年の小娘に貶されても、文句は言えない。怒りの矛先は行き場が無く、振り上げた手を下ろせなかった。

 倖枝は、咲幸が離れた悲しみよりも――現在は、悔しさと情けなさの方が大きかった。


 結局のところ、波瑠の説得には至らなかった。いや、波瑠からの軽蔑と敵対心、そして悪意は想像以上だった。

 預けた金銭が、唯一の成果だった。望みは薄いが、愛情として咲幸に届くのを願うしかなかった。

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