第4部
第28章『藍色』
第072話
八月二十四日、木曜日。
午前七時半に倖枝は起きると、自宅であるマンションに、咲幸の姿はもう無かった。
冷蔵庫の食パンが減っていないのを確認した。朝食を摂らずに、予備校に行ったことになる。昨日も夕飯を食べていない。
倖枝は食パンをトースターで焼き、アイスコーヒーを淹れ、朝食にした。
特に期待をせず、携帯電話のメッセージアプリを確かめた。
『一度、話しましょう。お願いだから、部屋から出てきて』
昨晩こちらから咲幸に送信したものは、既読になっていない。
通話の発信履歴から、咲幸に再発信しようと考えたが――どうせ繋がらないと思い、画面を閉じた。
窓の外の日差しがまだ強い、夏の朝。狭いはずのマンションの一室が、倖枝にはとても広く感じた。
朝食を済ませ、出勤の支度を行った。
自宅を出ようとした、その時――咲幸の部屋の扉の前で、ふと立ち止まった。しかし、躊躇して扉は開けられなかった。
「おはようございます、嬉野さん」
「店長、おはようございます」
「ふたり共、おはよう」
倖枝は出勤後、夢子と高橋と挨拶を交わした。
昨日あのようなことがあったにも関わらず、いつも通り仕事に臨めることが、倖枝は意外だった。心身共に、起き上がれないほどの痛手を負っているはずだった。
いや――最早、諦めの境地に入っていた。
細やかだが、この十七年積み重ねてきたものが、呆気なく崩れ落ちた。この目でそれを確かに見た。
もう元通りに修復できないことを理解しているからこそ、これほど冷静なのだ。まだ、取り乱す状態ならば、どれほど良かっただろうか。
倖枝は自嘲気味にそう思い、仕事に取り掛かった。
午前十時。休日開けのメール確認を行うと、舞夜の物件の買主から、融資審査を通過したとの連絡が入っていた。
これで、正式に売買契約が行えるが――倖枝は喜ぶこともなく、席を立った。
「ちょっと、月城さんのところ行ってくるわ」
店を出ると、自動車で舞夜の館へ向かった。仕事の用件が無くとも、今日中にはこうして向かうつもりだった。
事前の連絡はしていない。通常ならば、予備校の夏期講習を受けているはずだが――今日も休んでいると、倖枝は確信していた。
事実、到着してインターホンを鳴らすと、家政婦から中へと通された。やはり、舞夜は不在ではなかった。
倖枝は館の玄関に入るとすぐ、螺旋階段を降りている舞夜と目が合った。
「……わたしの部屋でいいですか?」
パジャマ姿の舞夜は、なんとも浮かない表情だった。
自分もきっとそうなのだろうと、倖枝は思った。
「ええ」
倖枝は頷き、スリッパに履き替えた。家政婦に茶は結構だと伝え、舞夜の部屋に向かった。
「まったく、いきなり来て――アポ無しなんて、ありえないでしょ。来るなら来るって、言ってくださいよ。もし居なかったら、どうするんですか」
ふたりきりの部屋で、舞夜はベッドにうつ伏せになった。枕に顔を埋め、文句を言っていた。
倖枝はベッドに腰掛けると、舞夜の顔を掴み、覗き込んだ。
「よかった。腫れてもないし、傷も無いわね」
それを確認し、ひとまず安心した。
「……心配するの、それですか?」
「当たり前じゃない。あんたのお父さんに何か言われたら、私どう責任取ればいいのよ」
昨日、舞夜との性交の最中――帰宅した咲幸に目撃された。
激怒した咲幸は、舞夜の頬を握り拳で殴ったのだ。そして、慌てて衣服を着た舞夜を追い出した。
それ以降、こうして再会するまで、倖枝は舞夜と連絡を取っていなかった。
「ごめんね……」
うつ伏せになっている舞夜の髪を撫でながら、倖枝はぽつりと漏らした。
「それ、何の謝罪なんですか?」
「私の娘があんたに暴力を振るったことに、よ」
「要りませんよ……。わたしも悪いですので……」
舞夜は寝返りを打ち、仰向けで嘲笑った。藍色の瞳が、おかしく笑っていた。
自分と同じく自暴自棄になっているように、倖枝は感じた。
「というか『私の娘』と言ってくれてよかったです」
倖枝は言葉を選ばずとも、自然とそう口にしていたことに気づいた。確かに、現在はそのような認識を持ってはいるが――
「わからないのよ、もう……。あの子が、私にとって何なのか……」
それが本心ではあった。
強引な方法で、舞夜から咲幸を奪い取った。あの時は明白に、咲幸を恋人のように捉えていた。咲幸もそうだったと、確かな手応えがあった。
しかし、舞夜とのことを目撃されて以降、咲幸からは拒絶されている。それがあって、倖枝はようやく頭を冷やした。
問題は――あの場面で咲幸が舞夜を殴り、倖枝を選んだことであった。
もしも逆だったのならば、自分が殴られて舞夜が選ばれていたならば、きっとその時点で何もかもが終わっていた。だが、こうして選ばれた以上は、半ば諦めているが、復縁の可能性がゼロではないような気がした。
そう考えるも、咲幸の本心は現在どうなのか、もしも復縁できるなら咲幸を『どちら』で見ればいいのか――倖枝は分からなかった。
「わからないも何も……わたしと倖枝さんのふたりで、咲幸を裏切ったんですよ?」
舞夜の言葉が、倖枝の中の空いていた部分に、すとんと嵌ったような気がした。咲幸が拒絶する理由を、最も的確に言い表していた。
咲幸からはまだ、母娘以外の好意を持たれているのかもしれない。だが、信用は完全に失くしている。相反するふたつのものを抱えているからこそ、分からないのだ。
「それで……これから、どうするんですか?」
「わからないわ……」
倖枝は頭を冷やしたが、咲幸の『女』で居たいという気持ちが全て潰えたわけではなかった。可能ならば、あの時の幸せな気持ちをもう一度味わいたい。
しかし、頭を冷やしたからこそ『母』としての責務を全うしなければならないという気持ちも芽生えた。
ふたつの狭間で、倖枝は揺れ動いていた。自分はどちらを選ぶべきなのか。どちらが、咲幸の信頼を取り戻せるのか――
「……わたしはもう、何も言いません。倖枝さん、貴方の好きにしてください」
舞夜は寝返りを打ち、倖枝に背を向けた。
素っ気ない態度が、倖枝は意外だった。いや、何か意見をしてくれると、期待していた。
舞夜が現在、自分にどう思っているのかも分からない。それよりも、倖枝は――まさか舞夜まで拒絶するのだろうかと、不安が過ぎった。
「ねぇ……覚えてる? この部屋で、あんたと『契約』したのよね」
もしも、舞夜との関係も終わってしまうのなら。倖枝はそのようなことを考えたせいか、出会って間もない頃を、ふと思い出した。
御影歌夜からこの館の売却査定の依頼があり、現地調査として、ひとりで訪れた。そして、舞夜と改めて再会した。
あの時、咲幸への口止めの代わりとして、擬似的な母娘関係を迫られたのだ。脅迫じみていたが。
「そんなことも、ありましたね……。でも、咲幸に知られてしまったからには、あの『契約』はもう無効です。もう、わたしの『遊び』に付き合う必要はありませんよ」
背を向けたままの舞夜からそのように言われ、倖枝は少し不快だった。
確かに、血の繋がりの無い他人と母娘のように振る舞うことに、最初は戸惑った。実にバカげていた。
それでも、次第にそれを受け入れ、舞夜を本当の娘に思うようにさえなっていた。約十ヶ月の時間は、倖枝にとって不利益ではなかった。むしろ、心地よかった。
それを『遊び』で片付けられるのは、なんだか心外だった。
確かに、遊びだったが――共に笑い、共に泣き、少なくとも倖枝は大切な時間を過ごした。舞夜も同じだと思っていた。
「よかったじゃないですか……。倖枝さんはもう、自由の身です」
やはり、舞夜は投げやりだった。ふたりの繋がりを、いとも簡単に手放した。
「あっそ。あー、解放されてよかったわ……。まったく……清々する」
倖枝は大人げなくも、皮肉を漏らして立ち上がった。
苛立っていたが、まだ冷静だった。だから、舞夜の気持ちを考えた。
もしも、倖枝が舞夜から咲幸を奪おうとしなければ――ふたり揃って咲幸から拒絶されることはなかった。自分こそが被害者だと倖枝は思っていたが、舞夜にしてみれば加害者なのだ。
舞夜から恨みを買って当然だった。この態度は無理がないどころか、まだ相手をして貰えるだけ良かったと思う。おそらく、本心は顔すら見たくないだろう。
「……」
とはいえ、倖枝は謝罪をする気にはなれなかった。
咲幸を奪われたことも、咲幸から拒絶されたことも、舞夜に責任があると思う。やはり、自分が被害者だと思う。
「そうだ……あの買主、ローン通ったそうよ。契約にあんたも顔出すのか、私に代理を任せるのか、考えておいて」
後ろめたさを感じながらも、倖枝は仕事の用件を最後に伝えた。
舞夜の返事が無いことを確認し、館を後にした。
*
午後九時過ぎ、倖枝は仕事から帰宅した。
玄関に咲幸のスニーカーがあり、ひとまず安心した。最悪、予備校に行ったまま帰宅しないとまで考えていた。
リビングは明るいが、咲幸の姿は無かった。いつもであれば、夕飯の支度をして帰りを待っているはずだが、ダイニングテーブルには何も置かれていなかった。
物寂しい光景を横目に、倖枝は咲幸の部屋の前に立った。閉じた扉の隙間から光が漏れているので、居るのは確かだ。
「さっちゃん? 帰ってるの?」
扉をノックして問いかけるが、返事は無かった。部屋の中から、物音すら聞こえなかった。
「ねぇ。私と、お話しましょう? さっちゃんが怒ってるの分かってるから……私の言うことも、聞いてくれない?」
倖枝は焦りから、咄嗟に浮かんだ適当な言葉を口にしていた。
もし咲幸が出てきたとして、何を話すのだろう。何を話したところで、言い訳にはならないというのに。
それでも、藁にも縋りたい一心だった。もう一度、咲幸の顔を見たかった。
その願いは虚しくも、届くことは無かった。扉は閉ざされたままだった。
倖枝は思わず、扉の取っ手に手をかけるが――開かなかった。この扉に鍵は無いので、内側から何かで塞いでいることになる。
そこまでの拒絶の意思を突きつけられ、倖枝は瞳の奥が熱くなった。
しかし、ここで泣いてはいけないと思い、ぐっと堪えた。もう、咲幸は受け止めてくれないのだから――『弱さ』を見せてはいけなかった。
かといって、命令口調で怒鳴る真似も出来なかった。母親としての威厳が全く無いことは、倖枝自身がよく分かっていた。
「お願いよ……。部屋から出てきて……」
ただ、か細い声で懇願するしかなかった。
それも届かないと分かった後、倖枝は自室に入った。そして、ベッドで横になり――ひとりで涙を流した。辛くてたまらなかった。
身体は震えど、声を殺した。隣の部屋の人間に、悟られてはいけないのだから。
だから、いくら涙が溢れても、切なさまでは流れ落ちない。それどころか積もるばかりであり、苦しさが増した。
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