第071話

 八月二十八日、月曜日。

 波瑠は三年生の二学期を迎えた。夏休みが終わる憂鬱よりも、夏期講習から開放された喜びの方が大きかった。

 久々に学生服の袖に腕を通し、自宅を出た。八月も終わりだというのに、朝から日差しが強かった。運動から離れたことによる体力の低下が、少し心配だった。

 登校途中、コンビニに立ち寄った。扉の付近に、クロスバイクに跨った咲幸が居た。


「おはよう、咲幸」

「うん……。おはよう」


 咲幸は元気が無いというわけではないが、どこか上の空だった。

 あのようなことがあったので無理もないと、波瑠は思った。

 二学期の初日も、朝食にメロンパンと牛乳を購入した。いつからか、学校生活の日課となっていた。

 咲幸は普段、きちんと自宅で朝食を済ませてくるが、咲幸も同じものを購入した。今日だけではなく明日からもそうなのだろうと、波瑠は思った。


 登校すると、生徒達は夏休み開けの再会を喜んでいた。

 そんな中、波瑠は特定の生徒を警戒し、咲幸とふたりで陸上部の部室に向かった。事実上は引退したが、まだ正式に引退を迎えたわけではない。かろうじて籍が残っているため、部室の利用は問題無かった。

 今日は始業式なので朝の練習は無く、他に誰も居なかった。波瑠は、咲幸とふたりきりになれる空間が欲しかった。蒸し暑い部屋だが、贅沢は言えなかった。

 窓を開けて扇風機をつけると、部室内のベンチにふたりで腰を下ろし、朝食を摂った。

 ふと、咲幸がリュックサックから一通の封筒を取り出した。何かの郵便物のようで、波瑠の目から消印が見えた。


「なにそれ?」

「DNA鑑定の結果……。郵便局で受け取ってきたけど、怖くて見れなくてね……。依頼したのは、あたしなんだけど」


 そういえば、専門の調査機関に依頼を出すと咲幸が言っていたのを、波瑠は思い出した。すぐに試料かみのけを送付したとしても、二日か三日ほどしか経っていない。結果の分かる早さに、驚いた。


「でも、そこははっきりさせておいた方がいいよ」


 咲幸が知りたくないのは無理がないと、波瑠は思った。もしも自分が咲幸と同じ立場なら、勢いで行動するも、やはり結果を知るのは怖いだろう。

 結果次第で、これまでの人生が覆るのだから。


「うちは、違うって信じてる」


 根拠は無い。そうであって欲しいとの願望だ。

 それでも、咲幸の背中を押したかった。


「ありがとう、波瑠。そうだといいね」


 咲幸は苦笑すると、吹っ切れた様子で溜息をつき、封筒を開けた。そして、中に入っていた紙切れを眺めた。


「あたしとあの子が母親違いの姉妹である確率は――十パーセント以下だって」


 結果報告を読み上げると、咲幸は大笑いしてベンチに仰向けになった。頭を波瑠の太ももに載せた。

 調査機関でも、ゼロパーセントと完全には否定できない。しかし、その旨に限りなく近い文言なのだろうと、波瑠は理解した。


「よかった……。種が違ったよ」

「ほら。やっぱり違ったじゃん」


 安堵の笑みを浮かべている咲幸を見下ろし、波瑠も連れられて微笑んだ。

 結果としては良かったが――だからこそ、月城舞夜が嬉野倖枝に固執する理由がわからなかった。

 とはいえ、咲幸の考えていた『最悪の可能性』をこうして回避したので、最早どうでもよかった。深く考えるのは、やめた。


「咲幸さ……うちと付き合わない?」


 久々に咲幸の明るい表情を見たせいか、波瑠は自然に漏らしていた。


「うちは、咲幸のことが好きだよ。ずっとまえから、好きだった」


 そして、ようやく本心を伝えた。咲幸の頬にそっと触れた。

 不思議と、この気持ちが届かない可能性は考えなかった。必ず届くとも考えなかった。これまで塞ぎこんでいたから、ただの自己満足だったのだ。


「たぶん……あたしはまだ、ママのことが好きなんだと思う。どこかで諦められないんだと思う」


 咲幸は嘲笑っていた。

 他でもない、愚かな自分自身を貶しているのだと、波瑠は感じた。

 咲幸の告白には、特に驚かなかった。舞夜と倖枝とを巡る関係を考える内、およそ察していた。その時から――愛する人の言動を、気持ち悪いとは思わなかった。


「波瑠を好きになる努力はするけど……それでもいい?」


 咲幸から、真っ直ぐな瞳を向けられた。

 実にふざけだ提案だが、咲幸なりに至って真剣なのだと波瑠は分かった。


「うん。それでもいいよ。うちは、咲幸を大切にするから」


 波瑠は躊躇することなく、ふたつ返事で頷いた。

 長い時間抱えていた恋心と――同情も含まれていた。

 深く傷ついた親友を、放っておけなかった。自分こそが最も仲の良い存在であり、一番の理解者でもあるのだから。

 これまでふたりで走ってきたように、これからもふたりで走って行こう。確かな実績がある現在、ふたりでならどこまでも走れるような気がした。


「ありがとう……。波瑠は、あたしのこと裏切らないでね」


 咲幸は身体を起こし、隣に座る波瑠と改めて向き合った。

 今にでも泣き出しそうな表情だった。さらに自嘲気味のせいか、言葉とは裏腹に期待していないように、波瑠には聞こえた。最愛の人間から裏切られた現在、仕方ないと思った。


「当たり前じゃん。うちは絶対に、咲幸のこと裏切らないよ」


 それでも、咲幸から頼られる――縋られる、唯一の存在で居たかった。

 自分にとって咲幸がそうであるように、咲幸にとってもそうでありたい。あの時、必死に走る姿に見惚れたように、咲幸の憧れに成りたい。


「――あのふたりと違って」


 この世界は、咲幸とふたりだけで充分だ。だから、咲幸だけは絶対に守る。もうこれ以上、悲しませたくない。

 波瑠はその誓いを確固たるものにするため、咲幸を抱きしめた。

 遠くから、蝉の鳴き声が聞こえた。汗をかくほど蒸し暑い部室で、頭がぼんやりとしていた。将来のことや、咲幸の周辺の不安も、この時ばかりは薄れていた。

 しかし、唇に伝わるこの感触は、確かな現実であった。

 波瑠はこの日、約二年半の時間を得て、欲しかったものをようやく手に入れた。その代わり――


「悪いんだけどさ……。しばらく、波瑠のところにお世話になってもいい?」


 身体を離した後、無気力気味な咲幸から訊ねられた。



(第27章『風見波瑠』 完)


次回 第28章『藍色』

倖枝は、ひとりきりの自宅で空虚感に包まれる。

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