第070話

 一月。高校二年生の三学期が始まり、咲幸の様子が明らかに変だと波瑠は気づいた。


「ねぇ、咲幸。冬休み、月城と何かあった?」


 その程度は訊ける仲だったので、遠慮なく触れた。

 咲幸と舞夜が両者共にぎこちないように、波瑠には見えた。それまでは恋人というより友達関係に毛の生えた程度だったが、友達関係ですら無かった。


「何もないよ……」

「マジで? 月城と別れてたりしない?」


 波瑠は心の底からの願望を、茶化して訊ねた。


「しないよ!」


 咲幸は苛立ちながら否定した。波瑠には言葉とは裏腹に、図星だと明らかであった。

 特に介入することなく、咲幸と舞夜の恋人関係は自然消滅する。波瑠はとても嬉しく、この喜びを共有しようと嬉野倖枝に連絡した。


「もしもし、おばさんですか? ご無沙汰してます」


 咲幸の母親である倖枝もまた、咲幸と舞夜の関係を快く思っていなかった。波瑠にとっては唯一の『味方』であった。

 しかし、その件でハンバーガーショップで対面すると、何かが違った。


「いざ別れるとなったら、やっぱりちょっとは残念よね……」


 決して皮肉ではなく、曇った表情は本当に残念そうだった。少なくとも、以前までの心持ちではないように感じた。

 倖枝の変化が、波瑠には理解不能であった。だが、それが冬休みに倖枝も含め『三人』で何かあったのだと疑わせた。


「咲幸には、もっと相応しい人が居ると思ってるんで」


 倖枝を味方として扱うのは、やめた方がいいのかもしれない。信じられるのは、自分しか居ない。

 波瑠は倖枝と距離を置き、ふたりの破滅をひとりで願った。


 だが、その願いのろいは不幸にも叶わなかった。

 咲幸と舞夜が破局することなく四月を迎え、波瑠は三年生に進級した。最後のインターハイに緊張する中、大学受験が迫っていた。

 咲幸は『母親のように不動産屋で仕事したい』という確かな動機ゆめを持って、法学部を志望していた。

 その一方で、波瑠には将来の夢も無く、咲幸と一緒に居たいだけの理由で同大学の同学部を選んだ。文系、かつ法学部を卒業すれば、何らかの仕事にはありつけるだろうと漠然と思うも――将来のことを考えると、不安であった。


 舞夜の進路を、波瑠は知らない。興味が無い。

 しかし、咲幸と受験の話をしているのを見ると、ふたりが遠くに離れたような不安に襲われた。いや、実際は進路に向き合えない波瑠がひとり、取り残されていたのだ。

 不安を誤魔化すように、インターハイに集中した。


 五月。インターハイの地区予選で波瑠と咲幸は好成績を残し、ふたりとも本選への出場権を手にした。

 咲幸と共に、やり遂げた。波瑠にとっての高校生活の集大成が実り、とても嬉しかった。それだけで充分だった。だが、勝利した以上は、ここで引き下がるという線引きが出来ない。


 八月一日、火曜日。

 飛行機までを使用して、インターハイ本選に遠征した。

 翌日、先に咲幸が予選を走った。しかし、結果は四着であり、決勝進出には僅かに届かなかった。

 走り終え、悔しそうに項垂れる咲幸の姿を、波瑠は観客席から眺めていた。

 居ても立っても居られなくなり、すぐに控室に向かったが、咲幸の姿は無かった。

 控室の周辺を探し回ると――トイレの個室から、すすり泣く声が聞こえた。扉は内側から鍵がかけられ、固く閉ざされていた。


「咲幸は現在までよく頑張ったよ。うちが一番よく知ってるから!」


 波瑠は、扉越しに咲幸を称えることしか出来なかった。

 これまでの咲幸の努力を、最も理解している自信がある。結果はどうであれ、それだけは誰よりも肯定したかった。


「……」


 それでも、扉は開かなかった。すすり泣く声からは、返事すら無かった。

 波瑠はこの『壁』に確かな隔たりを感じた。慰めの手すら届かないのだ。

 同時に、月城舞夜なら届くのだと思った。だが、舞夜はこの地に居ない。咲幸の話によれば、遠くから呑気にインターネット配信を観ているらしい。

 ――波瑠にはそれが、たまらなく腹立たしかった。

 恋人を自称するなら、なぜ居ない? なぜ泣く咲幸を放っておける?

 自分なら、こんなにも近くに居るのに。この現実は間違っている。

 波瑠はこれまで、咲幸と舞夜の自然消滅を望んだ。しかし、望んでいるだけでは何も変わらなかった。

 だから、自分から動かなければいけないと、初めて思った。

 たとえ、誰かから咲幸を奪うことになっても――これ以上、咲幸を悲しませないために。


 万全の状態で走ったとしても決勝に進めたのか、波瑠にはわからなかった。

 酷い精神面では全力を出し切れるわけがなく、波瑠も予選で敗退した。

 怒りの熱が冷めないせいか、悔しさや悲しみは湧かなかった。高校生活の集大成だというのに、何もかもがどうでもよかった。


「お互い、ダメだったね」


 控室に戻ると、咲幸が迎えてくれた。苦笑しているが――目は腫れ、頬には涙の乾いた跡があった。

 波瑠は、この短時間で咲幸が吹っ切れたとは思えなかった。自分のために無理をしてると思い、申し訳なかった。

 もたれかかるように、正面から咲幸を抱きしめた。


「……うちら、よくやったよ」


 咲幸と出会い、ふたりで走り――陸上部の活動は幕を下ろした。この時間は、波瑠の高校生活でかけがえのないものだった。最も大切な思い出となった。

 咲幸が居たからここまでやってこれたと、波瑠は思う。咲幸の、負けたくないというひたむきな姿に、手を引っ張られた。

 そして、これからも引っ張って欲しいと思えた。これから訪れる大学受験や将来のことを考えると、不安だったのだ。

 現在はこの腕の中にあるように――咲幸を誰にも渡したくない想いが、強くなった。


 その日のうちに、陸上部一同は地元へと帰った。

 深夜、ようやく駅に到着すると、ロータリーに嬉野倖枝が咲幸を迎えに来ていた。

 波瑠はその姿を見て、倖枝をもう一度信じてみようと思った。舞夜から咲幸を奪うにあたり、やはり咲幸側にあたる味方が欲しかった。


「おばさん――」


 自動車に咲幸の荷物を積んでいる倖枝に、波瑠は近づいた。衝動的な行動だった。


「すいません――何でもないです」


 しかし、冷静になり、思い留まった。自動車には咲幸本人が居る他、この時間帯は失礼だと思った。

 本心を言い出せないまま、嬉野母娘を見送った。


 八月三日、木曜日。

 インターハイの翌日にも関わらず、波瑠は予備校の夏期講習へと向かった。部活はもう無いので、仕方なく足を運んだ。

 まどろみの中、心地よい夢でも見ているかのようにように、頭がぼんやりしていた。インターハイが終わったことも、ただの受験生になったことにも、実感が湧かなかった。気持ちの切り替えには、まだ時間が必要だと思った。

 勉強は嫌いだが、咲幸と会えると思うと嬉しかった。それだけが、予備校に通う動機付けだった。


「おはよう、波瑠!」


 教室には、既に咲幸が居た。咲幸は部活動の時と同じく、明るく元気だった。


「お、おはよう……」


 その様子に、波瑠は戸惑った。自分と違い、咲幸はこの短時間で受験勉強に気持ちを切り替えているのだ。

 まるで、インターハイなど最初からどうでもよかったかのようで――波瑠は寂しかった。だが、あのすすり泣く声は現実だったと、信じた。


「おはよう、咲幸……。部活、二年半ぐらいかしら……お疲れさま」


 しばらくして、舞夜が現れた。

 波瑠の耳には、実に説得力の無い言葉に聞こえた。貶しているかのようだった。


「ありがとう、舞夜ちゃん……。サユ、頑張ったよ」


 しかし、咲幸は立ち上がり、舞夜から抱擁を受けた。

 予備校の教室だが、他人には仲の良い友達がじゃれ合っているように見えるだろう。きっと、傍からでは何気ない光景だ。ふたりが恋人であることを知る波瑠のみ、気分が悪かった。

 波瑠は咲幸と同じという理由だけで、この予備校を選んだ。舞夜も同じ理由でこの場に居ても、不思議ではなかった。自宅で家庭教師を付ければいいのに、わざわざ予備校にまで来ることが、猶更だった。

 一日の講義後、三人で自習室を利用した。だが、咲幸と舞夜のふたりで居る様子を見せられ、波瑠は不快だった。


「ごめん。親に早く帰ってこいって言われたから、うち先に帰るわ」


 適当に理由を作り、その場を離れた。『敗者』の惨めな気分を味わった。

 咲幸は笑顔だが、きっとまだ、ひとりで泣いている――距離を置いたからこそ、インターハイでのトイレでの出来事が、波瑠の頭に浮かんだ。

 舞夜を相手に気丈に振舞っているだけだと思い、居た堪れなかった。そして、一刻も早く舞夜に対して手を打たなければいけないと思った。


 八月七日、月曜日。

 波瑠はこの日も、予備校からひとりで帰った。

 咲幸が舞夜と居ることを確認し、倖枝の元を訪れた。事前に連絡はしなかった。それほどまでに、舞夜の存在に追い詰められていた。


「おばさん……。うちが咲幸を貰ってもいいですか?」


 きっと、倖枝なら理解してくれる。倖枝なら味方になってくれる。波瑠はそう信じた。

 咲幸への気持ちを、初めて誰かに口にした。


「でも、舞夜ちゃん……月城さんがさっちゃんに告白して、ふたりが付き合った。モタモタしてたのは、波瑠ちゃんよね?」


 しかし、倖枝の反応は予想外だった。驚かないどころか、責められた。


「月城が咲幸の彼女面してるのが、許せなくなっただけです」


 舞夜の言動を貶すが、倖枝はそれを肯定しなかった。

 即ち、否定であり――舞夜の味方なのだと、波瑠は感じた。


「悪いわね。私は誰の味方でもないの。……さっちゃんが幸せなら、誰とお付き合いしようと構わないわ」


 そうは言うが、倖枝の魂胆を波瑠は見透かしていた。

 裏切られた気分ではなかった。もう一度信じようとした自分が、情けなかった。


 咲幸の唯一の肉親である倖枝は、舞夜の味方だ。

 波瑠は、圧倒的に不利な状況に置かれた。だからこそ、咲幸に気持ちを伝える頃合いを、慎重に計っていた。


 八月二十二日、火曜日。

 夏期講習および夏休みが終わりに近づいているこの日、朝から波瑠の携帯電話がメッセージアプリの受信を通知した。


『ママが夏風邪っぽいから、今日は一日、看病しておくね』


 今日は咲幸が予備校を休むようだった。この事情なら仕方ないと、波瑠は思った。

 咲幸が居ないなら予備校に行きたくないが――そういうわけにもいかないので、仕方なく向かった。

 予備校には、月城舞夜も律儀に来ていた。咲幸を交えて三人で話すことはあるが、憎むべき相手と直接話すことはこれまで滅多に無かった。

 この日も結局、舞夜と一言も交わすことは無かった。


『おばさん、どう? 大丈夫?』


 波瑠は倖枝の体調など、どうでもよかったが、咲幸に心配している素振りを見せるためだった。休憩時間に、メッセージアプリで訊ねた。

 しかし、このメッセージには、いつまでも既読マークがつかなかった。


『何かあった? 心配なんだけど』


 催促のメッセージもまた、予備校から帰宅してもなお、同じであった。

 波瑠の頭に、倖枝の容態が深刻だという懸念は一切無かった。ただ、返事の無い咲幸が心配だった。

 痺れを切らして電話をかけるが、やはり繋がらなかった。

 勉強に手がつけられず、波瑠は不安な夜を過ごした。


 八月二十三日、水曜日。

 午前七時、携帯電話のアラームで波瑠は目を覚ました。

 いつの間にか寝てしまったのだと、すぐに理解した。寝不足のため眠気は凄まじいが、思考はすぐに働いた。それほどまでに、浅い眠りであった。

 携帯電話のアラームを止めると、画面にはメッセージアプリの通知を表示していた。


『ママ大丈夫だから、今日は予備校行くよ』


 咲幸からの言葉が、波瑠はとても嬉しかった。音信不通が長時間続いたことの詫びや説明が無くとも、構わなかった。

 エナジードリンクを一本飲み干すと、波瑠は浮かれた気分で予備校に向かった。


「波瑠、おはよう!」


 咲幸は目に隈を作りながらも、明るく元気だった。

 母親を心配する様子は微塵も無かった。看病の末、すっかり良くなったのだろうと波瑠は思った。

 今日は咲幸の顔を見られただけでなく、舞夜の休みも重なり、幸運だった。舞夜は以前、寝坊で遅刻したことがある。咲幸が言うには、今日は家庭の事情で休みらしい。

 その真偽は波瑠にとってどうでもよかったので、疑わなかった。インターハイ以降、咲幸とふたりきりになれたので、浮いた気分だった。


「咲幸はさ……月城さんの、どこが好きなの?」


 だから、昼食時にふと訊ねてしまった。きょとんとした咲幸の表情に、あまりに唐突だったと後悔した。

 とはいえ、それが波瑠の疑問であるのは事実だ。この夏休みで、咲幸と舞夜の仲が明らかに良くなっている。悔しいが、以前に比べ、波瑠の目からも恋人のように見えていた。


「うーん……。何だろうね。そういうの、あんまり考えたことないや」


 言葉の割に、咲幸は恥ずかしそうにはにかんだ。舞夜を好きだという感情は、やはり本物のようだ。


「なにそれ。本当に付き合ってんの?」

「付き合ってるよ! 超好きだよ! ……でも、何て言うのかな。舞夜ちゃんは、カノジョとはちょっと違う感じなんだよね」


 波瑠は、咲幸の弁解を理解できなかった。恋人で無いに越したことは無いが――そういう意味合いには捉えられなかった。


「サユは片親だし、あっちも似たようなもんだから……。親近感が湧くっていうか……」


 咲幸がそう付けたし、波瑠はようやく理解した。

 確かに、恋人とは違うかもしれないが――それがふたりの共通点となっているなら、絆は恋人以上に、なお深いものとなる。

 そう。波瑠は一般家庭で何不自由なく育った身として、理解できない身として、付け入る隙は無いに等しいのだ。


 諦めざるを得ない絶望感が押し寄せると同時、舞夜はこれを狙って咲幸に近づいたのだろうかと、ふと思った。

 もしも、そうだとするのなら、舞夜の真の狙いは――倖枝の心境の変化は――

 波瑠の中で、ある予感が芽生えた。今日この場に舞夜の姿が無いことが、更に根拠づけた。


「波瑠? どうしたの?」

「いや……何でもない……」


 波瑠は、息を飲んでいた。咲幸が無邪気に首を傾げるが、まだ状況が整理できないため、何も言えずに居た。


 午後からの講義は、波瑠は全く頭に入らなかった。

 咲幸、舞夜、そして倖枝。突然芽生えた予感を深掘りする内、波瑠の中で、三人に渦巻くものが綺麗に繋がった。

 しかし、確証は無く、あくまでも個人の推察に過ぎない。願望も混じっている。だから、咲幸に話したところで説得力が無い。

 それでも、この推察が正しいのならば、おそらく現在の舞夜は――


「咲幸さ……。今日はもう、帰ったら?」


 午後三時の休憩で、波瑠は込み上げるものを抑え、そう提案した。


「え? なんで?」


 突然のことに、咲幸は白けながら戸惑った。

 この反応は当然だ。だが、これが波瑠のせめてもの『答え』であった。


「おばさん、風邪ぶり返してるかもしれないよ?」

「ううん。もう大丈夫だから心配ないって」

「そうは言っても、夏風邪ってしつこいからね……。ちゃんと温度管理と水分管理できているのか、本人以外が注意しないと」


 波瑠は、もっともらしく適当な言葉を並べた。

 説得材料になるのか不安だったが、咲幸は難しい表情で一考しているようだった。

 しばらくすると、鞄を持って立ち上がった。


「まあ、言われてみたらそうかもね……。後は現代文だし、今日は帰ることにするよ」


 咲幸は聞き入れたようだった。

 残りの講義が咲幸の得意な科目であるのも、幸いだった。


「おばさん、お大事にね」


 波瑠は、早退する咲幸を見送った。

 酷だが――これで、咲幸に『現実』を見せられるはずだ。これで、舞夜から咲幸を奪えるはずだ。

 波瑠には罪悪感が無かった。悪いのは、全て舞夜なのだから。


 午後四時過ぎ、波瑠の携帯電話に咲幸から通話の着信があった。

 波瑠は携帯電話を手に、教室を出た。

 そして、自分の推察通りであったことが分かった。

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