第27章『風見波瑠』

第069話

 二年前。

 高校に入学した風見波瑠は、中学校に引き続き、バスケットボール部への入部を考えていた。身体を動かすことが好きであり、そして恵まれた身長を活かせるからであった。

 しかし、四月の体験入部で躊躇が生まれた。部の雰囲気が肌に合わなかったのだ。

 強豪校であるため勝利へのこだわりが強く、部員達はそのために練習に励んでいた。波瑠は、常に張り詰めた空気から『熱血』や『真面目』だと感じた。

 部活の姿としては、間違っていない。むしろ、本来のあるべき姿であると波瑠は思う。

 波瑠としても、敗北よりは勝利が欲しいが――その程度であった。

 中学校で三年間、中堅止まりの部活チームに属していた波瑠は、勝利に対しそれほど強いこだわりは無かった。その代わり、和気あいあいとした雰囲気を好んだ。


 この部活に加わりたいがために、この学校に進学したわけではない。先輩達からの期待は厚いが、仮入部状態の波瑠には、正式に入部するつもりはなかった。

 体裁を重視する波瑠は、すぐに断らなかった。『馴染もうと努力したが合わなかった』という体に運びたいため、他所の部活を眺めながら惰性で仮入部を続けた。

 高校に入学した四月。新しい季節だというのに、実につまらなかった。


 波瑠がそれを見たのは、四月の下校時だった。

 正式な入部の催促を躱しつつも、バスケットボール部の活動を終えて帰宅しようとした。

 どの部も、活動を終えた時間帯だった。夕陽に照らされた屋外運動場は、生徒の数も疎らだった。


 その中で、波瑠の目を引いたものがあった。

 百メートルのトラックだろうか――短距離トラックを、ひとりの小柄な生徒が走っていた。

 嬉野咲幸だった。

 同じクラスという他に、バスケットボール部の体験入部に一緒に参加したから、名前を覚えていた。

 咲幸は早々にバスケットボール部を去った。波瑠と同じく中学校での経験者らしいが、この強豪校では身長の壁に阻まれた。

 とはいえ、絶対に活躍できないわけではない。ドリブルやパス等のボール運びに特化した貢献も可能だが、それには高い技術を要する。そして、既存の部員の位置としても――活躍は現実的ではなかった。

 部から歓迎された波瑠とは反対に、咲幸は追い出されたかたちとなった。

 あれから陸上部で頑張るつもりなのだと思いながら、波瑠は運動場を横切った。


 それから何日も、波瑠は同じ光景を目にした。咲幸の走る姿を眺めながら、下校した。

 運動場にスポーツタイマーが無ければ、波瑠の手元にストップウォッチも無い。具体的な記録タイムは分からないが、早いわけではないと波瑠は感じた。

 かといって、遅いわけでもない。おそらく、高校一年生の女子としては平均より僅かに早い程度だろう。

 鍛錬を積み重ねれば伸びる可能性はあるが、それでも『壁』は近いと波瑠は思った。

 バスケットボールと同じく、短距離走も脚の長い高身長が有利な競技であった。咲幸は体格を理由にバスケットボールを諦めたというのに、体格で不利な競技に挑んでいた。

 その動機が、波瑠にはわからなかった。


 それが少しだけ理解できたのは、波瑠が新しいクラスに少し馴染んだ頃だった。

 嬉野咲幸は、どちらかというと『柔らか』な人物だった。常に笑顔で人当たりが良く、また面倒見も良いことから、誰からも好かれていた。

 クラスでの咲幸は、波瑠の目には小柄で可愛らしく映っていた。決して、争いを好むようには見えなかった。

 だが、放課後に走る咲幸は、まさに競技者そのものであった。

 己と対峙する咲幸は緊張感を張り詰め、常に真剣だった。普段の咲幸からは考えられないほど、勝利への執念が尋常ではない気迫だった。

 皮肉にも、バスケットボール部に最も適した人物を追い出したのだと、波瑠は思った。

 競技への姿勢は素晴らしい。しかし、結果は伴わなかった。

 それでも、咲幸は走ることを止めなかった。諦めることなく、表情は焦燥に駆られていた。

 きっと、バスケットボール部を続けていたところで、これと同じだっただろう。あちらは集団競技であるため、足を引っ張るまいと引き下がったのだと波瑠は思った。


 ひとりで幾度も走るその姿に、波瑠は惹かれていた。

 波瑠自身は気づいていないが、咲幸が自分に無いものを持っているからであった。諦めることなく必死に努力する姿は、退屈に学校生活を送っていた波瑠を駆り立てた。


 毎日眺めているから――もうひとつの視線に、波瑠は気づいた。

 校舎の窓から、長い黒髪の生徒が咲幸を眺めていた。クラスは違うが、彼女とは同学年であり、上品で淑やかなその生徒は学校内の有名人であった。

 月城舞夜。あの月城住建の令嬢が、波瑠と同じく咲幸を眺めていた。

 波瑠は舞夜と一言も喋ったことが無いので、彼女のことを知らない。舞夜が咲幸と絡んでいるのも、見たことが無い。

 しかし、咲幸を見つめるその瞳は、自分と『同じ』であると、波瑠は分かった。


 結果的に、その存在が波瑠の背中を押した。舞夜より先に動かざるを得なかった。


「うっす、嬉野さん。いきなりだけどさ、うちと一本走ってくんない?」


 波瑠はその日、バスケットボール部を休んだ。Tシャツとショートパンツ――バスケットボール部用の練習着に着替え、咲幸の前に立った。

 咲幸から怪訝の眼差しを向けられた。

 練習の邪魔をしたからだろう。そして『バスケットボール部のクラスメイト』という目で見られているように、波瑠は感じた。


「別に……いいけど……」


 断る理由が無いのか、咲幸は仕方なく頷いた。

 まだ仮入部のようで、咲幸の格好も波瑠と同じだった。ランニングウェアでもなければ、スニーカーも普段履きのものであった。

 条件に差は無い。波瑠は準備運動アップを終えているので、そのままスタート位置についた。

 トラックに設置されているスターティングブロックを使用するのは初めてだった。クラウチングスタートの経験も無いが、現在まで見てきた咲幸の見様見真似で構えた。


「そっちのタイミングでいいよ」


 この場に第三者は居ないので、波瑠は走り出す合図を咲幸に任せた。


「よーい……ドン!」


 慣れない姿勢と口頭の合図により、波瑠は出遅れた。咲幸の背中が見えた。

 しかし、それも僅かな時間だった。すぐに追い抜き、咲幸より先にゴールラインを踏んだ。

 測定器具が無いので、何秒差だったのかは分からない。波瑠が感じた背後の気配としては、最終的にはおよそ人間ひとり分の距離だった。

 基本的な運動能力――そして体格の差による、僅差での辛勝。波瑠は、勝ち誇るつもりはなかった。


「もう一回!」


 咲幸は悔しそうな表情で、再戦を希望した。

 その後、波瑠はさらに二度、咲幸に付き合った。合計三度走ったが、全て波瑠の勝利だった。

 三度目を走り終え、咲幸は疲れたと言わんばかりに、両脚を広げて地面に座った。波瑠も、隣にしゃがんだ。


「風見さん……だっけ? あんた、ムカつくね。バスケだけじゃなくて短距離走これでもあたしを負かして、嬉しい?」


 咲幸は言葉とは裏腹に、放心したような表情だった。

 どこかすっきりしたように、波瑠には見えた。


「うん。だって、わからせるつもりで走ったもん。負けず嫌いの心をへし折るには、これが一番だから」

「はは……。そこまで言われたら、世話ないね」


 波瑠は、自分が勝つことに自信があった。そのうえで咲幸に接触した。

 執念で努力に励む姿は、確かに素晴らしい。しかし、努力だけではどうにもならないことがある。

 それを口頭で伝えたところで、納得して貰えないとわかっていた。だからこそ、立ち上がれないまでに潰した。


「どうする? 他の部活、考える?」


 波瑠は確認の意味で訊ねた。咲幸の回答はわかっていた。


「ううん。高校は走ることにするよ。思ってたより気持ちいい」


 やはり、波瑠の思っていた通りだった。ここで引き下がるような人間ではないと思っていた。

 だが、方向は変えるべきだとも思っていた。いくら負けず嫌いとはいえ、いつまでも不利な条件で足掻くのは間違っている。


「嬉野さんは、長距離の方が向いてると思うよ。だからさ……短距離は、うちに譲ってくれない?」


 波瑠は咲幸に右手を差し出した。

 咲幸は驚いた後、笑顔でそれを掴んだ。

 小さな手の温もりを感じながら、波瑠は咲幸を引き上げるように、一緒に立ち上がった。


「いいよ。でも、半端な結果タイムだと許さないからね?」

「うん。うちなりにガチでやるから、嬉野さんもね」


 波瑠は咲幸の走る姿に感化され、陸上部に興味を示していた。

 事前の調査では、この学校の陸上部の成績は、あまり振るわないらしい。自分も咲幸もまだ初心者だが、咲幸と共に盛り上げたいと、波瑠は思った。


 その後、波瑠は咲幸と共に陸上部に入部した。

 ひとまずは、これでよかった。いや、手を打ったつもりだった。

 波瑠は月城舞夜を出し抜き、咲幸との共通点を作ったのだ。それ以降も舞夜は陸上部の活動を眺めることはあったが、咲幸に近づくことは無かった。


 波瑠の咲幸を見る目は、最初は『憧れ』だった。そして、咲幸の二面性ともいうべき負けず嫌いな顔を知り、独占欲が湧いた。自分が咲幸の一番の理解者であると自覚した。

 その結果、やがて『恋心』へと昇華する。

 しかし、波瑠は咲幸に気持ちを伝えなかった。伝えずとも、誰からも干渉されない、ふたりの世界が出来上がっていたのだ。『同じ部活動の仲間』という関係のみで、波瑠は満足していた。

 波瑠も咲幸も、練習を続ける内に成果が出た。インターハイはふたり共、二度の地区予選敗退を味わったが、この調子なら三度目は本選に出場できる気がした。

 咲幸と共に確かな成長を感じ、希望を抱え――それが波瑠にとっての青春だった。


 だが、ふたりの世界は二年生の秋に終わりを迎える。第三者が土足で上がり込んできたのだ。


「サユ、舞夜ちゃん……月城さんにコクられちゃった。初めて彼女できたけど、どうすればいいんだろ?」


 嬉しそうに浮かれた様子の咲幸から、酷な現実を告げられた。


「お、おめでとう……」


 この時初めて、波瑠は己の行動を悔いた。月城舞夜が憎いが、それ以上に自分が悪いと自覚した。

 結局のところ、波瑠には咲幸のような執念が無かった。生半可な満足感で妥協していた。

 咲幸には、自分に無いものを持っていたからこそ憧れ――だからこそ、それは近いようで遠い存在だったのだ。

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