第068話

 八月二十三日、水曜日。

 汗を流し、水分と食事を摂り、そして汗を流した。陽が昇り、陽が沈み、そして陽が昇った。

 午前八時。倖枝が咲幸と気持ちを交わしてから、二十四時間が経過した。


「今日は予備校行ってくるよ」


 シャワーを浴びた咲幸が、出かける準備をしていた。

 Tシャツとショーツのみを着た倖枝はリビングのソファーに座り、それを眺めていた。ぼんやりとした頭で、元気だなと思った。

 咲幸から、飲みかけのスポーツドリンクのペットボトルを手渡された。それを口にすると、乾いた喉を通り、身体中が潤った気がした。


「それじゃあ、行ってくるね」


 リビングを出る際、咲幸が振り返った。倖枝と目が合い、恥ずかしそうにはにかんだ。

 そんな様子が、倖枝にはとても可愛く見えた。


「いってらっしゃい」


 優しく微笑み、見送った。

 ひとり残された倖枝は、スポーツドリンクを片手に、気だるそうに立ち上がった。Tシャツを脱ぎながら、浴室へと向かった。

 頭がぼんやりするが、それは睡眠不足と疲労からだ。風邪のような気だるさはもう無かった。

 気分は晴れていた。いや、まるで心にぽっかりと穴が開いたような空虚を感じていた。

 冷たいシャワーを頭から浴び、昨日のことを振り返った。


 ――咲幸と『女』としての気持ちを確かめた。

 いくら不安だったとはいえ、度を越した行動だったと、現在になって思う。

 幸いにも、咲幸には迷いがあった。そこに、強引に押し入った。

 結果的に報われたとはいえ――倖枝は『やり方』から、自己嫌悪に打ちひしがれた。しかし、それも咲幸が予備校に行っている間の一時的なものだろうと思った。

 それに、綺麗事を言っている場合ではなかった。どのような手段を用いても咲幸を手に入れなければ、舞夜や波瑠に傾いていたかもしれない。迷っていた咲幸は、非常に危うい状態だったのだ。


「……」


 倖枝はシャワーを止め、前髪をかき上げた。

 鏡に映った自分の顔には、もう不安に怯えていなかった。とても逞しく見えた。


 倖枝は、洗濯機を回して浴室から出ると、冷蔵庫を開けた。時刻がまだ午前九時前であることを確かめ、缶ビールを手に取った。現在から酒を飲んでも、夕方の買い物には行けるだろうと判断した。

 空腹感は無く、缶ビールを一本飲み干した頃には、眠気が押し寄せた。洗濯を干し終えると、自室のベッドに倒れこんだ。


 死んだように眠っていたが、インターホンが鳴って目が覚めた。

 倖枝は居留守を使おうとした。しかし、時刻が午後三時――そろそろ買物に行かないといけないため、仕方なく起きた。

 インターホンのカメラには、月城舞夜が映っていた。カメラを見上げることなく、正面の扉を静かに見据えていた。

 予備校を早退した、もしくは休んでいたと倖枝は思った。どちらでもよかった。咲幸の居ないこの時間帯にわざわざ訪れるということは、自分に用件があるのだと理解した。

 倖枝はマイクで応えることなく、無言でマンションの入口を解錠した。

 舞夜がどのような用件で訪れたのかは、わからない。しかし、咲幸に関して揉めた以上、舞夜と顔を合わせるのはこの先、避けて通れないと思った。

 それに、逃げるなと言われたこと、そして実際に逃げたことが――倖枝の中で、尾を引いていた。

 Tシャツとショーツ姿だったので、スウェットパンツを履いた。部屋の鍵を開け、舞夜を待った。


「お久しぶりです――倖枝さん。夏風邪だと伺ってましたが、元気そうですね」


 やがて、舞夜が姿を現した。

 笑顔ではない、どこか儚げな表情。長い黒髪とネイビーのワンピースが、落ち着いた雰囲気を出していた。

 黒いハンドバックを正面で握る右手の小指には、黒猫の指輪が嵌っていた。最近見ていなかったので、倖枝の目についた。


「咲幸なら、私を選んだわよ。残念だったわね」


 倖枝はソファーに座ったまま舞夜を見上げ、事実を告げた。

 舞夜の表情に、一切の変化は無かった。肯定、否定、疑念、そのどれもが見受けられなかった。藍色の双眸を、静かに向けられた。

 倖枝としては、舞夜に勝利宣言をしたいわけではなかった。


「これでもう、お終いよ。だから、私と……母娘ゴッコに戻りましょう。あんただって、それがいいんでしょ?」


 倖枝は逃げずに、本心を伝えた。

 舞夜には、咲幸を諦めて貰い――関係の修復を望んでいた。

 まるで本当の娘のようなこの少女を、彼女の心地良さを、つまらない対立で手放したくなかった。


「……」


 舞夜は返事をすることなく、無言でソファーに近づいた。

 そして、倖枝を仰向けに押し倒した。


「貴方という人は……本当に、最低ですね」


 倖枝は、顔を覗き込む舞夜から、憐憫の眼差しを注がれた。

 そして、唇をそっと重ねられた。僅かな接触の、実に軽いキスであった。


「どうしようもないビッチには、こうするしかありません……」


 舞夜は左脇のサイドファスナーを下ろすと、ワンピースを頭から脱いだ。それに続いて、キャミソールも脱ぎ捨てた。

 真夏の午後。冷房の効いたリビングで、少女の乳房が明るみになった。


「弱さも寂しさも、咲幸には埋められませんよ……わたしじゃないと……」


 馬乗りになった舞夜の――藍色の瞳が、嘲笑っていた。

 ロジーナ・レッカーマウル。美食家の魔女としての姿を、倖枝は久々に見た。


「あんたじゃないのよ。私には――咲幸が居る」


 倖枝は言葉では否定するものの、内心では妖艶な少女に揺れ動いていた。背筋に何かが走るのを感じた。

 そのような倖枝を舞夜は見下ろし、口元も笑みを浮かべた。


 とても激しい性交だった。否、倖枝は少女から一方的に犯されていた。

 この時ばかりは、何もかもを忘れていた。悔しいが、少女の言った通りだった。肌が触れ合い、汗が流れ、性欲の果てに――満たされていた。


「あんた、私とこんなことしていいの? 自称、咲幸の彼女なんでしょ?」


 倖枝は舞夜を煽ったつもりだった。少しでも感情を刺激し、少しでも激しさを欲した。


「……何を勘違いしてるんですか? わたしは咲幸と、恋人になりたいわけではありませんよ」


 すぐに舞夜から舌を絡められ、倖枝はその言葉を理解する余裕は無かった。

 藍色の瞳に、恍惚の笑みを浮かべた自分が映っていた。

 それは倖枝に、汚く濁った水槽を彷彿とさせ――この少女と出会った頃を思い出させた。


 あの時も、そうだった。

 咲幸がこの部屋に、舞夜を連れてきたのだ。咲幸がコンビニに出かけている間、舞夜からソファーに押し倒された。

 あの時はまだ、抗った。しかし、現在はこの魔女を受け入れ、藍色の水槽で溺れていた。


 ずっと――永遠に溺れていたいとさえ思えた。

 弱い女どころではない。最低の人間であると、倖枝は自負していた。

 それでもよかった。昨日とは別の快楽だった。

 舞夜と咲幸で、違う箇所は多数ある。そのひとつが『背徳感』であることを、倖枝は気づいていない。

 この場に咲幸は居ない。咲幸に知られたくない。その願い通り、咲幸に知られることはない。

 咲幸の帰宅は、早くても午後五時以降だろう。午後四時の現在、絶対に安全だった。

 倖枝は快楽に溺れた現在、断片的に時刻を把握していた。

 そう。何かを考える余裕など、倖枝には無かったのだ。


 だから――玄関の扉が開いた音が聞こえても、身体を動かすことを止めなかった。

 リビングの扉が開いても、舞夜を求めていた。


「……何してるの?」


 ぽつりと聞こえた声と共に、視界の隅に影が映り込み、倖枝は我に返った。舞夜もまた、振り返った。


 リビングの扉に、咲幸が立っていた。


 咲幸の頬を伝う汗が、倖枝にはまるで涙を流しているように見えた。しかし、咲幸の見開いた瞳は、とても涙を流すようには見えなかった。

 静かに立ち尽くした咲幸は、ソファーの『ふたり』を眺めていた。


「離れろ……」


 呆然でもない。絶望でもない。小刻みに震えた身体は、怒りを示していた。

 舞夜が怯えるのを、倖枝は感じた。倖枝としても、ここまで怒っている咲幸を見るのは初めてであり、恐怖すら覚えた。


「さゆき――」


 だから、倖枝が制止しようとしたのは、反射的な行動だった。この状況がどうにもならないことは、頭のどこかで理解していた。

 やはり、その声が届くことはなく――少女の静寂は破られた。咲幸は鬼のような形相で怒鳴った。


「今すぐそこから離れろ! あたしの女に手を出すな!」



(第26章『女』 完)


(第3部 完)

https://note.com/htjdmtr/n/n5ffb931cf768


次回 【幕間】第27章『風見波瑠』

夏休み、波瑠は咲幸と共に予備校の夏期講習に通う。

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