第067話
倖枝は夢子と高橋に、夕方、月城の館で一悶着あったことを伏せておいた。言えるはずが無かった。
怒りの感情を水面下で抑え、一日の仕事を終えた。
「ママ、おかえり」
帰宅すると、風呂上りの咲幸が夕飯の支度を行っていた。
いつもより早く、予備校から帰ったようだった――舞夜が先に帰ったので自習を早めに切り上げたのだと、倖枝は理解した。
ここでも舞夜の影が見え隠れし、いい気がしなかった。
「どうしたの?」
「……な、なんでもないわ」
表情に出ていたのだろうか。咲幸から首を傾げられ、倖枝は慌てて苦笑した。
シャワーで汗を流した後、咲幸と夕飯を囲んだ。おろしソースのハンバーグだった。
「今日、舞夜ちゃんとお仕事のお話だったんでしょ? どう? 上手くいった?」
ふと、咲幸から訊ねられ、倖枝は胃のあたりが鷲掴みにされたような感覚に襲われた。ハンバーグが喉を通らなくなり、箸を一度置いた。
咲幸は無垢な笑みを浮かべていた。
おそらく、口論になったことを舞夜から聞いていないのだろう。舞夜としても、話す人間ではない。
ただの興味本位で訊ねているのだと、倖枝は理解した。
「ええ。お仕事の方は順調よ」
倖枝もまた、話せるはずが無かった。笑顔を作り、頷いた。咲幸は仕事内容を知らないので、それだけで充分だ。
「それはよかったね!」
咲幸は嬉しそうに笑った。
しかし、それは『どちらの意味』で良かったのか、倖枝には分からなかった。倖枝にとってなのか、もしくは舞夜にとってなのか――疑念が生まれた。
「ねぇ。さっちゃん……」
お盆休み、どこに行っていたの? どうして行先を言ってくれなかったの? 舞夜ちゃんのこと、どう思っているの?
それらを訊くだけで、よかった。
夕方の舞夜の発言を、倖枝は否定した。だが、頭から離れなかった。まだ、どこかで引っかかっていた。
だから、咲幸にも否定して欲しかった。咲幸本人の意思が、何よりも根拠になる。
「……」
しかし、倖枝は訊ねることが出来なかった。
咲幸の気持ちを知ることが、怖かった。
咲幸が舞夜ではなく自分を選ぶことに、かつての倖枝は確信があった。
間違い無いはずだったのに――デートの様子をこの目で確かめ、そして舞夜の発言から、不安が生じていた。
もしも、自分ではなく舞夜を選ぶのなら。悪い可能性を考えてしまい、倖枝は動けなかった。
「どうしたの?」
「ううん……。何でもない……」
倖枝はぎこちなくも苦笑し、誤魔化した。
この時には既に、倖枝の中の『ほころび』は大きくなっていた。倖枝が思うよりも、ずっと――
倖枝は夕飯の後片付けを行い、風呂に入った。
風呂上がりの缶ビールを飲むと、時刻は十一時過ぎだった。歯磨きと肌の手入れを済ませ、自室に入った。
エアコンを点け、ベッドに腰掛けた。サイドテーブルに飾っている、天使の置物が視界に入った。
倖枝に、贈り主である舞夜を嫌でも彷彿とさせた。
嫌な気分になるが、破壊衝動までには至らなかった。目を逸らし、ベッドに仰向けになった。
夕方、口論になった際は舞夜が憎くてたまらなかった。絶縁すら覚悟した。
――『あの人』みたいに、逃げるな!
しかし、涙を流して訴えかける姿が、倖枝の脳裏に焼き付いていた。
現在は『あの人』のように逃げているのだから、様が無い。
そう。かつて『あの人』にふたりで立ち向かった。柄にも無く、少女のために強さを見せた。
納車式の際は、格好良く着飾った。素敵な母娘だと言われ、嬉しかった。
簡単に手放していいものではないと、倖枝は頭のどこかで理解していた。それに、あと一ヶ月半は舞夜の未成年後見人であるため、法的には切り離せない関係だった。
鬱陶しいと思う時もあるが――舞夜と過ごした時間は、楽しいことが多かった。可能ならば、疑似的な母娘関係にもう一度戻りたい。
倖枝は現在になり、舞夜と対立したことを後悔した。
とはいえ、咲幸を譲れないのは事実だ。だから、舞夜には咲幸を諦めて貰うしかない。咲幸が自分を選べば、舞夜と元の関係に戻ると、倖枝は思った。
そのためには、咲幸の気持ちを確かめなければいけない。咲幸に気持ちを伝えなければいけない。
だが、現在は出来ないのだ。咲幸が大学受験を終えて高校を卒業するまで、約半年の時間がある。それまで待つつもりだった。
いや。その気遣いが無くとも、夕飯時の不安が倖枝を隔てた。現在も纏わりついているのだから、きっと、これからも動けないだろう。
――あたしは、ママが好きだから。
クリスマスの告白を思い出す。咲幸はまだ、あの気持ちのままなのだろうか。そうであって欲しいと、倖枝は信じるが。
ふと、尿意を催したため、ベッドから立ち上がり、自室を出た。
トイレに向かう途中、咲幸の部屋で立ち止まった。閉じた扉の隙間から光が漏れていないので、もう寝ているだろうと理解した。
倖枝は扉にそっと触れた。今すぐにでも扉を開けて、咲幸を抱きしめたい。
しかし、そのまま立ち去った。トイレを済ませ、自室に戻った。
暗い部屋で、ひとりベッドに横たわり――行き場の無い切ない気持ちは、涙となって流れた。
*
八月二十一日、月曜日。
舞夜への怒りは次第に冷め、それと共に倖枝の気分が酷く沈んでいた。結局は、危惧していた通りになった。
「嬉野さん。大丈夫ですか?」
「……え? なにが?」
店では夢子に心配されながらも無理やり笑顔を作り、なんとか一週間を終えた。
その間、舞夜の物件の買主は、融資審査がまだ下りないようだった。買主から連絡が無いため、倖枝は舞夜と連絡を取ることも無かった。この件に限らず、不自然すぎるほど舞夜との連絡が無かった。あちらが避けるように、こちらも避けた。
その一方で、月城住建や舞人からも、特に変わった動きは無かった。あの口論はまだ舞夜で止まっているのだと、倖枝は思った。
舞夜の実態が見えないが、不安は無かった。その余裕すらなかった。ひどく衰弱した心を、須藤寧々に慰めて貰う必要があった。
しかし、度を過ぎた精神面に連動してか、もしくは夏の暑さが堪えたのか――身体面までも不調だった。週末だが、気だるさと熱っぽさから、とても出かける気にはならなかった。
「ママ、顔色悪いじゃん! どうしたの!?」
「ごめんね、さっちゃん……。ちょっと夏風邪っぽくて……」
仕方なく帰宅すると、咲幸から心配そうに出迎えられた。
体温は三六度五分だった。まだ平熱だが、これから上がる可能性もあるので、用心するに越したことがない。
咲幸が卵粥を作ったので、梅干しと一緒に食べた。食後は桃が出てきた。みずみずしく、美味しかった。
倖枝は、常備している市販の風邪薬を飲み、冷感シートを額に貼った。後は水分と睡眠を充分に摂れば、体調は回復するだろうと思った。
「私のことはもういいわ。ありがとう」
これ以上、咲幸の勉強を邪魔するわけにもいかない。
「そう? ……何かあったら、夜中でも遠慮なく言ってね」
不安そうな咲幸にぎこちなく微笑み、倖枝は自室に入った。
風邪薬のせいだろうか。ベッドに横になると、すぐ眠気に襲われた。今夜は余計なことを考えることなく、ぐっすりと眠れた。
*
八月二十二日、火曜日。
倖枝が目を覚ましたのは、午前七時だった。額の冷感シートはもう、すっかり乾燥して硬くなっていた。
ベッドのサイドテーブルに置いていた体温計を脇に挟むと、昨晩と変わらず三六度五分であった。悪化を予防できたのか、そもそも風邪ではなかったのか――どちらにせよ、倖枝は安心した。
確かに、昨晩に比べ、熱っぽさは消えたような気がした。しかし、気だるさは重く伸し掛かったままだった。その意味では、まだ体調は優れなかった。
喉が乾いたので、ベッドから起きて自室を出た。咲幸がダイニングテーブルで朝食を摂っていた。
「ママ、大丈夫? 起きて平気?」
咲幸は倖枝の顔を見るや否や、椅子から立ち上がって不安そうな表情を向けた。
「とりあえず、熱は無いわ。でも、まだ本調子じゃないから、今日は休ませて貰うわね」
「うん。お店も休みなんだし、そうしなよ。……お粥作るね」
表情が変わらないまま、咲幸はキッチンへと向かった。
テーブルのトースターは、まだ食べかけであった。朝食の途中にも関わらず、粥を作ろうとしていると、倖枝は理解した。
「お粥ぐらい私でも作れるから、さっちゃんは予備校に行く支度をしなさい」
「ううん。お粥作る時間ぐらいは、全然あるよ」
呼び止めるが、咲幸はそれを振り切って料理した。
倖枝はトイレを済ませ、麦茶を一杯飲んだ。そして、申し訳ない気持ちで、リビングのソファーに腰を下ろした。
「ほら。すぐに出来たよ」
「あ、ありがとう……」
咲幸がテーブルに粥の入った茶碗を運び、隣に座った。
だが、倖枝としては食欲が無かった。それでも、薬を飲むため、咲幸の気持ちに応えるため、無理にでも食べようとした。少しの間を置いて、茶碗を手にした。
「サユ、今日は予備校休むよ」
その様子を見てか、咲幸がぽつりと漏らした。
倖枝は咲幸を見ると、やはり心配そうな表情を浮かべていた。怠けるのではなく、看病のために休もうとしているのは、明白であった。
「さっちゃん……」
倖枝は、咲幸のTシャツの袖を指先で掴んだ。
本来であれば、否定しなければいけない。受験勉強の足を引っ張ってはいけない。
しかし、現在の倖枝には、側に居てくれることが、とても嬉しかった。予備校の舞夜よりも自分が選ばれたとさえ思えた。
そして、申し訳なさと共に情けなさが込み上げ、目尻から涙が溢れた。
「どうしたの!? どこか痛いの!?」
泣き出した倖枝は、両肩に咲幸から両手を置かれた。
「違うの……。違うのよ……」
咲幸から更に心配され、倖枝は首を横に振った。溢れる涙を拭わぬまま、ありのままの
「ねぇ、さっちゃん……。あの時言ってくれたこと、覚えてる? 私のこと、好きって言ってくれたわよね?」
心身共に弱っている現在、心細さが倖枝の背中を押した。最早、目の前にある一筋の希望に縋るしかなかった。
受験勉強に支障をきたすかもしれない可能性。舞夜を選ぶかもしれない可能性。それらを考える余裕は無かった。
手を差し伸べて掴んで貰えば、全て解決する。倖枝は真っ直ぐに投げかけた。
「うん……。サユは、ママのこと好きだよ?」
咲幸は肩から手を放すと、改めて向き合い、苦笑しながら頷いた。
突然の問いに状況が飲み込めていないように、倖枝には見えた。だが、そうだとすれば違和感があった。
違和感の正体に、すぐ気づいた。苦笑している理由は――
「ママじゃなくて……名前で呼んでいいのよ?」
そう。『母』として好きだと言っているように、誤魔化しているように、倖枝には聞こえた。
かつて、咲幸から『女』として求められた。あの気持ちを確かめたかった。
「……最初はそうだったよ? でも……これは可笑しいことなのかもしれないって、最近思うようになったの。あの時、ママが驚いたのも無理ないよね」
しかし、咲幸は遠回しに否定した。
言葉自体はまだ穏やかだが、倖枝にはとても残酷に聞こえた。
「だって、サユとママは……母娘なんだもん」
咲幸がその結論に至ったのは、どうしてなのか――倖枝は突き付けられた現実に絶望するよりも、その思考が働いた。
思い当たる節は、ひとつだけだった。倖枝の脳裏に、舞夜の顔が浮かんだ。
結果として、彼女と企てた計画通りに、事が運んだのだ。咲幸が母と恋人として結ばれることを諦め、元の母娘に戻る。そのために、舞夜が咲幸と恋人関係になる。
おそらく、舞夜の願いは成就したのだろう。そして、倖枝の願いも叶った――はずだった。
「いや! そんなの嫌よ!」
咲幸から恋人として支えられている現在、倖枝はこの結末を受け入れられるはずがなかった。
「私と付き合うのは、何も可笑しくわ! あの時は、私が間違っていたの! だから、お願い――私を捨てないで!」
倖枝は癇癪を起こした。『弱さ』の象徴である涙がさらに溢れるが、やはり自分では拭わなかった。
これまでのように――咲幸に受け止めて欲しかった。
「ママ……」
だが、咲幸からは憐れみの目を向けられるだけだった。
錯乱した倖枝は、自分が無茶苦茶な発言をしていることに気づかなかった。
その一方で、咲幸から完全に否定されたわけではないと思った。推察ではなく、願望だが。
咲幸には、まだ迷いがある。そうでも思い込まなければ、付け入る隙間が無かった。
倖枝はおもむろに、パジャマ代わりのタンクトップを脱いだ。上半身が裸になり、乳房を露わにした。
「ほら、何も怖くないわ……。貴方の好きにしていいのよ――咲幸」
両腕を広げ、涙を流したまま微笑んだ。
涙の向こう――見上げる咲幸の表情から、戸惑いが見えた。何かを堪えているかのようだった。今にも泣き出しそうに震えていた。
倖枝はそれを止めたい思いで、そっと抱きしめた。冷房で冷えた身体で、確かな温もりを感じた。
「……いいの?」
咲幸は倖枝の腕の中で、不安そうに見上げた。
「いいのよ……。何も変じゃないわ……。私は咲幸のこと……好きだから……愛しているから……」
倖枝は優しく微笑み、内に秘めていた気持ちを口にした。
涙で滲んでいた視界が晴れた。咲幸から、指先で涙を拭われたのであった。
そして、両頬を両手で包まれた。手のひらの温もりが心地よかった。
「もう、我慢しなくていいんだよね? 正直になっても、いいんだよね?」
咲幸はまだ、不安そうに見上げていた。
倖枝はゆっくりと頷くと、そっと唇を重ねられた。
舌を入れられることも、乳房に手を置かれることも――全てを受け入れた。
腕の中の少女こそが、世界でただひとり、心の
夏の朝。倖枝は振り返らずとも、窓の外が明るいと分かった。
このマンションの一室は、紛れもなく、ふたりきりの空間だった。
これまでの『日常』が染み付いているからこそ、安心感があった。
これまでの『日常』が垣間見えるからこそ、この時間が永遠に続くとさえ思えた。
だから、咲幸の携帯電話が鳴ろうとも、邪魔には感じなかった。
愛する人間と気持ちが交わり、倖枝はこれまでの人生で、最も幸せだった。
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