第26章『女』

第066話

「ねぇ……。悪いんだけど、さっちゃんと別れてくれない?」


 倖枝の言葉に、藍色の瞳が大きく見開いた。舞夜は静かに驚いた後、ぎこちなく苦笑した。


「……え? 何言ってるんですか?」


 まるで、悪い冗談を受け流そうとしているかのようだった。

 だが、倖枝は至って真剣であるため、その態度に気分が悪かった。


「もう一度言うわね――さっちゃんと別れなさい。恋人ごっこはもう止めにして、私に返しなさい」


 これでも、言葉を選んだつもりであった。舞夜を貶さなかったのは、倖枝なりの気遣いであった。

 しかし、淡々と告げながら――蔑む冷たい視線を、舞夜に送っていた。

 舞夜は苦笑から、今にでも泣き出しそうな表情になった。泣くのを堪え、唇が震えていた。


「何言ってるのか、わかりませんよ!」


 そして、大声で喚いた。


「いったい、どうしたんですか!? 何があったんですか!?」


 倖枝は、ソファーで並んで座った舞夜から、両手を掴まれた。顔を覗き込まれた。

 それでも、微動だにしなかった。


「……あんたが悪いのよ」


 感情を抑えていたが、舞夜の鬱陶しさから、倖枝はぽつりと漏らした。


「あんたが私から、さっちゃんを奪うから!」


 プラネタリウムでデートしていたふたりを見た時、倖枝は認めたくないが確信を得た。

 ――咲幸と舞夜は、恋人として交際している。

 咲幸は決して上辺だけでなかった。心から舞夜を愛しているようだった。

 デートからの帰宅後、咲幸の口からどこで何をしていたのかは語られず、拍車をかけた。隠さなければいけない理由など、倖枝はひとつしか思い浮かばなかった。


「よくわかりませんけど……確かに最近、咲幸とは良い感じですよ? この前のプラネタリウムも、とっても楽しかったです」


 舞夜自らの口から手応えを語られ、倖枝は自分の目尻がつり上がったのを感じた。


「でも、それはお母さん――倖枝さんが望んだことじゃないですか!?」


 嘘だ。そんなはずがない。倖枝は、舞夜の言っていることが理解できなかった。

 しかし、倖枝は瞬時に昨年のクリスマスを思い出した。

 結婚式で他人の幸せを見せられ、沈んだ気分で帰宅すると――咲幸から涙を拭われ、そして気持ちを告白された。

 確かに、あの時はとても驚いた。思わず自宅を飛び出したぐらいであった。

 どうすることも出来ずに、舞夜と会った。まだこの館が空き家であったため、現在では考えられないほど寒かった。

 だからこそ、舞夜と抱き合うと、とても温かかったと覚えている。


「あの時、ふたりで約束したじゃないですか!? 忘れたんですか!?」


 そう。暫定的に、倖枝は咲幸を受け入れた。その間に舞夜が咲幸を引き離すことが、ふたりで立てた計画やくそくだった。

 結果的に、計画通りに事が運んだのだと、倖枝は現在になって理解した。

 だが、事態はあの時から変化していた。計画が遂行されては困るのだ。


「確かに、そうだったかもしれないけど――さっちゃんは、私を受け入れてくれるの!」


 バレンタインでは、落ち込んでいた自分を性交以外の方法で慰めてくれた。念入りに計画を立てたデートに連れて行かれ、とても楽しかった。咲幸は倖枝にとって『弱さ』を預けられる、数少ない人間になった。

 そして、三者面談の後では、弱さに嘆く自分を抱きしめてくれた。


 ――倖枝を守れるように、あたし頑張るよ。


 その言葉が、とても嬉しかった。このろくでもない人生で、唯一の救いだった。


「さっちゃんは、私の手を引いてくれる、世界でたったひとりの人間なのよ!」


 倖枝は、強い人間には成れない。弱い女でしかない。だから、支えてくれる人間が必要だった。

 それを、咲幸が買って出たのだ。これから先も、咲幸に支えて貰うのだ。


「だから――私から、さっちゃんを奪わないで! 私とさっちゃんとの間に入ってこないで!」


 倖枝もまた、気づいた時には声を荒げていた。舞夜に対する本心を口にすることで、気が晴れるどころか更に感情的になっていた。

 舞夜はもう、泣き出しそうな表情ではなかった。見上げる顔は怯えているようにも、唖然としてるようにも、倖枝には見えた。


「わたしが、間違っていたのかもしれません……」


 そして、舞夜がぽつりと漏らした。


「咲幸に分かって貰うために咲幸を受け入れましょうと、確かにわたしが言いました。でも……貴方がここまで弱い人間だとは、思いもしませんでした……。倖枝さんが飲み込まれて、どうするんですか!?」


 舞夜の目からではそう映るのだろうと、倖枝は理解した。しかし、責められることではないと思った。

 飲み込まれたのではない。咲幸とは互いに理解したのだ。


「それに……咲幸はもう、目が覚めてるんですよ!? 咲幸の足を引っ張らないでください!」

「……どういうことよ?」


 倖枝には、言葉の意味がわからなかった。

 だが、どうしてか――プラネタリウムのデートを隠した咲幸が、頭に思い浮かんだ。咲幸が自分の元から離れるのを連想させた。


「出来ることなら、倖枝さんには言いたくありませんでしたが……。わたしと咲幸が仲良くなれたのは、家庭環境が似ているからです。同じような境遇だからです」


 現在の舞夜は確かに片親だが、割と最近からだ。それまでは両親の居る家庭環境だったので、倖枝は違うと思った。

 いや、舞夜に両親が居たところで、ふたりからの愛情は無いに等しかった。同情したくなるほどの、ろくでもない家庭環境だった。

 事前の断りもあり、倖枝には、その点で似ていると言われているようだった。家庭環境が良くないのは、悔しいが認めざるを得ない。それがふたりの接点になることも、少なからず納得した。


「だから、あんたがさっちゃんの一番の理解者だって言いたいの?」


 それでも、その立場を舞夜には譲れなかった。

 倖枝の問いに、舞夜は躊躇なく頷いた。


「はい。咲幸は『母』の貴方を支えるために、現在は勉強を頑張っています」


 そして、倖枝を真っ直ぐ見上げ、倖枝の嫌がる言葉を容赦なく口にした。

 舞夜の一方的な思い込み、勘違い、或いはただの大口ブラフである可能性がある。しかし、舞夜しか知らない情報、そして最近の咲幸の言動から――倖枝には妙に説得力があった。咲幸を理解しているからこそ、その言葉が出てくる可能性もある。


「違うわ! さっちゃんは私を『女』として愛しているの! あんたじゃなくて、私をね!」


 だから、倖枝は自分を信じ、頭ごなしに否定した。

 舞夜から、まるで憐れむような哀しい目を向けられた。


「……どうしたんですか? お母さんはもっと、強い人間ひとじゃないですか?」

「うるさいわね! 私はあんたの母親でもないのよ!」


 倖枝は冷静で居るつもりだったが、一度でも堰が外れた以上、抑えていた感情が決壊した。心にも無い失礼なことを口にした自覚が、後から込み上げた。

 しかし、舞夜の表情に一寸の変化は無かった。

 代わりに、倖枝の左頬が――短い衝撃と共に、じんわりと熱を帯びた。


「それじゃあ、貴方の娘は誰なんですか!?」


 藍色の瞳から、涙が流れた。


「わたしのためじゃなくても構わない! 娘のために、嘘でもいいから強さを見せなさいよ! 『あの人』みたいに、逃げるな!」


 左頬を平手打ちされた痛みなど、すぐどこかに吹き飛んだ。それほどまでに、泣きながら訴えかける少女から、倖枝は気圧されていた。

 その結果、ソファーから立ち上がったのは、きっと反射的な行動だった。鞄を持ち、無言でその場から逃げ出したのは、後ろめたさがあったからだった。

 見送りに玄関まで姿を現した家政婦には目もくれず、倖枝は館を出た。蝉のうるさい鳴き声に囲まれた中、自動車を発車させた。


 赤信号で停車した際、ルームミラーで顔を見た。左頬は腫れてはいないものの、少し赤くなっていた。

 このままでは帰社できないので、コンビニに寄って小さいペットボトルの茶を購入した。車内でそれを左頬にあて、冷やした。

 車内のエアコンがうるさく動く中、舞夜の言葉が頭から離れなかった。『あの人』が自分の母親、御影歌夜を指しているのは理解していた。

 歌夜は逃げた結果、娘とのすれ違いが生じ、家庭が崩壊した。舞夜はそれを経験しているからこそ、同じ過ちを犯さないよう忠告した。

 倖枝は、その意図を理解していた。

 しかし、歌夜が逃げ出したというよりも――歌夜が自分の気持ちを伝えなかったことが問題だったと、倖枝は思った。その姿を、自分に重ねた。



   *



 咲幸の件で、舞夜と口論になった。倖枝はこれまでの経験上、誰かの慰めぬくもりが必要なほど気分が沈むと思っていた。

 だが、店に戻ってからも仕事には特に支障がなく、倖枝自身驚いた。


 陽が暮れてから、売主を交え買付を承ったことを買主に連絡した。銀行への融資申し込みは、買主が自ら行うようだ。それが通過次第、売買契約に移る。

 今日すぐに売買契約の日取り決めを行わないため、倖枝は安堵した。いくら仕事とはいえ、舞夜と顔を合わせるのはおろか、喋ることすら嫌だった。


 明らかに彼女の機嫌を損ねたことに対し、倖枝に後悔は無かった。結果的に感情的に動いたが、この店の最高責任者である立場だった。最悪の事態になったとしても、自己責任だと納得できる。

 上客である舞夜個人の他、舞人から預かっている分譲地も契約が切られると覚悟した。もしそうなれば、確かにこの店にとって痛手だが、致死には至らない。いや、現状その可能性は大いにあり得るだろう。それでも、受け入れるつもりであった。


 倖枝は気分が沈むどころか、現在も怒りがほつほつと込み上げていた。

 やはり、未だに舞夜の言い分を認められない。認めてはいけない。

 咲幸の一番の理解者は自分であり――咲幸を最も愛している人間も、咲幸から最も愛されている人間も、自分である。

 それだけは、他の誰にも絶対に譲れなかった。

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