第065話

 八月十七日、木曜日。九日間の盆休みを明けて、HF不動産販売は業務を再開した。


「おはようございます、嬉野さん。うわー、やっぱりカッコイイですねぇ」

「凄いっす、店長!」


 午前九時半。出勤するや否や、買い替えたばかりの倖枝の自動車を、夢子と高橋がまじまじと眺めた。

 倖枝としても、気分新たに頑張るはずだったが――プラネタリウムの一件以来、沈んだままだった。


「あ、ありがとう。乗り心地は最高よ」


 なんとか笑顔を作れることを確かめ、倖枝はひとまず安心した。仕事には取り組めそうであった。


「さあ、また今日から頑張るわよ」


 数少ない従業員の手前、倖枝は陰鬱な気分を強引に奮い立たせた。

 盆が明けたとはいえ、まだ容赦ない暑さだった。倒れないよう、気をしっかりと持った。


 店の清掃後、パソコンを起動させ、まずはメールソフトを開いた。

 倖枝は、長期休暇の間になだれ込んだ大量のメールをひとつずつ確認した。

 その中で――舞夜から預かっていた中古物件の買付を示す旨のものがあった。案内を行った際、好感触を得ていた客からであった。


「あーあ。とうとう、あそこ売れたわ」

「マジですか? まあ、そろそろ頃合いですし、いいんじゃないですか」


 夢子の言う通り、手放してもいい時期だと倖枝も思った。もっとも、値下げ交渉ではなく言い値での買付であるため、拒否権は無いのだが。

 預かって一ヶ月半。相場に対しての『値打ち品』であるため、相応の早さで売れた。その間、顧客情報を集める『餌』としての役割は充分に果たした。

 承った旨の連絡を買主にしようと、個人情報のファイルを開いた。一般的な会社員であるため、連絡希望時間は昼休憩もしくは夜間だった。


 そちらは昼休憩を狙うとして――売主である舞夜にも連絡をしないといけない。

 舞夜とは駅まで送り届けて以来、会っていない。プラネタリウム以来、顔を見ていない。

 彼女から擬似的な母親として慕われているのは、理解している。倖枝も、なるべくそれに応えているつもりだった。

 しかし、咲幸と楽しそうにしている様子を見てからは――複雑な心境だった。


「……」


 倖枝は、携帯電話を持ったまま、ぼんやりとした。現在、予備校の夏期講習でおそらく通話に出られないとは理解していた。

 少し考えた末、メッセージアプリを開いた。『仕事のことで話あるから、予備校終わったら早めに帰ってきて』と送信した。

 買付が入った旨を報告するなど、舞夜との間柄から、メッセージアプリで充分だった。しかし、顔を合わせて話さなければいけなかった。

 しばらくして『わかりました。十七時ぐらいに駅まで迎えに来てください。また連絡します』と返ってきた。

 舞夜と顔を合わせる。こちらから望んだことだが、倖枝は少し緊張した。

 了解を意味するスタンプを送信し、携帯電話を机に置いた。



   *



 正午過ぎ、倖枝は買主にひとまず連絡をした。購入にあたり銀行からの融資の問題もあるが、把握している買主の身分としては、大丈夫だろう。

 午後四時半頃、舞夜から帰宅に使用する電車の案内が、メッセージアプリに送られてきた。


「ちょっと、月城さんの所に行ってくるわ」


 倖枝は夢子と高橋にそう言い残し、自動車を駅まで走らせた。


「おかえりなさい」

「ただいまです、お母さん」


 駅のロータリーで、舞夜を拾った。こうして直々に迎えに来たからか、舞夜はとても嬉しそうだった。

 舞夜を助手席に乗せ、夕方の混雑した道を走った。


「悪かったわね――さっちゃんとの時間を邪魔して」

「いえ……。咲幸とは、毎日のように会えますからね」


 携帯電話での通話、もしくはメッセージアプリで済む用件を、わざわざ対面で持ちかけた。倖枝が、舞夜と咲幸の時間を少しでも邪魔したいという意図も含まれていた。

 それを知らず、上機嫌な明るい声を出している舞夜に、倖枝は内心で嘲笑っていた。


 やがて、館に到着した。相変わらず、周囲の森から蝉の鳴き声が聞こえた。

 舞夜から、広いリビングに通された。家政婦からアイスティーを差し出され、ソファーに座る舞夜とふたりきりになった。


「それで? 仕事の話って何ですか?」

「あんたから預かってた物件に、買付が入ったのよ。満額出すって言ってるから、売ってもいいわよね?」

「はぁ……。別に、わたしは構いませんけど……」


 舞夜はあっけらかんと頷いた。

 ソファー下のラグマットで、倖枝は正座でアイスティーを飲んでいた。暑い中で移動したので、冷たい飲み物が美味しかった。

 それを味わう一方で、舞夜から戸惑いの視線を受けた。『まさか、それだけの話のために呼び出したんですか?』と言われているかのようだった。

 倖枝は答える代わりに鞄を持ち、立ち上がった。


「それじゃあ、進めるわね。また契約日が決まったら、連絡するわ」


 客に対し、舐めた態度を取っている自覚があった。いくら舞夜と見知った間柄とはいえ、それでも酷すぎる。

 そう。この行為は倖枝なりの、舞夜への嫌がらせのつもりだった。咲幸との関係に対し、憎しみが積もり積もっていた。


「え――」


 驚く舞夜を尻目に、倖枝はリビングから立ち去ろうとした。

 ――わざわざ顔を合わせた用件は、仕事と嫌がらせだけでは無かった。

 最後の用件を、倖枝は我慢していた。しかし、我慢したところでどうにもならないのは、倖枝がよく理解していた。

 舞夜とは、本心で話せる間柄だ。こちらの気持ちを話せば、分かって貰えるに違いない。

 そうだ。これを伝えたいがために、舞夜を呼び出したのだ。後悔はしたくない。してはいけない。


 倖枝は、リビングの扉の前で立ち止まった。そして、下唇を噛むと、舞夜に振り返った。

 ソファーで、舞夜の隣に腰掛けた。少女と向き合い、藍色の瞳をじっと見つめた。


「ど、どうしたんですか?」


 戸惑う舞夜に、倖枝は本心を口にした。


「ねぇ……。悪いんだけど、さっちゃんと別れてくれない?」



(第25章『沈淪』 完)


次回 第26章『女』

倖枝は、咲幸と気持ちを確かめる。

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