第064話

 午後八時、咲幸が帰宅した。


「ただいまー」

「おかえり、さっちゃん。ジョギング行ってから、夕飯ごはんにする?」

「うん。待たせてゴメンね」

「私はいいわよ。気をつけて、いってらっしゃい」


 咲幸はランニングウェアに着替えると、すぐに再び部屋を出た。あのレストランで漏らした本音の通り、ここ最近はこれが日課となっていた。

 舞夜とカフェで勉強してきた――そう報告する間すら無いのだと、倖枝は思った。

 三十分ほどして咲幸が帰宅し、風呂に入った。勉強はあらかた予備校で済ませているようで、自宅での夜間はほとんど行わない。早寝早起きの規則正しい生活を心がけているように、倖枝には見えた。

 咲幸が風呂に入っている間、倖枝は夕飯に、梅干しと鰹節の冷やしぶっかけうどんと冷ややっこを用意した。

 午後九時、風呂から上がった咲幸と、ダイニングテーブルで夕飯を囲った。


「さっちゃん……。今日、どうだった?」

「どうって? いつも通り、勉強捗ったよ」


 咲幸は首を傾げながら答えた。

 訊き方が悪かったと倖枝は思うが――舞夜が遅刻したことも、舞夜とカフェで勉強したことも、咲幸の口から出ることは無かった。

 咲幸本人に隠しているつもりは無いのだと、倖枝は信じた。


「明日から、さっちゃんもお盆休みね。受験勉強も大切だけど……おじいちゃんのお墓参りだけは行きましょうか。おばあちゃんも、近い内にこっちに帰ってくるから」

「うん。サユも、おじいちゃんに手を合わせておきたいから、皆で行こう」


 倖枝の父親は、この街の墓地で眠っている。近場かつ亡くなってまだ二年だが、盆と命日ぐらいしか墓参りに行く機会は無かった。


「そうね……。明後日の日曜日はどう?」

「あー……ごめん。十三日はちょっと予定あって、都合悪いや……。十四日じゃダメ?」


 ふたりで壁のカレンダーを眺めながら話し合った。

 受験生なのに、予定――昼間の舞夜とのやり取りから、倖枝が思い当たることはひとつだった。


「別に、十四日でも構わないけど……予定って?」


 何も知らないように装い、確かめる意味で訊ねた。


「うん。ちょっと、舞夜ちゃんと遊びに行くことになって……。あんまり遠くに行かないし、すぐ帰ってくるから……。ちょっとしたリフレッシュにね」


 咲幸は苦笑しながら答えた。

 舞夜から日時を聞いていなかったが、間違いなくプラネタリウムの件だと倖枝は察した。咲幸が具体的な行先を言わないことが、デートの主旨を伏せていると思った。

 ――余計な心配をかけまいとしている咲幸の気遣いが嬉しかった。


「何も、ずっとガチガチに勉強しなくてもいいんじゃない? 折角のお盆休みなんだし、ちょっとは羽伸ばしてきなさいよ」


 倖枝は敢えて、行先を問い詰めなかった。微笑みを浮かべて肯定した。

 内心では、面倒な行事に巻き込まれた咲幸に同情したいぐらいであった。


「それじゃあ、おばあちゃんには十四日って言っておくわね」

「ありがとう。その日は絶対に空けておくから」


 そう。何も疑うことは無い。

 倖枝にとっても咲幸にとっても、些細な行事だ。実にくだらない。

 間に波瑠が入ろうとも舞夜が入ろうとも――ふたりの関係に何も影響が無いと、倖枝は咲幸を信じていた。咲幸とは世界で一番強い絆で結ばれている自信があったのだ。



   *



 八月十三日、日曜日。

 倖枝は午前九時頃に起きると、咲幸が洗面所で化粧をしていた。


「おはよう、ママ」

「おはよう。いい感じじゃない」


 咲幸はデニムのミニスカートを履き、赤のタンクトップにギンガムのシャツを羽織っていた。ボーイッシュながらも可愛さを残していると、倖枝は思った。


「そろそろ出るの?」

「ううん。十時頃かな」


 結局、倖枝は時間も行先も咲幸から訊いていなかった。無関心を装っていた。

 リビングでテレビを観ながら、クリームパンとアイスコーヒーの朝食を摂った。

 咲幸は洗面所から、中々出てこなかった。念入りに化粧を施しているようだった。都心を洒落た格好で歩くのだから当然だと、倖枝はぼんやりと思った。

 やがて十時になり、ポニーテールの咲幸がショルダーバッグを肩から反対側に下げて現れた。


「それじゃあ、そろそろ行ってくるね」

「待って。お小遣いあげるわ」


 玄関に向かおうとする咲幸に、倖枝は一万円札を一枚手渡した。

 舞夜が居るのだから小遣いなど不要だが、咲幸を想う倖枝の気持ちだった。


「根を詰めてもしょうがないから、メリハリつけて、今日は一日ゆっくり遊んできてらっしゃい」

「ありがとう、ママ。そうするよ」


 咲幸を見送り、倖枝はリビングに戻った。

 適当に嘘をついて送り出した。本心では、一刻も早く自分の元へ帰ってきて欲しかった。

 しかし、咄嗟に出た嘘の割には一理あるとも思った。勉強ばかりではなく、時には休息も必要だ。そして、一緒に過ごすには勉強仲間の方が、緊張感も残るだろう。倖枝はそう割り切ろうとした。


 ――割り切れるはずがなかった。

 舞夜から行先のプラネタリウムを聞いている。倖枝は携帯電話を手に取ると、インターネットで検索した。

 大きなプラネタリウムに行ったことが無いので、よく分からないが、映画館のように作品を上映するらしい。今日は通常回と、猫に関する物語仕立てのもの――値段の少し高い特殊回のふたつがあった。

 折角デートとして行くのだから、後者を選ぶだろう。時間を確かめると、十二時上映の回があったので、それだと思った。

 現在から支度をして向かっても――高速道路は混んでいるので電車を使用しても、なんとか間に合う。


 倖枝は瞬時に判断し、すぐ自室に入った。

 クローゼットから、緑色無地の折襟ベルト付きマキシワンピースを取り出し、着替えた。なるべく地味なものを選んだつもりだった。

 誕生日に咲幸から貰った可愛い香水を塗った。舞夜から貰ったネックレスは着けなかった。

 化粧を手早く行うと、ダークベージュの折り畳み日除け帽子を被り、サングラスをかけた。この格好は変装として悪くないと思った。


 倖枝は部屋を出て、自動車で駅へと向かった。

 デートの邪魔をするつもりはない。ふたりを尾行するわけでもない。ただ、咲幸の嫌がる様子を、この目で見るだけだ。

 盆休みで混雑している電車に揺られながら、目的を確かめた。



   *



 都心の、若者向けの街。そこにあるビルの最上階に、プラネタリウムはあった。

 館で舞夜から話を聞いた時、倖枝は科学的な施設を想像していた。しかし、インターネットで調べて以降、実際に足を運ぶと、やはり映画館のような雰囲気だった。薄暗いロビーで、多くの人達が上映を待っていた。

 午前十一時半。倖枝は、電車での移動中に携帯電話で購入したチケットを発券した。そして、ロビーの隅に立って一時的にサングラスを外し、咲幸の姿を探した。


 今朝の姿通り、ギンガムのシャツを着たポニーテールの少女を、ロビーの真ん中で発見した。その正面には、長い黒髪は下りているが、やや背中の開いたベージュのニットと、水色のマーメイドスカートを着た女性――舞夜の姿もあった。

 視線を送り続けては気づかれるので、倖枝はサングラスをかけ、チラチラとふたりを見た。

 楽しそうに談笑していた。この空間から浮くことなく、他の客らに溶け込んでいた。どこにでも居るような、仲の良いふたりの女子高生だった。


 しばらくすると、入場案内の放送が流れ、倖枝はひとり移動した。万が一にもふたりの隣だといけないため、可能性を少しでも減らすべく、隅の席を選んでいた。

 しかし、それも杞憂だった。

 このプラネタリウムには通常席の他、ふたり掛けのソファー席があった。そして、芝生地帯でふたり寝転んで鑑賞できる席もあった。

 倖枝は、薄暗い館内で階段状に広がる席を見下ろすと――最前列にある芝生地帯に敷かれた三つのシートのひとつに、ふたりの少女が並んで仰向けになっていた。


 上辺だけのデートで、この席を選ぶだろうか?

 倖枝の頭に、その疑問が浮かんだ。だが、すぐに、舞夜の独断であの席を選んだのだと思った。咲幸は嫌に違いないと推察した。

 ――その割には、咲幸はとても楽しそうだった。

 ふたりで天井を指差し、はしゃいでいた。やはり、その様子は控え目に見ても、仲の良い友達だった。

 恋人に見えないこともないが、倖枝は否定した。今すぐにでも席を立ち上がり、ふたりの間に割って入りたかった。それを我慢し、奥歯を噛み締めた。


 やがて、館内が暗くなり、作品上映が始まった。倖枝は帽子とサングラスを外すが、とても鑑賞に集中できなかった。

 結果的に、どのような内容だったのか、上映が終わっても思い出せないほどであった。演出として、上映中にマタタビのアロマが漂っていたことを倖枝は知らないが――落ち着く香りだけが唯一、印象に残っていた。

 しかし、倖枝は上映中、決して落ち着くことが無かった。咲幸の楽しそうな様子が、頭に深く焼き付いた。


 あの笑顔は、側で見なければいけない。こうして離れた場所から、第三者の視点で見るものではない。

 そう。あれは、先日レストランにデートした時に見た笑顔だった。

 どうして、それが『あの小娘』に向けられているのだろう――わからない。

 胸元に塗っていた香水のフローラルな香りも、この時ばかりは届かなかった。


 上映が終わり、館内に灯りが点いた。周囲が立ち去る中、倖枝は帽子とサングラスを着けるだけで、すぐには立てなかった。

 前方の芝生席を見下ろすと、ふたりの少女が手を繋ぎ、満足そうに扉へと向かっていた。

 信じられない光景だった。しかし、この目で見ているのは、紛れもない現実だと、倖枝は理解していた。

 もう周囲に誰も居ない。座席の肘掛けに置いていた手で硬く拳を握り、肘掛けに振り下ろした。

 確かに、舞夜に対する怒りも込み上げていた。だが、それ以上に――この光景を見せられた悔しさに、倖枝の頭はどうにかなりそうだった。


 結局、倖枝は最後のひとりとして、館内を出た。

 ロビーにふたりがまだ居るのかもしれないが、探す気力も警戒する気力も無かった。

 時刻は午後一時。おそらく、昼食に行ったのだろうと、ぼんやりと思った。倖枝に空腹感は無かった。


 人の流れに乗じてロビーを出ると、近くに水族館がある案内が見えた。確かにこのビルは大きいが、プラネタリウムの他に水族館も入っているのは珍しいと思った。

 プラネタリウムからの脚で水族館に向かったのは、ただの気まぐれだった。

 倖枝はチケットを購入し、ひとりで入った。根拠は無いが、この場にふたりが居ないと思ったので、特に警戒しなかった。いや、その余裕すら無かった。

 都心のど真ん中に位置するビル内とはいえ、二階分と屋上の三層構造であり、意外と広く感じた。多くの人で混雑していた。

 その中を、倖枝はひとりでふらふらと歩いた。


 ふと、トンネル型の水槽を抜けると――弧状の水槽が壁一面に張り巡らされた、暗い部屋に出た。視界に収まらない広さの水槽は、それだけで圧倒的だった。

 無数の半透明の生物が、薄暗い水槽の中を漂っていた。その幻想的な光景に、倖枝は息を飲んで立ち止まった。

 クラゲが泳いでいた。『狭い水槽の中』で、足掻いていた。

 倖枝は、かつて咲幸と舞夜と水族館へ行った時のことを思い出した。クラゲの美しさに見惚れたが、舞夜からクラゲの儚い生き方を聞かされた。

 短い寿命いのちを削ってまで泳ぐ姿は、悲痛だった。泳ぎ方など忘れて、楽に沈んでしまえばいいと思った――たとえ、光が届かなくとも。

 そうだ。無理をしなくてもいい。強がらなくてもいい。ひとりの女として、弱さを見せてもいい。

 ――咲幸が全てを受け止めてくれるのだから。

 倖枝は冷たい水槽に触れると、哀憐の眼差しをクラゲに向けた。

 その後、水族館を一周した。ひとりきりのせいか、とてもつまらなかった。



   *



 倖枝は、昼食を摂ることなく帰宅した。

 汗をシャワーで流しても、気分は晴れなかった。

 午後四時頃、携帯電話のメッセージアプリが受信を通知した。


『夕飯買って帰るから、用意しなくてもいいよ』


 咲幸からだった。

 あの小娘と夕飯を食べることなく、帰宅する。それを知るだけで、倖枝は涙が出るほど嬉しかった。

 一刻も早く帰ってきて欲しかった。


「ただいまー」


 午後七時頃、咲幸が惣菜の入っているだろうビニール袋を手に、帰宅した。


「おかえり。……楽しかった?」

「うん! すっごい楽しかったよ! これでまた、勉強も頑張るね!」

「そう……。それはよかったわね……」


 倖枝は精一杯、優しい微笑みを作った。

 こうして咲幸が帰宅しただけで涙が零れそうになったが、必死に堪えた。


「私はまだお腹空いてないから、先にお風呂入ってらっしゃい」

「そうなの? それじゃあ、そうするね」


 咲幸からビニール袋を受け取ると、ダイニングテーブルに置いた。

 倖枝としては、すぐにでも身体を綺麗にして欲しかった。あの小娘と一緒に居たことに、少なからず穢れを感じた。


「お待たせー。お腹空いたから、一緒に食べよっ」


 しばらくして、風呂上りの咲幸が姿を現した。

 ――咲幸の匂いが漂った。

 倖枝は立ち上がると、咲幸を正面から抱きしめた。


「ママ? どうしたの?」


 突然の出来事に、咲幸は静かに驚いているようだった。

 無理が無いと、倖枝は思った。それでも、縋りつくように抱きしめた。


「ごめん。何でもないわ……」


 他の誰かの元へ行かないで欲しい。その本心を打ち明けることだけは、我慢した。

 倖枝の計画では、咲幸の大学受験が終わり高校を卒業した際、改めてふたりの気持ちを確かめるつもりだった。受験を控えた現在、多少たりとも足を引っ張りたくなかった。

 だから現在は、その温もりを、その匂いを――倖枝は求めた。それだけで、大きな安心感を得ていた。

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