第25章『沈淪』

第063話

 八月九日、金曜日。

 倖枝は盆休みだが、暇をしていた。

 咲幸が朝から予備校に通っているので、日中は自宅でひとり、海外ドラマを観て過ごした。しかし、咲幸の送り迎えがあるため、酒は飲めなかった。

 夕方になると夕飯の支度を行い、咲幸の帰宅後は勉強の邪魔にならぬよう、自室に籠もった。

 倖枝は咲幸に配慮し、買物以外は日夜の外出をなるべく控えた。


 その代わりというわけではないが、勉強に励む咲幸に感化された。昼間の買物の際、倖枝も気まぐれに、本屋で一冊の参考書を購入した。

 現在の不動産業に於いて、倖枝が持っておいた方がいいと考える資格は、不動産鑑定士だ。だが、倖枝はそれよりも司法書士に興味があった。食べることに困らない仕事と収入、そして誰からも尊敬される社会的地位を築けるからである。

 ひとまず、入門用の参考書を用意したが――試験概要と出題範囲を読み、早速挫けそうになっていた。

 不動産業に長年携わり、民法の知識を多少は持っている。しかし、それだけでは圧倒的に足りず、会社法や商法、登記法等までを網羅しなくてはならない。

 経営を踏まえての実務経験があるので、いざ勉強を始めても理解しやすいだろう。それでも、勉強量と、相対的に合格者が選出される試験制度から、結局は手を出せなかった。

 いつも登記で世話になっている司法書士が凄い人物なのだと、改めて尊敬した。

 そして、もしも咲幸が司法書士に成ってくれたならと――ベッドで仰向けになり、ぼんやりと思った。


 八月十日、木曜日。

 午前十時、倖枝の携帯電話に舞夜から通話の着信があった。


『おはようございます、お母さん。大変なことになりましたので、ちょっとウチまで来てくれませんか? どうせ暇ですよね?』

「は? あんた、予備校は?」

『詳しくは後から話します。それじゃあ、待ってますので』

「ちょっと――」


 用件だけを一方的に伝えられ、通話が切られた。

 倖枝は、咲幸と舞夜が通っている予備校が、明日から少ない盆休みに入ると把握している。現に、咲幸は今朝から予備校に通っているのだ。

 どうして舞夜が、この時間に自宅に居るのか。何か急用やいざこざかと疑うが、声がとても落ち着いていた。

 倖枝は、とても面倒だと思った。しかし、暇なのは事実であり、舞夜に何があったのか気になるところではある。

 仕方なく、自動車で向かった。


 森の中とはいえ、夏の強い日差しに照らされた館周辺は、特別涼しいわけではない。むしろ、蝉の鳴き声に囲まれ、より暑いとさえ錯覚した。

 倖枝は自動車から降り、門のインターホンを押した。


「ほら。来てあげたわよ」

『いらっしゃい。上がってください』


 門が開き、敷地内に自動車を駐めた。

 舞夜が館の扉から顔を覗かせ、中に招かれた。


「おはようございます、お母さん」


 舞夜は半袖の前留めシャツと膝丈のショートパンツ――パジャマ姿であった。長い髪はボサボサであり、藍色の瞳は眠たげだった。

 倖枝は一目見て、状況を把握した。


「あんたね、予備校あるのに寝坊してんじゃないわよ」

「まあ……こういう日もあります」


 アクビ混じりののんびりした声に、呆れるしかなかった。予備校に遅刻している事態への危機感は、まるで無いようだった。


「家政婦さんは?」

「遊びに行くとかで、お暇あげたの忘れてました。というわけで、朝ごはん作って駅まで送ってください」

「……は? もしかして、それだけの理由で呼び出したの?」


 舞夜がこくりと頷き、倖枝は大きく溜息をついた。

 現実的に考えれば、タクシーを呼んで駅まで行き、ファーストフード店やカフェで朝食を摂ればいい。どうしてわざわざ時間のかかる手段を選ぶのか、理解に苦しんだ。


「だって……わたしのお母さんじゃないですか」


 舞夜はにっこりと、無邪気に笑った。


「そりゃ、私はあんたの未成年後見人だけど……あんたの父親からは、家政婦代わりの仕事は頼まれてないわ」

「未成年後見人でもありますが、それ以前にわたしの『お母さん』ですよ? 娘の世話するのは当然じゃないですか」


 全く理解できない言葉に、倖枝は頭を抱えるしかなかった。

 もういっそのこと、このまま帰宅しようかと考えたが――先日に高価な贈物を貰っているため、後ろめたさに付き纏われた。


「わかったわよ。朝ごはん作ってあげるから、遅れてでも絶対に予備校行きなさいよ?」

「はい! ありがとうございます!」


 倖枝は自棄気味にキッチンへと向かった。

 とはいえ、現在まで他所のキッチンを使用することが無く、挙げ句に月城の館となればたじろいだ。空き家の頃から、このアイランド型キッチンを知っている。しかし、ダイニングと共に家具が置かれていると、それまでと違って見えた。

 広いダイニングテーブルで新聞を読んでいる舞夜を横目に――キッチンに置かれていた食パンに目をつけた。ただし、一般的な市販のものと違い、切られていない山状のものだった。倖枝は波刃包丁で適当に一枚切ると、それをトースターにセットした。

 そして、大きな冷蔵庫を開けると卵を見つけたので、それをひとつ取り出した。オムレツを作れる技術はなく、鍋で湯を沸かし、卵を茹でた。

 最後に、コーヒーを淹れようとしたが――ガラス製のキャニスターに入っているコーヒー豆をどうすればいいのか、分からなかった。インスタントのドリップコーヒーは無かった。

 仕方なく、携帯電話のインターネットで調べ、理解した。手動ミルで豆を挽くと、ドリッパーにペーパーフィルターを敷き、粉状の豆に少量の湯を垂らした。濃い目のコーヒーを、氷をたっぷり入れたグラスに注ぎ、二杯のアイスコーヒーを作った。

 トースト、ブルーベリージャム、ゆで卵、アイスコーヒー――冷蔵庫にあったヨーグルトもトレイに載せ、倖枝はダイニングに運んだ。

 実に簡単なものだが、母というより、家政婦の気分であった。


「ほら。これでいい? さっさと食べちゃいなさい」

「うーん……。こういうのも、いいですね。いただきます」


 舞夜は不満なのか、眉をしかめながらも、食べ始めた。

 普段どういう朝食なのだろうと思いながら、倖枝は舞夜の正面に座った。


「トースト、妙に分厚くないですか?」

「それぐらい食べないと、お腹保たないでしょ」

「ヨーグルトはフルーツにかけてほしかったです」

「うるさいわね! 黙って食べなさいよ!」


 立て続けに文句を言われ、倖枝は苛立ちながらコーヒーを一口飲んだ。

 正面の舞夜もコーヒーを飲み、真顔になった。倖枝としても、苛立ちがどこかに吹き飛ぶ味であった。


「……これ、めちゃめちゃ薄くないですか?」

「牛乳取ってくるから、半分飲みなさい」


 コーヒー豆の目分量を間違ったと思いながら、倖枝は席を立った。



   *



 倖枝は食後の片付けを済ませても、舞夜はまだ支度が出来ていないのか、二階から降りてこなかった。仕方なく、舞夜の部屋へと向かった。

 学習机には、参考書とルーズリーフが広げられていた。予備校を怠けている印象があったので、勉強している形跡が意外だった。

 机には勉強道具の他、先日の納車式の写真も飾られていた。倖枝はそこに映る自分を見て、なんだか恥ずかしかった。


「どっちがいいと思いますか?」


 舞夜はクローゼットを開け、ふたつのハンガーを左右それぞれの手に持った。

 ひとつは、青を基調としたチャック柄のリボンベルト付きワンピース。もうひとつは、アイボリーのフリル付きオフショルダーカットソーだった。


「どっちでもいいから、早く着替えなさい」


 まさか、服装選びで悩んでいたのだろうか。倖枝にしてみれば、心底どうでもよかった。


「今日は咲幸とデートなんですから、ちゃんとオシャレしないと……。まあ、カフェでの勉強デートですけどね」


 楽しみだと言わんばかりに、舞夜は浮かれた様子だった。

 倖枝はこれまでの苛立ちとは別に、不快感が込み上げた。咲幸が他の女とデートをするなんて、嘘だ――真っ向から否定したかったが、ふたりの事情を思い出した。

 そう。咲幸は上辺だけで舞夜との恋人関係を取り繕っている。デートではなく、友達感覚で遊んでいるに過ぎないだろう。


「……そっちでいいんじゃない? 可愛いわよ」


 倖枝はそれを理解したうえで、青いワンピースを指さした。咲幸に舞夜の肩を見せたくないための消去法で選んだ。


「そうですよね。わたしも、こっちがいいんじゃないかって思ってたんですよ」

「髪、軽く結ってあげるわ」

「ありがとうございます」


 舞夜はワンピースに着替えると、ドレッサーの鏡を開き、椅子に腰を下ろした。

 その背後に倖枝は立ち、舞夜の長い黒髪を撫でるように掬った。まずは、サラサラだがボサボサの髪にブラシをかけた。

 ドレッサーの鏡には、機嫌の良い舞夜の表情の他、余裕のある自分の笑みも見えた。舞夜と咲幸のデートなど――何も心配することは無い。


「……さっちゃんと、カフェデートよくやってるの?」

「はい。たまに……。まあ、風見さんがいつ帰るのか、それ次第ですけど」


 咲幸からは、講習終了後、自習室で舞夜と波瑠と三人で勉強していると聞いている。舞夜の言葉から、それは嘘ではないのだろう。

 しかし、舞夜とふたりきりで勉強することもあるとは、咲幸から聞いていなかった。咲幸にはわざわざ報告する義務も無いが、倖枝としてはいい気がしなかった。


「――っ! すいません、痛いです」


 顔をしかめる舞夜が鏡に映り、無意識に髪を引っ張っていたことに倖枝は気づいた。


「ご、ごめんなさい……」


 慌てて髪を手放し、改めて手に取った。

 表向きが恋人であるふたりがカフェでデートをするなど、自然な出来事だ。倖枝はそう理解しているつもりだったが――内心では許せないのだと、動揺していた。


「そうだ。咲幸から聞いています? お盆休み、プラネタリウム行くんですよ」


 舞夜に悪意が無いにしろ、さらなる追撃を食らった。


「プラネタリウム? 初耳なんだけど……」


 倖枝は誤魔化しようが無いので、正直に答えた。

 自宅では咲幸とふたりきりの時間を大切にしているので、よく会話をしている。咲幸が言い出しにくい雰囲気になったことも無い。それでも、そのような予定は聞いていなかった。

 いや――外食デートをするまで本音を聞けなかったこともあったと、思い出した。

 あの夜、咲幸とは打ち解けたと思っていた。


「受験生なんで、流石に水着や浴衣は着れませんからね……。ちょっとリフレッシュするだけですから、大目に見てください。あそこのプラネタリウムです」


 舞夜は都心の街を口にした。

 まだ近場であるため、プラネタリウムの鑑賞後に買物と食事を行っても、半日で足りるデートになる。受験生の息抜きとしては、羽目を外さない程度の丁度いい計画だと、倖枝は思った。


「それぐらいなら、まあいいわよ……」


 納得したので、文句を言えなかった。そもそも、たとえ水着や浴衣を着ようとも、盆休みなら倖枝としては構わなかった。

 それよりも――怠けると思われることを危惧しているのなら、確かに咲幸は言い出し難いのかもしれない。倖枝は先程の疑問を、良いように考えた。

 別に、舞夜とのデートを隠していたわけではないと、信じたかった。


「ありがとうございます。高校最後の夏、ささやかですけど楽しんで来ます」


 鏡越しに、舞夜が頷いた。

 その頃には、倖枝は舞夜の髪を、三編みハーフアップに整え終えていた。どこか懐古な雰囲気を醸し出しているワンピースとよく似合い、可愛いと思った。


「わぁ……。凄い良い感じじゃないですか。これで今日もバッチリですよ。ありがとうございます」

「どういたしまして。さあ、駅まで送っていくわよ」


 倖枝は舞夜の肩に手を置き、鏡越しに微笑んだ。

 この少女がどれだけ可愛くても、どれだけ咲幸のことを想っていても――波瑠と同様、咲幸が応えることは絶対に無いのだ。実に憐れだ。だから、プラネタリウムのデートぐらいは許そう。

 この時はまだ、倖枝は余裕を持っていた。

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