第062話
舞夜と昼食に蕎麦を食べた後、倖枝は舞夜を館に送った。
館でケーキとアイスティーを頂き、午後四時過ぎに帰宅した。
すぐに、ネックレスを大切に仕舞った。そして、シャワーを浴びると、カットソーとドレープパンツに着替えた。テレビを観ながら時間を潰した。
「ただいま」
午後七時頃、倖枝が帰宅した。
いつもは予備校の講義終了後、倖枝の帰宅に合わせて自習室を利用している。今日はそれを切り上げて早く帰宅させたため、倖枝は申し訳ない気持ちになった。
咲幸はケーキ屋の小さな手提げ箱を持っていた他、リュックサックから惣菜を取り出した。
「おかえりなさい。わぁ……。いろいろ買ってきたのね、ありがとう」
「ママの誕生日だもん!」
冷しゃぶサラダ、大きな焼売、鮭とアボガドの混ぜご飯。倖枝はどれも美味しそうに見えた。しかし、まだ午後からの食事が腹を下りていないため、微笑みとは裏腹に、内心では苦しさを覚えた。
「先にシャワー浴びてらっしゃい。慌てなくてもいいわよ」
咲幸を浴室に入れている間、倖枝は有酸素運動に明け暮れた。
時間をかけてのゆっくりとしたスクワット、そしてソファーに横になり自転車を漕ぐように脚を動かした。
「あれ? ママ汗かいてるけど、どうしたの?」
「な、なんでもないわ……」
リビングに姿を現した咲幸が、首を傾げた。
倖枝は短時間に集中的に運動を行い、疲労からの苦しさに襲われていた。空腹にするという本来の目的には、あまり効果が無かった。
しかし、こうして購入してきた咲幸のため――咲幸に昼間のことを隠すためにも、倖枝は無理にでも食べることを決意した。
ダイニングテーブルに咲幸と向き合って座り、惣菜を広げた。
「そうだ。新しい車、カッコいいね」
惣菜を小皿に取り分けながら、咲幸が言った。
帰宅した際、駐輪場にクロスバイクを置き、駐車場を覗いてから上がってきたのだろうと、倖枝は理解した。
「ありがとう。乗り心地も最高だから、明日は送り迎えするわよ」
「ほんと!? 楽しみだなぁ」
予備校の盆休みはまだ先だった。明日に限らず倖枝の盆休み期間は、駅までの送り迎えで咲幸を応援しようと思った。現在は朝でも炎天下のため、駅までクロスバイクで走るだけでも体力をひどく消耗するだろう。
予備校が倖枝の頭を過り、今日は舞夜が怠けて休んだことを思い出した。
咲幸が怪しんでいないか気になるが――それ以上に、昨晩の風見波瑠が無視できなかった。
彼女の気持ちが咲幸に届かないのは分かっている。しかし、勘違いした自信を持っているからこそ、暴走じみた行動で周囲を混乱させないか、倖枝は危惧した。
「波瑠ちゃん、元気にしてた?」
「え? 波瑠がどうしたの?」
冷しゃぶを食べながら、咲幸が首を傾げた。
唐突に波瑠の名前を出せばこうなるのも無理がないと、倖枝は軽率に触れたことを後悔した。
「ほら……。波瑠ちゃん、インハイで落ち込んでないのかなー、って……」
咄嗟に適当な理由を作り、誤魔化した。昨晩の様子では特に落ち込んでいないことを、既に知っているが。
「心配しなくても、波瑠は大丈夫だよ。落ち込むようなタイプでもないし」
咲幸は笑いながら答えた。
波瑠の名前を出されても、咲幸はこれ以上、特に触れなかった。
「そう……。それはよかったわね」
少なくとも、昨日今日で波瑠が動いたわけではなさそうで、倖枝はひとまず安心した。
舞夜が休んでいたことについては、触れなかった。
咲幸の購入してきた惣菜はどれも美味しく、倖枝は腹が苦しかったが、ふたりで食べきった。
その後、冷蔵庫からふたつの苺ショートケーキを取り出した。
倖枝は見るだけで気持ち悪くなった。しかし、事情を知らない咲幸に悟られまいと、表情には出さなかった。
ケーキを皿に載せ、アイスコーヒーと共にリビングへ運んだ。
「さっちゃん、ありがとう。ケーキもとっても美味しいわ」
倖枝はどれだけ苦しくとも、少しずつ食べた。咲幸がせっかく誕生日祝いで購入してきてくれたのだから、無下には出来ない。
「あっ、そうだ……。ちょっと待ってて」
先に食べ終えた咲幸がソファーを立ち上がり、自室に向かった。
そして、小さな白いショップバッグを手に出てきた。倖枝も知っている、衣服や宝飾品、化粧品までを手がける海外ブランドのものだった。
「これ、サユからの誕生日プレゼント! ママ、お誕生日おめでとう!」
再び隣に座った咲幸が、ショップバッグから白く細長い箱を取り出した。
倖枝はケーキ皿をテーブルに置いてそれを受け取り開けると、中身は――ピンク色の液体の入った、片手で持てる程度の小瓶だった。
「えっと……香水?」
液体の容量から、そのように見えた。
実際、小瓶の蓋を取ると、ベルガモットとホワイトムスクのフローラルな香りが漂った。しかし、小瓶の先端は丸く、香水にしては変わった形をしていた。
「うん、香水だよ。ロールオンってやつで、転がして塗るタイプ」
「へぇ……」
咲幸の説明で、倖枝は同じような型の制汗剤を思い浮かべ、理解した。
とはいえ――使用法は確かに便利だが、悪く言えば簡易すぎるため、香水として認識できなかった。それに、小瓶の外観や香りは『可愛い』印象であり、咲幸の年代を対象とした『若者向け』を彷彿とさせた。値段も、咲幸の小遣いで購入できる範囲だろう。
そう。倖枝の目には、まるで安っぽい玩具のように映っていたのだ。
「ママ全然若く見えるんだから、きっと合うと思ったの」
しかし、咲幸からそのような気持ちが籠っていることを考えると、とても嬉しかった。
「ありがとう、さっちゃん……。早速だけど、試しに塗ってくれない?」
だから、実際に使用して悪い印象を払拭しようとした。
倖枝は咲幸に小瓶を手渡すと、背中を向けて肩の髪を持ち上げた。
咲幸にうなじを見せた。
「う、うん……」
返事と共に、耳裏からうなじにかけてを、咲幸から香水で撫でられた。
別に他者を頼らずとも、倖枝ひとりで充分行えることであった。
「私も匂いを楽しみたいから、次はこっちも塗ってくれる?」
倖枝は咲幸に向き直ると、カットソーの襟を広げ、胸元を見せた。
正面では咲幸が、どこか戸惑いながらも恍惚の表情を浮かべていた。それでも、ゆっくりと倖枝の胸元に香水の小瓶を伸ばした。
ぎこちなく鎖骨に触れる咲幸に、倖枝は優しい微笑みを向けていた。事実、嬉しかったのだ。
咲幸とは、とても近い距離だった。
だから――手の動きを一度止めた咲幸から、そっと唇を重ねられるのは、自然な行為に感じた。
倖枝は瞳を閉じ、柔らかな唇の感触とフローラルな香りを楽しんだ。
これが三十五歳の誕生日で、何よりも嬉しい贈物であった。
舞夜からは、格好いい母親を求められた。
咲幸からは、可愛い女性を求められた。
どちらの贈物も嬉しかった。
しかし、倖枝は後者で在りたかった。
すぐに泣いてしまう、か弱い女として――愛する存在から包まれていたかった。
(第24章『贈物』 完)
次回 第25章『沈淪』
盆休みの朝、倖枝は舞夜に呼び出される。
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