第07章『買物』

第016話

 十二月十日、土曜日。

 午後四時を回ると、それぞれの営業が案内を終えて店に戻ってきていた。一部は商談にまで持ち運べたので、店舗の計画としては悪くなかった。


「春名。ちょっと今から、御影邸に行ってくるね」


 この時間帯ではまず無いだろうが、もしも飛び込みの客が来れば、次席の夢子が対応出来る。

 倖枝は席を立つと、ダウンジャケットを纏い鞄を持った。


「え? 今からですか?」

「うん。もうちょっと見ておきたくて」


 御影邸のことは全て把握しているつもりだが、改めて見直すことで、新しいセールスポイントが見つかるかもしれない。明日は投資家の案内が一件入っているので、今一度詰めておきたかった。


 倖枝は自動車を走らせ、御影邸に向かった。夕暮れ時だったが、まだ陽は落ちてはいなかった。

 自動車を降りると、寒さで身体が震えた。十二月になり、季節はすっかり冬だった。


 倖枝は玄関に入って――下駄箱を開けた。

 なんとなくだった。いや、少しの期待と少しの予感があった。

 がらんとした下駄箱には、サイドファスナーのショートブーツが一足だけ在った。引っ越しの忘れ物ではないと、倖枝は悟った。

 きっと、査定でここを初めて訪れた時も、このように靴があったのだろう。


 倖枝は本来の目的を忘れ、すぐに螺旋階段を上り二階へ向かった。空き家であるためそれぞれの部屋の扉は開いているが、一番端の部屋のみ閉まっていた。

 そこを開けると、夕陽の差し込む薄暗い部屋で――月城舞夜が、机で文庫本を読んでいた。


「あら。いらしていたんですか」


 扉を開けた存在に気づいたのか、本から顔を上げ、倖枝に微笑んだ。

 わざとらしい仕草だと、倖枝は思った。


「まだ片付いてないじゃない……。この前だって、案内に来た時に怪しまれたんだからね」


 倖枝の中で言いたいことは沢山あったが、まずはそれだった。

 どの案内客からも、この部屋のみ家具が残っていることについて触れられるが、深くは詮索されなかった。倖枝としても最初は撤去予定の一点張りだったが、次第にモデルルームとして紹介していた。幸い、家具も高級そうなものであるため、部屋と合わせる例としては最適だった。


「というか、退ける気ある?」


 とはいえ、苦しい言い訳をいつまでも続けたくはないので、一刻も早い撤去を望むが。

 ふと視線を動かすと、ベッドにクラゲのファンシーなぬいぐるみが置かれていた。水族館で購入したものだった。

 退けるどころか、モノが増えていた。


「いえ……無いですけど……」


 舞夜は本を閉じ、即答した。


 ――自分の家に居てはいけませんか?


 おそらく、現在もこのつもりなのだと、倖枝は思った。

 土地建物の占有による取得時効を狙っているのではなく、どうしてこの館にここまで固執するのか、わからなかった。


「そんなことより……久しぶりに会えたんですから、もっと喜んでくださいよ」


 舞夜が立ち上がり、微笑んだ。

 黒いコートと黒いタイツの中で、グレーのニットワンピースが映えていた。

 こうして舞夜と会うのは、約二週間ぶり――水族館以来だった。あの時よりも大人に見える服装であり、倖枝としてはこちらの方が似合っていると思った。


 あれからすぐに期末試験があったのは、咲幸を通して知っている。

 その間に倖枝は気持ちが沈みはしたものの、須藤寧々によって立ち直れた。

 そもそも、落ち込むことになった主な原因は――


「咲幸とのキスが、そんなにショックでした?」


 舞夜の瞳が、笑っていた。

 右手の小指には、黒猫の指輪が嵌められていた。


「……わたしにキスしても、いいですよ? 何なら、倖枝さんの気が済むまでわたしを滅茶苦茶にしてくれても構いません……あの時みたいに」


 舞夜はそう言い、コートを脱いだ。そして、コートを椅子の背もたれに掛けると、シーツのみかけられたベッドに座った。


 倖枝は唾を飲み込んだ。一度味わったことのある、ロジーナ・レッカーマウルの感触を思い出した。

 いつもの挑発だとは、わかっていた。

 しかし、現在この館には他に誰も居ない。娘も居ない。

 手を伸ばせば、欲しいものが手に入るが――


「やめなさい」


 倖枝はコートを取ると、舞夜の肩に掛けた。

 ――水槽のクラゲのように、もがいてみると決めたのであった。

 渇望と嫉妬が入り乱れる中で、まだ我慢することが出来た。


「ふふっ、合格ですよ――お母さん」


 舞夜は小さく笑うと、コートに袖を通した。


「普通、母娘でキスなんてしませんよね。ましてや、セックスも」


 当たり前の言葉を聞くと同時、舞夜と擬似的な母娘になる契約を交わしていたことを、倖枝は思い出した。

 試されていたのだ。やはり、ただの挑発だった。


「あんたね……一体何がしたいのよ?」


 倖枝は合格したことに喜ぶこともなく、呆れた半眼を舞夜に送った。

 ここへ査定に来た時は、確かに待ち構えていたのかもしれない。しかし、今日ここへ来ることを舞夜は絶対に知らないはずだ。

 舞夜にとっては折角の休日なのだから、咲幸とデートすればいいのにと思うが――咲幸は今日は部活だと思い出した。

 だから、ひとりでこの部屋で本を読んでいた。こうして会えたのは、ただの偶然。倖枝は、そう割り切った。


「そうだ。これ見てください」


 舞夜はベッドから立ち上がり、鞄の中を漁った。そして一枚の紙切れを取り出すと、倖枝に手渡した。

 学校が交付する試験結果――今回の二学期末のものだった。各教科の点数と学年内順位がそれぞれ書かれていた。咲幸のものを、今まで何度も見てきた。


「わたし、頑張りましたよ」


 咲幸はいつも通り、今回も平均点程度だった。

 舞夜の結果は、それよりは良かった。しかし、学年上位といわけでも無かった。


「うん……いいんじゃない?」


 令嬢は勉強を出来るという勝手なイメージを、倖枝は持っていた。良い結果なのだが、その意味ではなんだか残念に感じた。


「どうしてそんなに投げやりなんですか?」


 舞夜は拗ねるように、頬をぷくっと膨らませた。

 ついさっきまでの大人びた雰囲気から一変し、一気に幼くなったと倖枝は思った。十歳ぐらい退行したかのようだった。


「いや……凄いと思ってるわよ」

「それじゃあ、褒めてくださいよ」


 舞夜は俯き、倖枝に頭を差し出した。

 文化祭での書道教室を倖枝は思い出し、舞夜の頭を撫でた。

 何が嬉しいのか理解できないが、舞夜は満足そうな表情だった。


「頑張ったんで、もっとご褒美が欲しいです」


 頭から手を離すと、舞夜が顔を上げた。

 ニヤニヤとした笑みに、倖枝は嫌な予感がした。


「何が欲しいのよ?」

「もう少しで、クリスマスじゃないですか」


 確かに、あと二週間でクリスマスだった。街の至る所でそれに因んだ催しがされているため、嫌でも目に入った。

 倖枝はこの行事を毎年特に祝うことなく、家族で鶏料理とケーキを食べ、咲幸に何かプレゼントを渡す程度だった。気分が舞い上がることも無かった。

 毎年そもそも意識すらしていなかったが――ある理由から、今年は違った。


「お母さんと、クリスマスを過ごしたいです」


 その素朴な願いが果たして褒美になるのか、倖枝には疑問だった。

 面倒だとは思うも、決して叶えてあげられないものではないが、今年に限っては出来なかった。


「無理よ。だって、その日――元同僚の結婚式なんだもん」


 数ヶ月前に招待されていた。倖枝としては面倒だったが、義理から夢子と共に参加することになっていた。

 だから、今年はクリスマスとその予定を覚えていた。


「……ロマンチックで、良いですね」

「そう? クッソ迷惑なんだけど」


 舞夜にしては珍しく、引きつった笑みを浮かべていた。

 これで文句を言い出すと面倒だと倖枝は身構えていたが、どうにもならないと理解したようだった。こちらが本当に迷惑そうな表情をしているからか、疑われることすら無かった。


「私じゃなくて、咲幸と過ごしたら?」

「何言ってるんですか。クリスマスは普通、家族と過ごすものでしょ」

「残念ながら、この国の文化は違うのよ……」


 舞夜がクリスマスに対してどのような認識を持っているのか、倖枝には分からなかった。

 舞夜が咲幸とクリスマスを過ごすことになっても――おそらく自分の目は届かないと思うので、倖枝としては構わなかった。


「それじゃあ……一緒に買い物に行きましょう」


 要求内容としては割と落ちたように感じたが、それでも倖枝としては面倒だった。

 とはいえ断れないので、頷くしか無かった。金銭面でも問題は無いだろう。


「わかったわよ。いつ、どこに行きたいのか言いなさい」

「そうですね――」


 来週の水曜日、午後五時に駅前ショッピングモールの正面入口前と提案された。

 その時間帯なら咲幸は部活のため見つかることは無く、倖枝は了承した。


「ありがとうございます。……楽しみにしています」


 嬉しそうな笑みを浮かべる舞夜は、見た目よりもずっと若い――幼い子供のようだった。

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