第015話
十二月五日、月曜日。
倖枝にとっての一週間が終わった。
御影邸の案内は同業者への二件のみであった。倖枝の予想通り転売目的だったが、やはり良い感触は得られなかった。
仕事は今ひとつだったが、暗い気持ちに飲み込まれることなく、来週も頑張ろうと気持ちを切り替えた。そう出来た理由は――
午後九時、倖枝はNACHTの扉を開けた。
薄暗い店内のカウンター席に、須藤寧々が座っていた。
「お疲れさま」
「お待たせ」
寧々から優しい微笑みを向けられ、倖枝は隣に座った。
「私もカンパリソーダ」
寧々は、赤い飲み物の入ったグラスを持っていた。倖枝も同じものを注文した。
しばらくすると倖枝にも運ばれ、ふたりで乾杯をした。
この苦い酒が、まるでふたりの関係のようだと――倖枝は思った。
「月曜にわざわざ、ゴメンね」
倖枝の仕事と違い、須藤工務店は土日が定休日だった。つまり、寧々にとっては一週間が始まったばかりということになる。
「いいよ。
寧々が家族にどう告げて現在ここに居るのか、倖枝は知らない。『倖枝と飲んでくる』でも怪しまれないだろう――女性ふたりなのだから。
倖枝は寧々の夫と面識があった。そして、寧々との不倫関係を悟られているだろうと思っていた。
それでも、口を挟まれないのは――女性同士だからだろう。公認の愛人というわけではないが、倖枝は後ろめたさが少し和らいでいた
「それで、どうしたの? 何かあった?」
「……この前、咲幸の学校の文化祭に行ってきてね」
気持ちが沈む原因は、別にあった。寧々には何でも相談できる間柄だったが、月城舞夜とのことは隠しておきたかった。
「あー……そりゃヘコむね。でもさ、行くだけ全然偉いよ。ちゃんとお母さんやってんじゃん」
決して、投げやりな言葉では無かった。
同じ母として共感して貰えているからこそ、褒められるのが嬉しかった。自分なりに頑張って行ったことを、認められた。
「私なんて、この前PTAのバザーがあってさー。面倒だから、代わりに旦那行かせたよ。たぶん私、他の父兄から毒吐かれてんだろうなぁ」
「私も、その手のは全然だったわ。でも、ママ友とは上手くやっといた方がいいと思う。……孤立すると、結構キツイから」
「ありがとう。倖枝が言うと、説得力あるね」
寧々の子供は、十歳と五歳の兄妹だった。寧々の方が年上だが、母としては倖枝が先輩だった。
「私ら、本当にダメな母親だね」
「いいのよ……。それでも、何とかなってるんだから」
物静かなバーだが、倖枝は数少ない理解者と酒を交わして談笑した。
久々に、楽しい時間を過ごせたと思った。
*
もしも、自分に夫が居たのなら――寧々と身体を重ねる度に、倖枝は思う。
誰かと一緒なら、ちゃんと咲幸を育てられただろうか?
誰かと一緒なら、ちゃんとした母親に成れただろうか?
わからなかった。その仮定の先は想像出来なかった。
ただ、現在という結果への自己嫌悪が込み上げるが、肉体的な快楽で誤魔化した。
現実は何も変わらない。
嫌な気分を一時的に上書き出来るなら、それでいい。
きっと、男が何らかの手段で毎日上書きしてくれる――倖枝にとっての夫は、そのような象徴だった。
咲幸を身籠って以降、男との性交は無かった。
倖枝はそれを望まなかった。どれだけ避妊しようとも、子作りの行為自体に吐き気がした。
「ねぇ。それ、美味しいの?」
ビジネスホテルのダブルベッドで加熱式の煙草を吸っていると、横から寧々が取り上げた。
「所詮はパチもんだし、超不味いわよ。年頃の娘が居る手前、本物吸えないから……」
倖枝が通常の煙草から加熱式に切り替えたのは、咲幸が高校に入学してからであった。
倖枝は自分が高校に入学した頃から、煙草を吸っていた。娘が同じ道を辿らぬよう、興味を持たぬよう、咲幸の前で煙草を吸うことは極力控えた。そして、咲幸の生活に匂いすら漂わせてはいけないと思い、加熱式に替えた。禁煙という選択肢は、そもそも無かった。
「ほんとだ。なんていうか、コレじゃないって感じが凄いね」
寧々は一口吸うと、倖枝に返した。
寧々も同じく過去に煙草を吸っていたが、出産と同時に絶った。その行動を、倖枝は尊敬した。
「……寧々さんにとって、私は何?」
倖枝はサイドテーブルに煙草を置くと、全裸の寧々の肩にもたれ掛かった。
「何って……ただの
浮気と不倫の違いを、倖枝は知らない。
ただ、倖枝の中では――結婚と性関係、それぞれの有無で線引されていた。その意味では、寧々との関係は間違いなく不倫だった。
刑法には該当しないが、民法では不法行為に当たる。配偶者からの損害賠償請求の対象となる行為だった。
「それじゃ不満なの?」
倖枝は寧々から頭を撫でられながら、表情を覗き込まれた。
「ううん……。寧々さんのこと、恋愛では好きになれないから……。これからも、友達で居てね」
倖枝としては、不倫をしているという実感があまり無かった。自覚や後ろめたさはあるものの、遊びの延長のつもりだった。
きっと、寧々と出会った時からそうだった。
「ていうか、恋愛って何? 誰かを好きになるって、どんな感じ?」
倖枝は寧々の頬に触れて、訊ねた。
三十四年の人生の中で、そのような経験は間違いなく一度も無かった。十七で咲幸を身籠らなければ経験していたかもしれないと、思っていた。
倖枝の質問に、寧々は大笑いした。
「三十超えたババアでする話じゃないって。たぶん、二十年ぐらい遅いよ」
「……」
笑われたが、倖枝は恥ずかしいと思わなかった。酒で酔っているせいか、ぼんやりと寧々の顔を見上げていた。
「それでもさ……何年何十年かかっても、倖枝が好きだと思える人が現れるといいね」
寧々の言葉が、倖枝の中に響いた。瞳の奥が熱くなった。
――そのような人物が現れることは絶対に無いと、わかっていたのだ。
不幸に溺れるのが楽だった。最低な人間だと認めるのは簡単だった。
このどうにもならない人生は――人として欠陥があるからだと思いたかった。
「それまでは……寧々さんには、私を慰めて欲しい……」
倖枝は耐えることなく、涙を流した。泣き顔を隠そうとはしなかった。
確かに、倖枝は人として欠陥があった。
弱い人間だった。誰かを妬み、寂しさを感じ、孤独を拒んだ。
――それでも、親として守らなければいけない存在が居た。
娘には、このような弱さを決して見せられなかった。
「いいよ。私が慰めてあげるから……明日からまた、頑張りな」
「うん……。私のこと、滅茶苦茶にして……」
寧々に涙を拭われ、そっと抱きしめられた。柔らかな心地良い感触を、全身で感じた。
不安が和らぐと、涙がさらに流れた。
現在だけは、この安心感に全てを委ねたかった。
この女だけには、弱さを曝け出せた。
きっと、寂しさは一生埋まらない。
きっと、心は一生満たされない。
ただ、一時的に忘れるだけで良かった。偶に涙を拭いてくれる存在が居れば、それで良かった。
自分のような人間が、特定の誰かにずっと支えて貰おうなど、おこがましい――倖枝はそう思っていた。
そう。
誰かに抱いて貰えるだけで構わない。
負の感情に押し潰されそうになれば、その都度誰かに処理して貰えばいい。
それが、どれだけ自堕落だとしても――母として、人間として足掻くためには、誰かの
(第06章『人肌』 完)
次回 第07章『買物』
倖枝は、舞夜とショッピングモールに行く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます