第13章『拒絶』
第033話
「ええ。お久しぶりです、お母様」
薄い青色のミディドレスに身を包んだ月城舞夜は、肩のストールを掴みながら、下卑た笑みを浮かべた。
宴会場のテラスには、三人の他に誰も居なかった。それがまだ幸いだと、倖枝は思った。冷たい夜空の下――寒さを忘れるほど、凛とした緊張感が漂っていた。煙草を吸うという本来の目的も忘れていた。
恐る恐る、隣の御影歌夜に振り返った。
「そうね……。貴方がここに居ても、珍しくないわね」
歌夜からは、最近まで見せていた柔らかな雰囲気は無く、つまらないものを見るような目で少女を眺めていた。
「あの人の代わりに来たの?」
「いいえ。わたしは、わたしの意思でここに居ます……。お母様と違って、他の方々と有意義な話をしていると思いますけど?」
倖枝は、ふたりの会話があまり理解できなかった。
舞夜は自分の都合でこの宴に参加し、他の客達と親睦を深めている――何か、金銭に関わる話をしているように思えた。
ただ、クスクスと笑う様は、明らかに歌夜の神経を逆撫でしていた。
「やめなさい! 私はもう、貴方の母親じゃないのよ!?」
かつて『月城歌夜』だった人物は、かつて自分の娘だった少女に怒鳴った。
明確な拒絶を突きつけた。
「ちょ――御影様」
倖枝は流石にまずいと思い、苦笑しながら歌夜を制止した。
ガラス張りの壁の向こう――会場内を確かめるが、誰もこちらに目を送っていなかった。どうやら、歌夜の怒鳴り声は聞こえていないようだった。
「嬉野さんに忠告しますけど、この人は実の娘を平気で捨てる人ですよ? せいぜい切られないように、注意してくださいね」
怒鳴られても、舞夜は動じることなくまだ笑っていた。それどころか、先ほどより表情が歪んでいるように倖枝には見えた。
舞夜の台詞に、倖枝は違和感があった。
歌夜との関係――顧客としての付き合いであることを、舞夜は知っているはずだ。こうして仲介契約を結んでいる以上、切るということはあり得ない話だ。
だから、その台詞が自分にではなく、歌夜を遠回しに煽っているのだと、倖枝は理解した。
「舞夜! 貴方ね!」
その意図はやはり歌夜に通じ、再び声を荒らげた。
――この場合、どちらの肩を持つべきなのか、倖枝は両者を天秤にかけた。
どちらとも面識があるので、立場としては中立だった。それが厄介だった。
付添としてこの場に居るならば、普通は歌夜側につくべきだろう。
しかし、私情では、舞夜との対立は避けたかった。そして、何より――
「御影様、落ち着いてください。……舞夜ちゃんも、お母さんに向かってそういうこと言わないの」
単純に、母娘の喧嘩を見たくなかった。
歌夜の気分を損ねるかもしれないが、倖枝は中立らしく、ふたりを仲裁することを選んだ。
「わたしは――」
舞夜が勢いのまま何かを言いかけた。しかし、開いた唇は閉じ、口角が下がった。
やるせない表情で俯いた。
「……嬉野さん。私、先に戻ってるわね」
歌夜は踵を返すと、素っ気なく言い残して室内へと戻っていった。
「すいません。一本吸ってから、すぐに戻ります」
倖枝がこの場に残ったのは、歌夜に向けた中立の意思表示のつもりだった。
――いや、舞夜をこのまま放って置くのは気が引けたからだった。
倖枝は舞夜を横目で見ながら、ストーブから少し離れた喫煙スペースへと歩いた。
「さっぶ」
緊張から解かれたのとストーブの熱から離れたのが同時であるため、強烈な寒さに襲われた。歯をガタガタと震わせながら、倖枝は加熱式煙草の電源を入れた。
すぐに、喫煙スペースにひとつの人影が現れた。
その人物は左隣に立つと、倖枝の肩にもたれ掛かった。
「まさか、ここであんたと会うとはね……。ビックリしたわよ」
倖枝は煙草を一口吸うと、隣を見ることなくぽつりと漏らした。
風は冷たいが、テラスから見下ろす都心の街明かりは、とても綺麗だった。この高さでは、星も明るく輝いているように見えた。
「ただの偶然? それとも……私らがここに来るの、知ってた?」
「さあ、どうでしょう……。秘密です」
舞夜は答えなかった。
倖枝としては、確率はそれぞれ半々だった。どちらにも捉えることが出来るため、分からなかった。
「頑張ったわね。あんまり褒められた態度じゃなかったけど……」
その言葉と共に、倖枝は左隣を見た。
肩にもたれ掛かった舞夜の頭は動くこと無く、正面を――夜景を眺めているようだった。
「……」
無言の舞夜から、返事の代わりに左手を握られた。
その手はとても冷たく、そして震えていた。
――きっと、寒さだけのせいではない。
あれだけ威勢が良かったのに内面は怯えていたのだと、倖枝は思った。
かつて、自分が娘と向き合えなかったように――この少女もまた、母と向き合うことが怖かったのだ。
「あんたのお母さんはお客さんだけど……私は、あんたの味方でもあるからね……」
倖枝はその言葉と共に、舞夜の冷たい手に指を絡め、力強く握った。小指に嵌っている指輪の感触が伝わった。
すぐに震えは止まらなかったが、しばらくして落ち着いた。
「……倖枝さん、初めてわたしのこと『舞夜ちゃん』って呼んでくれましたね」
「はい?」
舞夜の微かに笑みを含む声に安心したが、言葉の内容は呆気に取られた。
そういえば、歌夜との間を制した時に確かに呼んだと思い出した。
「いやいや。初めてなことないでしょ?」
普段から割と呼んでいる気がしていたが、それは咲幸との会話内であった。
それでも、本人を前に一度ぐらいは呼んだことがあると思った。
「わたしにとっては、初めてなんですよ。いっつも『あんた』呼びされてるの、地味に嫌だったんですから……」
舞夜は顔を上げた。無邪気な笑みを浮かべていた。
「お母さんには……舞夜って呼んで欲しいです」
この少女の言う『お母さん』に、倖枝は歌夜の姿を真っ先に思い浮かべた。現に、歌夜が先ほど舞夜を呼び捨てにしていたのが、印象的だった。
だが、自分との擬似的な母娘関係であることを――ふたりきりの時はそう呼ばれていることを、倖枝はすぐに思い出した。
「舞夜……。これでいい?」
倖枝は照れるのを隠す代わり、舞夜の頭を右手で撫でた。
呼び慣れない注文を受けてもすぐに適応出来ないかもしれないが、なるべく意識はしようと思った。
「ありがとうございます――お母さん」
薄暗い寒空の下、舞夜が満足気に微笑んだ。白い息が消えた。
「それじゃあ、私そろそろ戻るわね。また近い内に連絡するから、
「わかりました」
舞夜を気遣う意味で、倖枝は立ち去り際に、歌夜の名前を出すことを躊躇した。
こうして舞夜と話を合わせたとはいえ、ふたりがなるべく近寄らないよう注意しようと思った。
「すいません、遅くなりました」
「おかえりなさい。それじゃあ、続き紹介するわね」
会場内で歌夜を見つけ、合流した。
テラスでの素っ気ない雰囲気ではなく、和やかに迎えられた。切り替えの要領の良さに、曲者だと倖枝は思った。
再び歌夜に付き添い、様々な客人を紹介された。警戒していたが、それから舞夜の顔を見ることは一度も無かった。
午後九時頃、パーティーが閉会気味の空気となったため、歌夜と帰路についた。
車内では、感想と雑談が終始続いていた。
歌夜の部屋に戻るとすぐ、歌夜はドレス姿のままソファーにうつ伏せで倒れ込んだ。
「御影様、大丈夫ですか?」
だらしないと思いながらも、倖枝はソファーに近寄った。
「ごめんなさいね。なんだか疲れたわ……」
歌夜は約二時間、会場内では笑顔を絶やさなかった。酒にどの程度強いのか分からないが、それなりに飲んでいるはずだ。それでも酔っている素振りは無く、常に一定の気分で数多くの人間と接していた。
貴婦人として場馴れした立振舞だった。しかし、心身共に負荷が掛かっていることを、営業職の倖枝は理解していた。
そして、思いがけない人物までが現れたのだ。堪えて当然だと思った。
「本日は、ありがとうございました。とても実のあるパーティーでした。感謝しています」
ソファーに突っ伏している歌夜からはこちらが見えないが、それでも倖枝は頭を下げた。
「着替えておいとましますので、早めにお休みください。ドレスはクリーニングのうえ、お返し致します」
「クリーニングはいいわよ。私の方で一緒に出しておくから、置いておいて」
歌夜はむくりと起き上がり、ソファーに座った。気だるそうに頭を抑えながらも、ソファーの片側に寄って空きを作った。
「……ちょっと、座ってくれない?」
歌夜に言われるまま、倖枝は歌夜の左隣に座った。
本心としては、明日も仕事があるので、早く帰宅したかった。
「しんどかったけど、楽しかったわ。やっぱり、誰かと一緒にお出かけするのはいいわね」
「御影様も楽しまれたなら、何よりです……」
疲れた表情で大げさに笑う歌夜に、倖枝は苦笑して相槌を打った。現在になって酔いの回ってきた可能性を危惧した。
「ビジネスの関係だけど、貴方と出会えてよかったと思うわ……。どうかしら? 私とお友達になってくれない?」
面倒な話になってきたと、倖枝は思った。
顧客と度を過ぎた親密な関係になってはいけない。定期的に行われている社内研修で、
今回のパーティー同行は、それに該当しているのかもしれない。法務部に知られたなら、詰められる可能性があった。
しかし、倖枝としてはあくまでも営業活動の一環であった。
「御影様に釣り合いませんが、私でよければ……。よろしくお願いします」
言い訳にならないのかもしれないが、所詮は
それに――あの館の売却が済むまでだ。
歌夜が大金を手にした後、祖国に帰ると聞いているので、倖枝は頷いた。会社に知られることはないと踏んだ。
「ありがとう。早速なんだけど、ちょっと甘えさせて……」
いつになく弱々しい声と共に、歌夜は倖枝の右肩にもたれ掛かった。
やはり、現在になって酔っているのだと倖枝は思った。酒の力でこうして本心を曝け出していた。
だが、それは倖枝にとって関係なかった。
ふざけないで――今すぐにでも、そう拒みたかった。奥歯を噛み締めて、我慢した。
弱さを預ける相手。温もりを求める相手。孤独を埋める相手。それに、自分が選ばれた。
歌夜にとっての倖枝は、倖枝にとっての須藤寧々なのだ。自分がそうであるから、痛いほどに理解した。
虫唾が走るほどの同族嫌悪だった。類似点がさらに見つかったため、以前よりも悪化していた。
だからこそ、苛立つのに――放っておけなかった。
彼女を否定することは、即ち自分自身を否定することになる。
なんて憐れな女なんだろう……。
歌夜を、そして自分をそのように思いながら、行き場の無い憤りに打ちひしがれていた。
「うん……。ちょっとだけ元気出たわ」
「それはよかったです。おひとりで暮らしていると、寂しくもなりますからね……」
身を起こした歌夜に、倖枝は皮肉の意味で、精一杯の笑顔を作った。
「そうなのよ。ねぇ……近い内に、ふたりで飲まない? いつ空いてる?」
遅かれ早かれ、こう誘われる予感はしていた。しかし、まさかこれほど早く誘われるとは思わなかった。
倖枝はいい加減に溜め息をつきたかったが――これほど早いからこそ都合が良いと、気づいた。
「でしたら、私の週末が次の月曜日になりまして……十六日はどうでしょうか? どこかのお店、抑えましょうか?」
「わかったわ、十六日ね。
「かしこまりました。それでは、午後九時前ぐらいに参ります」
そう。おそらく、歌夜がここまで精神を擦り減らした原因である――
倖枝はソファーから立ち上がると、衣装部屋に移り、ドレスからスーツに着替えた。
「うんと美味しいワインと料理を、準備するわね」
「楽しみにしています……。それでは、おやすみなさい。失礼します」
玄関まで歌夜に見送られ、倖枝は歌夜の部屋と、そしてマンションを後にした。
寒空の下をコインパーキングまで歩きながら、今夜のことを振り返った。
歌夜と舞夜、かつての母娘が対面した。いがみ合ったので、仲裁に入った。そして、ふたりがそうなった原因に興味が湧き、訊き出そうとしている。
――それを知って、どうしたいのだろう。
確かに中立の立場だが、わからなかった。知らないよりは知っておいた方がいい、という程度だった。
ただ――クリスマスに、涙を流しながら何かを訴えていた舞夜の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます