第034話(前)
一月十六日、月曜日。
午後八時半になると、倖枝は店の戸締まりをした。
「ねぇ、春名。あんたのそれ、ふたり乗り出来ない? 駅前まで乗せてってよ」
従業員達が一斉に帰宅する中、クロスバイクにまたがりヘルメットを装着している春名夢子に、冗談を言った。
「ママチャリじゃないんですよ? 荷台も無いんで――というか、自転車の
確かに、一般的な自転車のような荷台が後部に無かった。バックパック分の荷物しか持ち運べないのは不便だと思った。
「それ、何キロぐらいスピード出るの? 毎日漕いでると、運動になる?」
「スペック上は四十キロぐらいまで出せると思いますけど、せいぜい三十キロぐらいでしょうか。よっぽどの長時間漕がないと、まともな運動になりません。少なくとも、私の通勤ぐらいでは全然ですね。……他に何かありますか?」
「いや……わざわざ漕がなくてもさ、
「散々訊いておいて、全否定ですか……。自分の脚で風を切るのが、気持ちいいんじゃないですか」
この寒い時期に倖枝は全く同意出来なかったが、それを言うと流石に怒られそうなので、黙っておいた。
こうして帰り際に鬱陶しく夢子に絡んでいるのは、憂鬱な気分を少しでも誤魔化したいからであった。
「いい加減『お友達』のところに行ったらどうですか? 何食べさせて貰ったのか聞かせてくださいね、興味あるんで。それでは、お疲れさまです」
「はーい。おつかれー」
静かに去っていく夢子を見送ると、倖枝は腹を括って駅の方向に歩き出した。自動車は店の駐車場に置いておいた。
歩くこと、約十分。駅に隣接したタワーマンションに着き、インターホンで歌夜の部屋へと招かれた。
「こんばんは、御影様。夜分に失礼します」
ダウンジャケットを脱いで部屋に上がるとすぐ、倖枝は挨拶をした。今夜は仕事ではなく友人として訪れているが、砕けた態度で接するのは抵抗があった。
「お仕事、お疲れさま。上がってちょうだい」
歌夜はニットとマキシスカートの上からエプロンを羽織り、髪を束ねていた。
何とも母親らしい格好だと、倖枝は思った。
広々とした部屋は暖色の間接照明のみでやや薄暗く、ジャズの音楽が流れていた。ダイニングテーブルの中央には、キャンドルの灯が揺れていた。
まるでバーのような雰囲気だと思いながら、倖枝はダイニングテーブルに座らされた。
キャンドルの隣にはバーニャカウダと、野菜を添えたチーズクラッカーが既に置かれていた。キッチンカウンターには赤と白のワイン、そしてウイスキーのボトルが並んでいた。
期待していなかったが、随分本格的だと倖枝は思った。自分の自宅での晩酌とは、全然違った。
高そうな酒の他、料理も見かけは店で出るようなものだった。本当に料理を最近始めたばかりの素人が作ったものなのか、疑うほどだった。
空間作りも料理も、やはり貴婦人ならではの感覚が働いていると思った。
「お待たせ。まだ他にもメニューあるけど、ひとまず始めましょうか」
ブリのカルパッチョを運んだところで、歌夜はエプロンを脱いで倖枝の正面に座った。
「まずは――白かしら」
「私が開けます」
倖枝は白のワインボトルを手に取ると器具でコルクを抜き、ふたつのグラスに注いだ。
流石に失礼なので値段を訊ねなかったが、華やぐ柑橘系の香りから、相当な価値のあるものだと察した。
「改めて、お仕事お疲れさま」
正面で微笑む歌夜と、倖枝は下方向からグラスをあてる振りをした。
一口飲むと、やはり庶民の舌でも上物だと分かった。今まで飲んできた白ワインの中で、間違いなく最も美味しかった。
そのワインにブリのカルパッチョがとても合った。見かけだけでなく、味も本物だった。
ソースにアスパラガスを潜らせ、バーニャカウダを食べた。アンチョビの塩味とニンニクの香味がアスパラガスの苦味と合い、酒が進んだ。
「御影様、やっぱり料理お上手じゃないですか! どれも、すっごく美味しいですよ!」
倖枝は憂鬱だったが、これらの酒と料理を目の前にし、気分が上がっていた。ここに来て良かったと、素直に喜んでいた。
「ふふっ、ありがとう。このブリはね、あそこで買ったのよ――」
歌夜が口にした店の名前は、意外にも庶民向けのスーパーマーケットだった。都心の店で調達、もしくは取り寄せていると倖枝は思っていた。
「へー。あの店で、こんなに美味しいものが売ってるんですね。……いやはや、御影様の腕がよろしいからですね」
「もうっ、褒めたって何も出ないわよ」
その後も、歌夜との談笑が続いた。
話の内容は主に、この街の店についてだった。倖枝は歌夜の主張に共感できる部分もあれば、不動産屋にも関わらず、知らない情報も聞けた。また、歌夜も知らない情報を聞けたようで、喜んで貰えた。
料理が空くと、次に歌夜がローストビーフの玉ねぎ添え、チーズアボガド、そして牡蠣のアヒージョをスキレットごと運んできた。同時に赤ワインを開け、再び話と食が進んだ。
洒落た空間と、洒落た料理。歳相応の女性らしい話を交わし、倖枝はとても楽しい時間を過ごしていた。
女子会という行事に縁が無かったが、ふたりきりの人数以外はまさにそれなのだと思った。
――誰かと身体を重ねることなく、孤独を埋めていた。
やがて、歌夜の用意した料理をふたりでほぼ全て平らげた。
腹の苦しさを感じながらもソファーに移り、ウイスキーの氷割りと共に、デザートのバニラアイスクリームを食べた。明らかに過食であるため背徳感が芽生えたが、この際目を背けた。
とても居心地が良かった。
歌夜の頬が紅潮しているように、倖枝も気持ちよく酔っていた。
だが、まだ理性は残っていた。
「あの……。以前から気にはなっていたんですが、何が原因で離婚なされたんですか?」
だから、この話を切り出すには丁度よかった。
「御影様は、とても素敵な
倖枝は苦笑しながら、話しやすい流れを作った。歌夜の肩を持つ振りをした。
歌夜からの視点で、自身を正当化する理由でも構わなかった。
倖枝が知りたいのは、あくまでも月城舞夜の関与だった。『娘さんと何があったのですか?』と直接は訊ねられなかったので、別の切口から近づいた。
「そういうのじゃないわ。……なんだかね、疲れたし、辛かったし、もういいかなって。
歌夜はロックグラスを揺らして、氷をカランを鳴らした。酒に目を落とす横顔は、淋しげな笑みを浮かべていた。
「離婚の理由は、旦那じゃなくて娘よ。私の
予想外だった。歌夜の口からはっきりとそう聞かされ、倖枝は静かに驚いた。酔いが吹き飛んだかのように、目が覚めた。
倖枝も最近、育児の失敗を認めた。その部分も似ていると思うより――クリスマスの舞夜の泣き顔が頭に浮かんでいた。
「私もはっきり言って、シンママとして育児には失敗しています。共感できると思いますので、もしよろしければ話してくれませんか?」
そう寄り添い、歌夜を促した。
まさに知りたい情報そのものが、歌夜の口から語られようとしていた。
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