第034話(後)
「そういえば、貴方はシングルマザーだったわね……。でも、たぶん貴方とは違う感じだと思うわ。そうね……私は昔から、令嬢として育てられていた」
倖枝は、歌夜の過去を聞かされた。
御影とは元々名家だったらしい。だが、ただの恋愛もしくは気まぐれから外国の嫁を受け入れた結果、落ちぶれた。そして、ひとり娘の歌夜が産まれた。
それでも歌夜は、他所の名家に嫁ぐため、令嬢として育てられた。『失敗』を経験した両親から、敷かれたレールを歩かされた。彼らとは違い、その人生に自由は無かった。
結果的に月城に嫁げたのは、良く言えば運命、悪く言えば悪運だと歌夜は語る。
「長男と、三つ下の長女――ふたりの兄妹を産んだのは、月城としてまさに理想だったわ。跡継ぎと輿入れで、役割がはっきり別れたんですもの。でも、現実は上手くいかなかったわ。いえ……ある意味で、良いように狂っていたの」
歌夜はウイスキーのグラスを空にすると、テーブルに置いた。ソファーの背もたれにもたれ掛かり、倖枝を神妙な面持ちで眺めた。
「ねぇ。経営者に必要な素質は何だと思う?」
「えっと……カリスマ性ですか?」
倖枝は支店長とはいえ、仕事に対する賃金を受け取っている被用者だった。
この場合の経営者とは、株式会社月城住建の代表取締役社長を指すのだろう。それを想像したうえで答えた。
「そうね。人を惹きつけて使役する能力は確かに大事よ。月城の人間としての
部屋は暖房が効き、とても暖かかった。歌夜は氷のほとんど残っていないグラスに、ウイスキーを注いだ。
「現状を把握し、未来を見通す能力――これに関して、長女は天才だった」
そう言うと、ウイスキーを仰いだ。
歌夜のしかめた表情は、まるで何かに怯えているように倖枝には見えた。
「あの子が中学生の頃ね……お小遣いで、市場の株を売り買いしたいって言ったのよ。旦那は面白がって、代理で注文通りに動いたわ。そうしたら……百万円の元手が一ヶ月で一千万、半年で一億になったわ」
「マジですか?」
信じられない話だった。
倖枝は職業柄、土地価格の動向には敏感だった。だが、変化後の結果を追うばかりで、どう変化するのかはほとんど予想出来なかった。
亡き父親も趣味で株取引を行っていたが、儲かるばかりではなく損に嘆くこともあった。
しかし、歌夜の話のように儲けが雪だるま式に大きくなるのならば、変化を正確に予想しているのだと思った。
「旦那も驚いたけど、その才能を認めたわ。それからは、会社の業績予想や分譲地の土地仕入れ……あの子を仕事に使ったのよ」
その話を聞く限りでは、現在の舞夜は月城住建での重要な位置――経営者寄りに居ることになる。
倖枝はやはり信じられなかったが、先日のパーティーに居合わせたことが裏付けているかのようだった。
「兄妹ふたりで――次の代も安泰だと、旦那は大喜びだったわ。それでも、私は……許せなかった」
「どうしてですか?」
倖枝には、忌み嫌う理由が分からなかった。娘のそのような活躍は、母親として喜ばしいのではないのかと思った。
「きっと、私の考えが古いんだと思う……。今どき、女性の経営者なんて珍しくないわよね。それでも、名家の女が表に出てはいけないのよ! 家柄を繋いで子孫を繁栄させる――私がそう育ったんだから、あの子もそう育ててきたのよ! あの子の
悲痛な叫び声を、倖枝は聞いた。
確かに、時代錯誤な考えだと思った。だが、歌夜の生い立ちを聞いている以上、彼女の言い分全てが間違っているとは思えなかった。
そう。歌夜の目からは、舞夜に裏切られたことになるのだ。
「いいえ、違うわ……。あの子は私のように令嬢として生きるのか、会社に関わるのか……ふたつだけ、選択肢があった。あの子の意思で生き方を選んだ。それが羨ましかっただけね……」
歌夜の声が小さくなると同時、涙が含まれた。
俯いて、手のひらで頬の涙を拭っていた。
「あとは……そうね。『
「ありがとうございます、御影様――全部話して頂いて」
倖枝は隣の歌夜に向き直り、正面からそっと抱きしめた。背中を優しく撫でた。
彼女に対して同族嫌悪があった。しかし、似ている部分は数多くあったが『失敗』に関しては明確に違った。
倖枝は育児に時間をかけなかった結果、咲幸には違う人生を歩んで欲しかった。歌夜は育児に時間をかけた結果、舞夜には同じ人生を歩んで欲しかった。
倖枝は咲幸との距離が開き『他人』として恋心を持たれた。歌夜は舞夜との距離が開き『拒絶』として好意が失せた。
「私と違って、信念を持って育児に取り組んでいたのに……さぞお辛いことでしょう」
何が正しいのか、わからなかった。
「私も、娘と関係を修復できるのか……わかりません」
ただ、育児に失敗した者同士であることは確かであった。
倖枝は単純に、歌夜に同情した。こうして抱きしめることが、せめてもの慰めであった。彼女を憐れむ資格は無かった。
――それでも、母親として娘を絶対に拒絶してはいけない。
一般的な倫理観の話だった。倖枝も少なからずそう思う。
しかし、倖枝は歌夜を責めることは出来なかった――自分もかつて、一度は拒絶を望んだのだから。
娘から拒絶された方が楽だと思ったのだから。
「私はまだ、娘と何とかならないかと思っています!」
倖枝は自分への言い訳のように、そう言った。
「違うのよ。私はもう、見切りをつけたわ……。だから、私みたいにならないよう……貴方は頑張りなさい」
歌夜は顔を上げ、優しく微笑んで見せた。
そうだ。これまでの歌夜の発言から、舞夜と復縁を望んでいないのは明白だった。
それなのに、どうして歌夜を諭すように言ったのだろうと、倖枝は後になって思った。
――舞夜が歌夜とのことをどう思っているのか、わからないからであった。
歌夜は舞夜を拒絶しているが、舞夜は果たしてどうなのだろう。
そして、他人の自分に『母代わり』を求める目的は何なのだろう。
*
歌夜が泣き止み落ち着くと、倖枝は駅前からタクシーに乗った。時刻は午後十一時だった。
あの夜、歌夜と舞夜のいがみあった理由が分かった。以前からの疑問が晴れたが、倖枝は良い心地がしなかった。酔いの残った頭でぼんやりとあの母娘を考えながら、タクシーに揺られていた。
自宅のマンションに着き、咲幸はもう寝ているだろうと思いながら、部屋の扉を開けた。
リビングが明るかった。
「あっ、ママ! おかえり!」
リビングの扉を開けるとすぐ、ソファーからパジャマ姿の咲幸が立ち上がり、抱きついてきた。
家族としての抱擁でないのは分かっていた。
――それでもよかった。
だから、咲幸からのキスを素直に受け入れた。
たとえ舞夜が歌夜との復縁を望んだところで、きっと無理だろう。あれだけ距離が離れては、間に合わないだろう。
そう。あの母娘は、もう終わったのだ。
倖枝はそう理解すると、咲幸を正面から抱きしめた。
「どうしたの、倖枝……。泣いてるじゃん」
「何でもないわ」
溢れる涙を堪えるように、強く抱きしめた。
歌夜と舞夜の母娘が悲しかった。
それだけではなかった。歌夜には自己嫌悪や同情が湧いていたが――彼女と比較したうえで見下している自分が、たまらなく腹立たしかった。自分はまだ恵まれているのだと、安堵していた。
どれだけ歪んでいても、まだ咲幸とは同じ屋根の下で暮らしているのだから。近くて遠いが、まだ拒絶には至っていないのだから。
「さっちゃんのこと、好きだからね。大事にするからね」
「ありがとう……。あたし、嬉しいよ」
それは悲しみの涙であり、怒りの涙であり、そして感謝の涙であった。
娘との心の距離は、きっと遠くに離れている。
しかし、まだ腕の中にその温もりがあることが――それだけが、ただ有り難かった。
(第13章『拒絶』 完)
次回 第14章『料理』
倖枝は咲幸の誕生日を祝う。
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