第14章『料理』
第035話
一月十九日、木曜日。
午後九時過ぎ、倖枝は仕事を終えて帰宅した。
咲幸が夕飯を作って待っていたので、一緒に食べた。キノコとほうれん草のマカロニグラタンと、鮭のムニエルだった。
「そういえばさ……来週、さっちゃんの誕生日じゃない?」
倖枝はふと、仕事中に卓上カレンダーを見て思ったことを口にした。
来週の金曜日――一月二十七日は、咲幸の十七歳の誕生日だった。
「何か欲しいものある?」
一般的な家庭は、何歳まで子供に誕生日プレゼントを贈るものなのか、倖枝はわからなかった。中には、幼児扱いに腹を立てて拒む子供も居るのかもしれない。
咲幸にそのような様子は無いので、倖枝は今年もプレゼントを贈ろうと思った。
「ママの愛情が欲しいなっ」
咲幸はにっこりと微笑んだ。
冗談で言っていると、倖枝は理解していた。しかも、家族としての愛情ではなく、恋人としてという意味だ。
だが、倖枝には『母としての愛情が足りていない』と実の娘から言われたように思い、いい気がしなかった。
「いや……そういうんじゃなくて……」
「ママが選んでくれたやつなら、何だって嬉しいけど……。ほら、この前のクリスマスプレゼントみたいに」
確かに、子供の欲しいものを普段の日常生活から汲み取って用意するのが、理想だった。もしくは、何らかの願いが込められていると喜んで貰えるだろう。
クリスマスプレゼントは後者であり、偶然にしては上手くいったと、倖枝自身思っていた。
いや、偶然だからだ。そのような発想が故意に湧くことがなく、現在に至っている。娘に喜んで貰えるため、欲しいものを贈りたかった。
「というか、今年に限ってどうして? ねぇ?」
食事中にも関わらず、咲幸は両肘をテーブルについた。そして、顎を両手に載せ、ニヤニヤと嬉しそうな笑みを浮かべていた。
昨年までは、例年通りのクリスマスプレゼント同様、現金もしくは電子通貨カードを渡していた。今年の変化点といえば――咲幸にしてみれば、ひとつしか考えられないだろう。
しかし、倖枝としては、咲幸の期待と真逆だった。咲幸との関係を『一般的な家庭』に戻すため、母として娘の誕生日を祝おうと考えていた。
「先月のボーナス、いつもより多かったからね……。欲しいもの、何だって言いなさい」
倖枝は咲幸の言い分を否定したかったが、我慢して適当な理由を述べた。先月の賞与自体は、特別多いというわけでもなかった。
「うーん……。それじゃあ、あれ欲しいな――ロードバイク? クロスバイク? この前、夢子ちゃんに乗せて貰ったの」
夢子が普段の通勤に使用しているスポーツタイプの自転車を、倖枝は思い浮かべた。
ロードバイクとクロスバイク。ふたつの単語を聞いたことはあるが、その違いは分からなかった。夢子が自分のものをクロスバイクと言っていたので、それに該当するとだけ認識していたが。
「春名が乗ってるようなやつ? 通学に使うのね?」
「うん!」
咲幸は通学に、俗に言うママチャリ――前カゴと荷台のある一般的な自転車を使用していた。スポーツタイプのものに替えたなら、少なからず現在よりも通学が早く、そして楽になるだろう。
倖枝は以前、夢子の自転車通勤に、持てる荷物が少ないと思った。だが、咲幸は四角い大型のリュックサックひとつで通学しているので、それは大丈夫だった。
「わかったわ。その自転車、買ってあげる」
「ほんと? ありがとう、ママ!」
咲幸が高校に通うのは、残り一年と少しだった。いつから欲しいと思っていたのかは分からないが、倖枝はもっと早く購入すべきだと思った。
とはいえ、咲幸同様、倖枝もその手の自転車に関する知識は持っていなかった。何を購入すればいいのか分からなかった。
「明日、春名にオススメ聞いてみるわね。それでいい?」
「うん。お願い」
自転車の店員は単に値段の高いものを押し付けてきそうなので、詳しそうな夢子が頼りだった。
娘の通学の世話――母親らしい贈物を出来そうで、倖枝は満足だった。
*
一月二十日、金曜日。
午後一時を過ぎ、倖枝は昼休憩に入った。コンビニで購入したけんちん汁を給湯室の電子レンジに入れ、温めた。
春名夢子もこの時間は予定が無く、持参した弁当箱を自分の机で広げていた。
「ねぇ、春名。来週のさっちゃんの誕生日に、あんたが乗ってるような自転車を買おうと思うんだけど、オススメある?」
「オススメって……ざっくり過ぎません? 用途は何ですか? ロードですか? クロスですか? 予算はいくらですか?」
倖枝が訊ねたところ、夢子から半眼の視線を送られた。
確かに大雑把に訊ねた自分も悪いが、面倒な女だと倖枝は思った。
「通学に使うだけだから、入門用でいいわ! ロードとクロスって、どう違うの!? ていうか、いくらするの!?」
「通学で使うなら、丈夫さでクロスですね。ロードは耐久面を犠牲に、走るのに特化した感じです。エントリーモデルもピンキリですが……それなりのブランドだと、七万から八万ぐらいでしょうか」
夢子の簡潔な説明に、倖枝はおよそ理解した。
値段のことはあまり考えていなかったが、高くても三万円から四万円ぐらいだと思っていたので、大誤算だった。とはいえ、ひとり娘の誕生日プレゼントとしては許せる範囲だった。
「ちなみにだけど……あんたの言うブランド未満だと、自転車乗りから見たらダサいものなの?」
「はい。ププッて感じです」
夢子の小馬鹿にするような笑い方に、倖枝は苛立った。自転車メーカーやブランドは分からないが、娘が笑われないよう、やはり惜しんではいけないと思った。
「あとは……乗り心地というか、咲幸ちゃん次第でしょうか。そういう意味で、これを買えば間違いない、というやつは挙げられません」
「わかったわ。あんたの都合の良い時に、さっちゃんと一緒に店まで行ってくれない? 代金の他にあんたの『手当』も私が出すから」
「いえ……咲幸ちゃんのためなら、構いませんよ。私も、ヘルメットかライトでもプレゼントします」
「わざわざ悪いわね。また何か、お礼するわ……。それじゃあ、二十九日までにお願い」
「了解です。私に任せてください」
夢子との話がまとまり、ひとまず咲幸への誕生日プレゼントはどうにかなりそうだった。当日にクレジットカードを夢子に手渡し、決済と配送手続きを代行して貰うつもりだった。
一安心した、その時――入り口の自動扉が開き、誰かが入ってきた。受付の事務員が何も言わないところ、客では無かった。
「やっほ。店長、久しぶり」
店の事務区画に現れたのは、ウェーブパーマの前髪無しショートヘアと眼鏡の女性――須藤寧々だった。
「お世話になってます」
「どうも、社長。どうしたの?」
今日、寧々が訪れる予定は、倖枝はどの従業員からも聞いていなかった。
だから、突然の寧々の訪問に驚いた。気分が上がり、今にでも抱きつきたいぐらいだが、我慢した。
「いやー、通りがけのついでで悪いんだけど……。はい、春名ちゃん。見積もり持ってきたよ」
「随分早く出来たんですね。ありがとうございます」
寧々が鞄から取り出したクリアファイルを、夢子は受け取った。
「……マジですか?」
夢子の表情の変化は掴み難いが、クリアファイルの書面を眺めて明らかに渋くなった。
金額か納期――あるいは両方が悪い方に予想外なのだろうと、倖枝は察した。
「ごめんね。でも、精一杯頑張って、それだから……」
「わかりました……。一応、これで話してみます」
苦笑する寧々に、悪い知らせだから早めに持ってきたのだろうと倖枝は思った。通りがかったついでに立ち寄ったというのも、信じられなかった。
「それじゃあ、私はこれで……」
「社長! ちょっと待って! あっちでお話しましょ!」
ばつが悪そうに去ろうとする寧々を、倖枝はふと思い立ち、呼び止めた。
けんちん汁を手に席から立ち上がると、寧々の腕を引っ張り、給湯室に連れ込んだ。扉を閉め、狭い部屋にふたりきりになった。
「……クリスマスはごめんね。大丈夫だった?」
小さな声で、寧々は言った。
そういえばあの夜、落ち込んで電話をするも断られたのだと、倖枝は思い出した。寧々にしてみれば、もしかすれば引きずっていたのかもしれない。なんだか申し訳なかった。
「うん。なんとか大丈夫だったわ。あれは私が悪いんだから、寧々さんは気にしないで。それよりも――」
勤務中とはいえ、寧々を抱きしめてキスをしたい衝動を、当然ながら持っていた。しかし、寧々を呼び止めた理由は、そのことでも夢子の見積もりの件でも無かった。
「ねぇ。子供の誕生日どう祝えばいいのか、教えてくれない?」
「は?」
突拍子もないであろうことを訊かれ、寧々は目を丸くした。
「え――今さら?」
「うん、今さら。今年こそは、母親らしいことしようと思ってさ……」
けんちん汁を食べながら、倖枝は正直に話した。咲幸との歪んだ関係については伏せたが、その言葉は事実だった。
母親としては倖枝が先輩だったが、子育て自体は寧々の方が立派に取り込んでいた。
「とはいってもねぇ……。
「あー。それはご愁傷さま」
寧々の子供は十歳の娘と五歳の息子なので、そのような様子が安易に想像できた。
倖枝も本来であれば他の保護者と競うことになっていたのかもしれないが、結果的には免れて良かったと思った。
「うーん。パーティーかぁ……」
「なになに? 咲幸ちゃんの誕生日パーティーやるなら、私行くよ?」
寧々が目を輝かせて乗ってきた。純粋に、楽しそうだと期待するものだった。
「ウチ狭いから、無理よ。ていうか、さっちゃんそういう歳じゃないって」
舞夜や波瑠の他、咲幸と縁のある夢子や寧々を招待してのパーティーは確かに楽しそうだと倖枝は思った。
しかし、現実的ではないので却下した。自宅のリビングに集まることが出来るのは、せめて四人が限界だった。
「えー。パーティーはいくつになっても嬉しいもんだよ? ……それじゃあさ、料理してみたら?」
「料理って、私が?」
「うん。倖枝、普段料理しないじゃん? 誕生日にだけでも何か作ってあげたら、絶対に喜ぶって。ケーキなんてどう?」
「なるほど……」
寧々の提案に、倖枝は納得した。
普段、全く料理をしないわけではなかった。一品物等、簡単な料理はしていた。なので、特別な日に特別な料理を振る舞えば、母親としての真心を伝えられるだろう。良い考えだと思った。
「ちなみに、寧々さんはケーキ作れるの? 作り方、教えて欲しいんだけど」
「私がそんなの作れるわけないじゃん。どこの洋菓子店がアニメのキャラクターケーキ上手く作れるかで、戦ってるんだから」
「……私も、さっちゃんの写真を店に持って行ってみようかしら」
期待外れの答えが返ってきたので、倖枝は冗談でそのように漏らした。
「ケーキは無理かもしれないけど、何か御馳走作ってみるわ。ありがとう、寧々さん」
「頑張りなよ。応援してるからね」
話が済んだところで、給湯室の奥にいた寧々が部屋を出ようと扉に近づいた。
しかし、扉を開けようとしたところで振り返った。倖枝の前髪を上げ、額にキスをする真似をした。
「倖枝、お母さんらしくなってきたというか……なんか、生き生きしてるね。何かあった?」
「いえ……ただの気まぐれよ」
あくまでも小声で、囁くように言葉を交わした。
倖枝は寧々の両肩に両手を置いた。そして、腰を抱かれながら、寧々を見つめた。
このまま口づけをしたいところだが、我慢した。まだ『弱さ』を預けるほどではなかった。
「そう……。また今度、飲みに行こうね」
寧々は残念がる様子もなく、無邪気に笑った。
――本当なら、今すぐにでも寧々に縋りたいところだった。
しかし、否が応でも母親らしく気丈に振る舞わなければいけない状況にあることを、倖枝は言えるはずが無かった。
ただ、寧々と久々に会えた喜びを静かに噛み締めながら、扉を開けた。
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