第036話
一月二十二日、日曜日。
午後十一時頃、倖枝は風呂から上がった。
「だから、誕生日はママと過ごすんだって!」
リビングに入ると、ソファーに座った咲幸が携帯電話で誰かと通話していた。
倖枝は聞き耳を立てながら、キッチンの冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。
「カラオケ? そんなの、波瑠達だけで行ってくればいいじゃん! えっ、誕生日パーティーのクーポン? どうでもいいよ!」
咲幸の言葉だけで、倖枝は会話内容を大体理解した。
同時に、都合がいいと思った。
取り出した缶ビールを再び冷蔵庫に再び仕舞うと、気配を消してソファーの背後に忍び寄った。そして、咲幸の手からさっと携帯電話を奪い取った。
「あ――」
「もしもし、波瑠ちゃん? さっちゃんのお母さんです」
『えっ、おばさん!?』
通話相手はやはり思った通り、風見波瑠だった。驚いた声をあげられた。
「さっちゃんのお誕生日に、パーティーしてくれるの?」
『はい……。部活の皆でカラオケでも行こうかな、と』
「いいわね、カラオケ。さっちゃん連れて行って、盛大に祝ってあげて貰える?」
『はい! ありがとうございます!』
「ちょ――ママ!」
波瑠と勝手に話を進めた。
ソファーの背もたれ越しに、咲幸から不機嫌そうな視線を向けられた。携帯電話を返してと、腕を伸ばされた。
倖枝はそれを躱しながら、咲幸に微笑みかけた。
「ただね……午後八時ぐらいには、さっちゃん帰してくれない? そこからは、私の番だから」
『え……あ、はい。というか、おばさんも一緒にどうですか?』
「あー、ごめん。私は、サプライズの準備があるから遠慮しておくわ……。それじゃあ、さっちゃんに代わるわね」
伸ばした腕を下ろしてぽかんとしている咲幸に、倖枝は携帯電話を返した。
そして、そのままキッチンに足を運んだ。冷蔵庫から缶ビールを再度取り出し、ようやく一口飲んだ。
咲幸の誕生日には仕事を早退し、何か料理をする。咲幸には黙っておき、驚かせるつもりだった。
ただ、咲幸の側で料理をしたくなかったので、当日は何らかの方法で自宅から離れて貰う必要があった。その方法について悩んでいたところ、波瑠からの誘いがあり、助かった。
「――それじゃあ、また明日ね」
咲幸が携帯電話を置くのを確認すると、缶ビールを手に咲幸の隣に座った。
「ママ――ありがとう!」
勢いよく抱きつかれた咲幸から、缶ビールがこぼれないよう気をつけた。
胸に顔を埋められ倖枝は不快だったが、我慢して咲幸の頭をそっと撫でた。
「母さんばっかりじゃなくて、お友達とも遊んでらっしゃい。来年はたぶん、そんな余裕無いんだからね?」
来年の今頃――高校三年生の一月末は、大学受験直前のため誕生日どころではないだろう。友達と遊べる機会も次第に減るため、咲幸が悔いの無いよう、倖枝は後押ししたかった。
「それでも、サユはママさえ居ればいいよ……。サプライズ、楽しみにしてるね」
「ええ。楽しみにしておいてちょうだい」
内容さえ伏せておけば、何か驚かせる企てがあると咲幸に知られてもよかった。
いや、もしかすれば内容に勘付かれているのかもしれないが。
「えへへ」
そうだとしても、わからない振りをして貰えている限り、倖枝の計画は順調だった。
顔を上げた咲幸は、無邪気な笑みを浮かべていた。
*
一月二十三日、月曜日。
倖枝にとっての一週間がようやく終わろうとしていた。しかし、二日間の休日を挟めば、すぐに咲幸の誕生日だった。ここ最近は、その行事で頭がいっぱいだった。
誕生日プレゼントのクロスバイクは、明日の夜に夢子が咲幸を店に連れて行く予定だった。倖枝も休日なので財布係として同行し、決済を済ませるつもりだった。
贈物と、まだメニューは決まっていないが――料理は、ひとまず計画通りに事が進んでいた。
しかし、倖枝の中で何かが腑に落ちなかった。
倖枝は店長席に座ったまま、携帯電話を取り出した。メッセージアプリの『ロジーナ』の会話を開くと、クリスマスに送った一言に既読マークが付いているだけだった。
そう。月城舞夜の存在が頭に引っかかった。
まだ咲幸の恋人にも関わらず、咲幸の誕生日の予定に影すら登場していないのだ。
咲幸と同じ学校に通う身ならば、風見波瑠の企画したカラオケの誕生日パーティーに――舞夜が参加するとは、とても思えなかった。
いったい、咲幸の誕生日にどのように関わるのだろう。そもそも、舞夜は咲幸の誕生日を知っているのだろうか。
倖枝の中で、悪い予感が芽生えた。
時計を見ると、午後四時過ぎだった。
「春名、ごめん。御影邸で調べることあるから、ちょっと行ってくるね」
「え――あ、はい」
自分の席で仕事をしている夢子に、適当な理由を告げた。そして立ち上がると、ダウンジャケットを纏って店を出た。
自動車で御影邸に着いた頃には、陽が落ちようとしていた。
鍵で扉を開けて屋内に入るが、やはり身の震える寒さだった。倖枝は玄関の下駄箱を確認することなく螺旋階段を上り、二階の一番隅の部屋を開けた。
部屋はかろうじて夕陽が差し込み、薄暗かった。
その中で、月城舞夜は肩から毛布を被り、学習机で文庫本を読んでいた。
「あんたね……こんな暗い所で本読んでたら、目悪くなるわよ」
倖枝は呆れるようにそう言うが、舞夜は文庫本から目を離さなかった。存在を無視されているようで、倖枝は不快だった。
「……ほら。また『あんた』ですか、お母さん」
ぽつりと漏らした舞夜の言葉に、倖枝は以前のパーティーで言われたことを思い出した。
彼女なりに些細な事で拗ねているのだと、なお呆れた。
「目悪くなるからライトでも用意しなさい――舞夜」
倖枝は満面の笑顔を作り、嫌味ったらしく言った。
「はい。そうします、お母さん」
文庫本を閉じるとこちらに振り向き、舞夜もまたとても良い笑顔で応えた。
倖枝には、皮肉にしか見えなかった。
「それで……今日は何の用ですか?」
相変わらずこの部屋のみ家具や私物が置かれていたが、倖枝はもう注意する気にもなれなかった。
何度も行ってきた内覧で、この部屋をなるべく避けることに慣れてきていた。
「今週の金曜日、二十七日……さっちゃんの誕生日だって知ってた?」
「はい。当然じゃないですか」
舞夜は学習椅子に座ったまま、得意げな表情で頷いた。
「じゃあ、あんた……舞夜は、何するの?」
「……今考えてるところです」
表情は打って変わり、曇った。
この少女でもこのような表情をするのだと、倖枝は意外だった。
「ちなみにだけど……さっちゃんの友達の波瑠ちゃん、カラオケで誕生日パーティーするらしいわよ」
「なんですか、それ。初耳です」
「でしょうね」
やはり、倖枝の予感通りだった。考えられる最悪の展開に近い状態だった。
クリスマスの日――ちょうどこの部屋で、舞夜は頑張ると言ったのにも関わらず、良い感触は得られていないようだった。
倖枝は説教をしたいところだったが、残念ながらそのような余裕は時間面でも気持ちでも無かった。
「いい? さっちゃんの誕生日にサプライズで料理するから、舞夜も手伝いなさい」
舞夜に計画を説明した。
誕生日の放課後、波瑠が咲幸を連れて行っている間に、舞夜を自宅に呼んでふたりで料理をする。午後八時頃、咲幸の帰宅をふたりで出迎える。咲幸には、スーパーで舞夜と偶然会ったから手伝って貰ったと伝える。
こうして祝うことで、咲幸と舞夜の仲が少しでも修復されると倖枝は考えていた。そして――
「大体わかりましたけど……お母さん、料理できるんですか?」
「出来ないから、手伝いなさいって言ってるのよ!」
須藤寧々の提案から料理を考えていたが、やはり上手く出来る自信が無く、不安だった。ひとりでなく、誰かの助けが欲しかった。
「わたしが料理出来ると思いますか? 手伝いになるのか、疑問ですが……」
「いや、舞夜は――」
料理できるんじゃないの?
倖枝は半眼の舞夜にそう言いかけて、口を閉じた。
そうだ。冷静に考えて、舞夜もまた自分と同じぐらい料理が出来ないはずだ。
それなのに、料理が出来ると無意識に思い込んでいた理由は――御影歌夜の娘であるからだと、倖枝は理解した。
「どうかしました?」
まず思い出したのが、姿を見たことのない、舞夜の兄の存在だった。彼が人を惹きつけて使役する能力を持っているのなら、妹の舞夜に少し分けてあげればいいのに――学校で孤立気味になっている舞夜に対し、そう思った。
そして、舞夜が億単位の金銭を稼いでいるという
倖枝は、にわかには信じ難かった。目の前の、娘と同い年の少女が、自分よりも勢いよく稼いでいるというのだ。
だが、歌夜が離婚にまで至った理由としては信じざるを得なかった。
それに――倖枝もまた、この少女に踊らされている自覚があった。彼女が何手先まで見据えているのか分からないが、未来を見通す能力を持っていることに、少なからず納得していた。
「ごめん……。何でもないわ」
もしかすれば、今日こうしてここを訪れたことも、こうして咲幸の誕生日に巻き込もうとしていることも――舞夜の狙い通りなのではないだろうか? 自分が立てた計画のつもりだが、舞夜の手のひらの上ではないだろうか?
倖枝に、そのような疑問が浮かんだ。
いや、現在までの行動全てがそうである可能性もある。
しかし、それに対して不思議と怒りは込み上げなかった。確証が無いにしても、怒り以上に――
「料理できなくても……味なんかよりも気持ちよ!」
倖枝は強引に気持ちを切り替えた。
どの道、倖枝にはこの道しか無かった。結局のところ、自分自身を信じる他に無いのだ。
「そんな根性論みたいなことを言われても……。ていうか、何作るんですか?」
「ケーキと焼き鳥よ」
メニューは決まっていなかったが、現在ふと浮かんだのがそれだった。
やはり、誕生日にケーキが欲しかった。ひとりでは無理でも、ふたりなら作れそうな気がした。
そして、咲幸の好物かつ現実的に料理をできるものとなれば、焼き鳥しかなかった。
舞夜に告げた後、倖枝はこの二品を正式に採用した。
「なんですか、その組み合わせ」
舞夜は呆れるように言うが、面白そうに小さく笑った。
「わかりましたよ……。誘ってくれて、ありがとうございます」
「さっちゃん喜ばせて、舞夜と仲直りさせて――これで皆がハッピーね」
「ええ。ふたりで、咲幸にサプライズを仕掛けましょう」
何かが吹っ切れたように、舞夜は力強く頷いた。
倖枝も連れられて微笑んだ。舞夜の無邪気な表情を見ていると、先ほどまでの疑問はどこかに消えていた。
ふと、波瑠と以前会った時のことを思い出した。
咲幸と恋人になってくれるなら誰でもいい。舞夜を応援する必要が無いのかもしれない。
かつてはそのようなことを思ったが、やはり舞夜に報われて欲しかった。
そう肩入れする理由を――自分の気持ちを、倖枝はまだ知らなかった。
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