第026話(前)
十二月二十五日、日曜日。
「嬉野さん……。起きてください。朝です」
倖枝は目を覚ますも、瞬時に状況が掴めなかった。
どうして、夢子に起こされるのか。どうして、寝袋で寝ているのか。そして、ここはどこなのか。
記憶を辿るが――娘とのやり取りに真っ先にぶつかり、倖枝は顔をしかめた。
だから夢子の部屋に逃げてきたのだと、思い出した。
「ごめん、春名。頭痛薬ある?」
嫌な記憶だけでなく、単純に頭痛がひどかった。生理の時より痛みが強かった。
昨日あれだけ酒を飲んだことによる二日酔いだった。
それは夢子も察しているようで、呆れた表情で見下ろしていた。
「その前に……朝御飯にしましょ。昨日の夜に作った鶏粥の残りですけど……」
夢子はそう言い残し、キッチンへと向かった。
倖枝も寝袋から起き上がるが、立ち眩みから壁に手をついた。
不思議なことに、眠りについてから一度も目が覚めなかった。珍しく、他人に起こされるほど深い眠りだった。
しかし、気分が晴れることは無かった。
ただでさえ娘の件で最悪なのに二日酔いまでもが加わり、いっそ死んでしまいたいと思った。
時刻は午前七時半だった。
冬の寒い朝と二日酔いの身体には、生姜の効いた鶏粥が染みた。
食後、夢子から鎮痛薬を貰い、服用した。
午前九時。スーツに着替えた夢子が部屋を出ようとする頃には、頭痛は治まっていた。
「それじゃあ、部屋は好きに使ってくれて構いませんので……。どうにかして持ち直してください」
「ありがとう。今日は車で出勤していいからね。もし私がここ出る時は、ポストに鍵入れておくから」
「わかりました。何かあれば電話しますし、嬉野さんもしてください」
「ええ。いってらっしゃい」
夢子を見送り、倖枝は広い部屋にひとりきりになった。
ソファーに座ると、携帯電話を持った。気は進まないが、恐る恐る電源を入れた。
パスコードを入力した後、ロック画面に真っ先に現れたのが――午前0時に受信した、咲幸からの『待ってるね』というメッセージ。そして、午前八時の咲幸からの不在着信だった。
そう。娘は母の帰りを待っている。
どうして今日帰宅すると言ったのか、倖枝は昨日の自分を恨んだ。
いや、後悔してはいけない。たとえ宣言しなくとも、大人として、母として、せめて踏み留まらなければいけない線引がそこだと思った。
遅くても夜には――自宅で咲幸と向き合わなければいけない。
倖枝はその現実を確かめると、まずは本社に電話した。病欠で後日有給申請すること、そして明日の店長会議には必ず出席することを伝えた。
咲幸と向き合い精神状態を整えたうえ、明日こそは出社しないといけない。
やるべきことは至って単純だった。
しかし、恐怖感は拭いきれなかった。思い詰めると、涙が込み上げてきた。
咲幸と向き合ったところで、まともに話せる自信が無かった。
では、どうすればいいのか?
日中の時間が無意味に過ぎたところで、きっとどうにもならない。酒に逃げても結果は同じだろう。
解決するためには――いつも通り、この剥き出しになった『弱さ』を誰かに受け止めて貰うしかないと思った。誰かに背中を押して貰いたかった。
倖枝はソファーに横になり、携帯電話の通話履歴を開いた。咲幸からの不在着信の他、こちらから発信した『須藤寧々』が目に留まった。
寧々には昨晩、一度断られている。倖枝はクリスマス文化がよく分からないが、今日はクリスマス当日であり、さらに日曜日だ。再び求めたところで、家庭を優先されることは目に見えていた。もう一度傷つきたくなかった。
ならば、他には――
きっと、ここまで追い込まれたからだろうと、倖枝は思った。
もう随分昔のようだった。脳裏では、妖艶な魔女が微笑みかけていた。彼女と過ごした夜が、彼女の温もりが、ただ恋しかった。
そして、自室のサイドテーブルに飾った天使の置物を思い出した。あれの贈り主は子供のように無邪気な笑顔で、擬似的な娘として懐いてきた。
せっかく良い関係となっていたが、彼女の求める母親にはなれなかったと思った。
――現在の倖枝に必要な『月城舞夜』は、
もう一度会いたかった。
携帯電話のメッセージアプリで『ロジーナ』を開いた。会話はまだ空欄のままだった。
会いたい。欲しい。こちらから発しないといけない。
しかし、倖枝は舞夜の気持ちを踏みにじる罪悪感から、何も言えなかった。
確か、理由は違えど、以前もこうして躊躇したことがあった。それを思い出した、その時――ふと気づいた。
どうして、かつてはロジーナを求めてはいけなかったのか。
――舞夜ちゃんを好きになろうと頑張ったけど……やっぱりダメだった。
娘の恋人だったからだ。
倖枝は記憶を辿った。昨日は咲幸に化粧を施し、舞夜とのデートに送り出した。
そして、咲幸の諦めるような台詞から――もしかすると、舞夜と何かあったのかもしれない。
それが原因で、娘が別人のように豹変したのかもしれない。
倖枝はそれに気づくと、躊躇も恥も無く『今から会えない?』とメッセージを送信していた。
しばらくして、携帯電話が電話の着信音を鳴らした。画面を見ると、ロジーナからだった。
『こんにちは、お母さん。会いたいだなんて、珍しいですね。どうしたんですか?』
電話越しだが、久々に舞夜の声を聞いた。ショッピングモールでの買物以来だった。
たったそれだけなのに、倖枝は感極まった。暗く沈んだ気持ちに、一筋の光が差し込んだようだった。
「ちょっとお喋りしましょ。出てきてくれない?」
冷静な口調とは裏腹に涙声だと、自分でも分かった。
『……わかりました』
こちらの様子を察したのか、舞夜は何も訊かずに頷いた。
倖枝は駅前の裏通りにあるカフェを指定し、電話を切った。
*
倖枝は電話でタクシーを呼ぶと、夢子の部屋を出た。扉を閉め、郵便受けに鍵を入れた。
駅前に着いた頃には、午前十時前だった。
寒いが、空は晴れていた。クリスマスかつ日曜日のため、まだ朝方のこの時間にも関わらず、大勢で賑わっていた。
倖枝はコンビニで不繊維マスクを購入すると、その場で着けた。そして、裏通りのカフェへと向かった。
人混みからやや離れているからか、カフェの席にはまだ余裕があった。レジで紙コップのコーヒーを受け取り、窓側から離れた奥の対面席に座った。
コーヒーに手をつけることなく、待つこと十五分。月城舞夜が、紙カップを手に現れた。
白いショートダッフルコートと花柄の赤いチュールスカートが、長く綺麗な黒髪に映えていた。
「念のため訊きますけど、風邪じゃないですよね?」
舞夜にしてみればマスク姿が珍しいのだと、倖枝は思った。
「すっぴんだから隠してるのと……一応、変装のつもり」
流石に、夢子に化粧品を借りるわけにはいかなかった。
マスクの目的は、主に後者だった。現在、咲幸が自宅に居るのか定かではない。もしかすれば駅前に出てきている可能性もあるので、用心に越したことがなかった。裏通りのカフェを選んだのも、窓側から離れたのも、同じ理由だった。
「さっちゃんといろいろあって、家出中なのよ……」
具体的には言えないが、倖枝は現状を正直に話した。いざ口にすると、情けなさに涙が再び込み上げた。
この様子と、咲幸の名前を出したからか――舞夜から、心配そうに見下された。
「ここじゃ話し難いですよね? ふたりっきりになれる所に移りましょう」
「いいけど、どこも混んでるわよ?」
確かに、カフェとはいえ、これから話す深刻な内容を他の客に聞かれたくなかった。倖枝としても場所を変えたかったため、舞夜の気遣いに感謝した。
しかし、ビジネスホテルやカラオケボックス等の個室は、今日は既に埋まっていた。舞夜と合流するまでの待ち時間に、携帯電話で調べていた。
「混雑なんてしない、ちょうどいい所があるじゃないですか。でも、その前に――腫れてる目をどうにかしてください」
店を出てすぐ、舞夜から手を引かれてコンビニに入り、蒸気の出る使い捨てのアイマスクを購入した。
そして、駅前のタクシー乗り場に向かった。舞夜が運転手と話した後、後部座席にふたり乗り込んだ。
「目の腫れには、温めるか冷やすのがいいんですよ」
昨晩は泣きじゃくったため、目がひどく腫れていることは倖枝も分かっていた。
タクシーに乗車している間、シートにもたれ掛かりアイマスクを着けていた。
舞夜から行き先を聞かされていなかった。倖枝は見当がついていたが、目隠しされて連れて行かれているかのようだった。
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