第2部
第10章『失敗』
第025話
「もう大丈夫だよ。あたしが
ベッドに押し倒され、倖枝は涙を拭われた。
涙は止まっていた――それほどに怯えていた。
逆光の中、薄暗い顔がはっきりと見えた。凛とした表情はとても落ち着き、頼り甲斐のある大人びた風貌だった。
――しかし、知らない人間だった。
目の前の女性は、娘であって娘でなかった。間違いなく自分の股から産まれ出たが、現在初めて会う人物だった。
とても理解出来ない現実だった。悪い夢を見ていると思いたかった。
だが、唇に残ったキスの感触が、かろうじて現実に繋ぎ留めた。
だから、理解を拒んだ頭は恐怖に覆われた。金縛りにでもあったように、動けなかった。
「どうしたの? ……そんな顔しないでよ」
目の前の女性は、困ったように苦笑した。そして、頬に触れられた。
温かな手のひらが――たまらなく気持ち悪かった。
背筋に寒気が走り、倖枝は反射的に動いた。仰向けに覆い被さられていたが、頭方向にすり抜けてベッドから離れた。
「さっちゃん! やめて! やめなさい!」
そして、込み上げる嫌悪感に従うがまま、癇癪を起こしたかのように取り乱し、女性を部屋から押し出した。
閉めた扉に背を向け、もたれ掛かった。
力ずくで扉を開けてくる予感がした。しかし、扉を叩かれることすらなかった。
足音と共に、扉から離れたことを理解すると――腰が抜けたように、その場に座り込んだ。
ふと、サイドテーブルの天使の置物が目に入った。
「う……うう……」
どうして私が、こんな目に遭わなければいけないのだろう。
倖枝は、その綺麗な輝きに再び涙を流しながら、理不尽さを嘆いた。
とても耐えられない。とても向き合えない。
――だから、逃げるしかない。
素直に諦めると、行動は早かった。
ドレスをベッドに脱ぎ捨てると、ニットとワイドパンツに着替えた。財布と携帯電話とダウンジャケットを持ち、部屋を出た。
そして、リビングを振り返ることなく玄関を飛び出した。エレベーターで降り、マンションから離れた。
冬の夜更けはとても寒かった。その中を、行く宛も無く十分ほど歩いた。誰かが追ってくる気配が無いことを悟ると、ふらりとコンビニに入った。
――実の娘から、逃げてきた。
自分が世帯主なのに、自宅にはとても帰れない。倖枝はその情けない現実を理解すると、吐き気が込み上げた。トイレで嘔吐した。
温かい茶を購入し、コンビニから出た。ひどい気疲れの他、嘔吐したからか、脱力気味だった。
携帯電話を取り出すと、時刻は午後十一時だった。しかし躊躇なく、春名夢子に電話した。
『お疲れさまです』
「ごめん、春名。ちょっと、さっちゃんとケンカしちゃって……。無理言うんだけど、一晩泊めてくれない?」
咲幸と何があったのか他人に言えるわけもなく、嘘をついた。喧嘩ならどれほどよかっただろうと思った。
突然の申し出に夢子は驚くも、承諾してくれた。
タクシーに揺られながら、どうしてビジネスホテルやインターネットカフェを選ばなかったのだろうかと思った。倖枝に自覚は無かったが、夢子には、気分が沈んだ姿を日中に見られているからであった。
やがて、夢子のアパートに着いた。
これまで、食事で訪れたことが何度かあった。独身ながらも2LDKの部屋に住んでいることを知っていたことも、夢子を頼った理由のひとつだった。
「ごめんね、こんな時間に」
「いえ……私はいいんですけど……」
夢子はまだドレス姿だった。
リビングのテーブルにはふたつの茶碗と、開いたワインボトルとグラスがあった。ついさっきまで誰かが訪れ、一緒に食事をしていたようだった。
遅い時間の訪問だけではなく、きっと客人を追い返すことになったのだ。悪いことをしたと、倖枝は思った。
「先に言っておくわ。……私、明日も無理」
倖枝は強がることなく、正直に話した。ここで一晩過ごしたところで、営業職としても店長としても振る舞う自信は無かった。自分の弱りきった精神状態は、自分が一番理解していた。
「でしょうね。まあ、明日も大して忙しくなんで、私に任せてください。ただ――明後日の店長会議には絶対に出てくださいよ?」
夢子から、眠たげながらも真っ直ぐな視線を向けられた。
明後日の月曜は月末締め日かつ年内の仕事納めであるため、店長は本社に行かなければいけない。各地域の状況確認を行う毎月の店長会議もあるが、今月は社長からの話を聞かされる集会が主な目的であった。
こればかりは欠席、もしくは次席を代わりに行かせることは出来なかった。店長個人だけでなく、店舗と従業員の面目に関わる。
つまり、咲幸との関係修復を問わず、明日中に精神状態を回復しなければいけない。
そのふたつが直に繋がっていることは、倖枝自身が最も理解している。時間が解決する問題でもない。
「ええ。それだけは絶対に行くから……明日一日、時間をちょうだい」
倖枝には明日中に立ち直っている自身の姿が想像出来なかった。しかし、部下の手前、虚勢を張るしかなかった。
いくら自信が無くとも、やらざるを得ないのだ。
「わかりました。信じています。咲幸ちゃんと何があったのか知りませんけど……私に出来ることがあるなら、言ってください」
夢子はふたりと面識があることから、仲裁に入ることの出来る立ち位置であった。しかし、強引に首を突っ込まない気遣いに、倖枝は感謝した。
こうして匿って貰ったが、倖枝としても咲幸との実状はとても話せなかった。
「ありがとう。あの部屋と寝袋と、借りてもいい?」
倖枝は、物置となっている部屋を指さした。
「え? それでいいんですか? せめて、リビングのソファー使ってくださいよ」
「ううん。そんな贅沢言えないから」
それは建前であった。倖枝の本心は、どこであろうと、ひとりきになれる空間が欲しかった。
夢子は五畳半の物置部屋を片付けると、寝袋を敷いた。
夢子がシャワーを浴びている間、倖枝はリビングのソファーに座った。そして、ダウンジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。消音モードにしているそれが、さっきから振動していることは知っていた。
文化祭の咲幸の写真を壁紙にしているロック画面には――咲幸からの電話の着信と、メッセージアプリの通知が浮かんでいた。
メッセージアプリには『今どこ?』『心配だよ』と、二言のみ受信していた。
言葉に対する咲幸の表情が、全く想像出来なかった。
倖枝は『戸締まりして寝ておいて』と返信した後『明日帰るから』と追伸した。送信と同時に既読マークが付いたことを確認すると、テーブルに画面を下向きに携帯電話を置いた。
すぐに、携帯電話が振動した。振動している長さから、電話の着信だと分かった。しかし、倖枝はそれに触れたくなかった。
――自室での恐怖を思い出していた。
やがて、携帯電話の長い振動が止まり、一度だけ短く震えた。テーブルとの隙間から、画面の光が漏れているのが見えた。
倖枝は携帯電話を裏返すことなく、電源ボタンを長押しして電源を切った。そして、充電ケーブルを挿した。
これでいいんだ――そう自分に言い聞かせた。
夢子の後、シャワーとスウェットを借りた。
シャワーを済ませた頃には、夢子の寝室は閉まっていた。倖枝はリビングの明かりを消すと、物置部屋に入り、扉を閉めた。
寝袋を初めて使用した。床の硬さが気になるが、エアコンの無い部屋にも関わらず、意外と暖かかった。
気疲れで呆然としていることもあり、暗い部屋で横になると眠気に襲われた。
倖枝はそのまま夢の世界へ逃れたかったが、ぼんやりとした頭は咲幸を思い出させた。
あのような娘を知らない。
いや――落ち着いて大人びた娘の一面を知らない。
物心ついた頃からずっと、人懐っこく幼い雰囲気を見せてきた。
だから、まるで別人のようだった。
別人だと思いたかった。そうでなければ『どちら』が本来の素顔なのかを考えなければいけない。
最悪の
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます