第026話(後)

「着きましたよ」


 タクシーに乗ること、約十五分。その声と共に、冷たくなったアイマスクを外した。

 舞夜から連れて来られた所は、森の中の大きな館――やはり、御影邸だった。

 確かに、この空き家ではふたりきりで落ち着いて話せる。今日は案内の予定が無かったため、他の従業員が代わりに客を連れてくることも無い。

 タクシーを返した後、舞夜が門と玄関をそれぞれ開け、中に入った。

 断熱に優れている家屋であるとはいえ、屋外よりは寒くないが、暖かくもなかった。せめて電気が通っていればと、倖枝は思った。


 向かった先は、二階の一番端――舞夜の部屋だった。ふたりで入り、舞夜が扉を閉めた。

 ベッドにはクラゲの他、倖枝がクリスマスプレゼントに渡した黒猫のぬいぐるみ、そしてブランケットが置かれていた。また私物が増えていると倖枝は思ったが、現在は怒る気にもなれなかった。

 舞夜からベッドに座らせられ、肩にブランケットを掛けられた。


「それで――咲幸と何があったんですか?」


 舞夜は机から椅子を引っ張り、倖枝の正面に座った。

 ふたりきりの静かな密室で、倖枝は舞夜と向かい合った。膝に載せた黒猫のぬいぐるみを撫でている舞夜の指に、黒猫の指輪が見えた。

 舞夜にすっぴんの顔を見られたくなかったが、既に情けないところを充分見られているので、仕方なくマスクを外した。


「昨日、結婚式に行ってきて、ヘコんで帰ってきたら……さっちゃんが慰めてきた……」


 倖枝は俯き、昨晩の様子を振り返りながら、ゆっくりと紡いだ。


「よくわかりませんけど、それで家出するものなんですか?」

「キスされて! それから、好きだって言われた!」


 倖枝は顔を上げ、舞夜に助けを求めるように――あるがままを話した。

 整った前髪の隙間から、舞夜の眉が微かに動いたのが見えた。


「わからないわよ! 人が変わったみたいで、怖かったの!」


 実に情けなかった。こうして逃げてきたことも、恐怖感を思い出して涙を流していることも――歳の離れた少女に話せることでは無かった。

 それでも、誰かに聞いて貰いたかった。ひとりで抱えず、少しでも楽になりたかった。

 倖枝は溢れる涙を拭った。目の前の舞夜が、渋い表情を浮かべていた。


「あんたは昨日……どうだったのよ?」

「私は昨日、咲幸とデートしました……。でも、咲幸は……あまり楽しそうじゃありませんでした」


 舞夜は表情を曇らせていた。

 やはり咲幸の言った通りだと、倖枝は思った。


「わかる範囲でいいんだけど、あんたは特にやらかしてはいないのよね?」

「ええ。そのはずです……。あからさまに不機嫌というわけでもありませんでしたし……」


 舞夜の主観でしかないが、嫌われるような言動を取っていないと倖枝は信じた。

 舞夜ではなく、咲幸に何らかの心変わりがあったのならば、昼と夜それぞれの様子に説明がつく。


「ごめん。私のせいね……」


 舞夜と何かあったのだと思いたかった。舞夜のせいにしたかった。

 しかし、原因はあくまで自分自身にあった。


「私の育児が、失敗だったのよ……」


 娘が、他人ではなく血縁者を愛する人間になったのは――そう育てたのは、たったひとりの親である自分だった。

 倖枝には、思い当たる具体的な節が無かった。しかし、これまでの娘に費やした時間を考えれば、歪んだ人間に成ってしまうのは無理がないと思った。

 ろくでもない母親だった。その自覚はこれまでも充分にあった。

 それでも、本当に自分の娘かと疑うほどに『良い娘』に育ったと思っていた。

 ――その勘違いと失敗を、倖枝はようやく認めた。


 舞夜は椅子から立ち上がると、倖枝に近づいた。

 パン、と――乾いた音が倖枝の耳に届いた。


「貴方ね! 言って良いことと、悪いことがあります!」


 倖枝は熱を帯びた左頬に触れながら、恐る恐る舞夜を見上げた。


「貴方が産んだんでしょ!? 泣いてないで、責任取りなさいよ!」


 舞夜が、激しい剣幕で怒鳴っていた。睨みつけてくる藍色の瞳には、涙が浮かんでいた。

 普段は冷静な彼女の、こうして感情に乱れる姿を、倖枝は初めて見た。


「母親がそう認めたら――失敗扱いされた娘は、どうすればいいんですか!?」


 片親を理由にすることは簡単だった。諦めには躊躇が無かった。手放してしまえば楽だった。

 しかし、親として――人間として、誰からも許されない行為だった。

 もしも自分が実の親から失敗の烙印を押されたなら、どうすればいいのだろう。どのような気持ちになるのだろう。

 倖枝はそれを想像し、たとえ本人に聞こえなくとも軽率な発言をしたと、後悔した。


「失敗にしないでください! 咲幸は――私と違って、まだ間に合います!」


 舞夜から両肩を掴まれ、顔を覗き込まれた。

 先程までの激怒した表情ではなかった。涙を流しながら、何かを訴えるように見つめていた。


「あんた……」


 舞夜がこれほどまでに怒った理由。一般的な倫理観の他に、自分に重なる部分があるからだと、倖枝は察した。

 何があったのかは、わからない。ただ、もしも自分の母親から失敗扱いされたとしても――その母親はもう居ないのだと、理解した。

 そう。舞夜の場合、正されることは今後一生無いのだ。

 その意味では、倖枝はまだ咲幸との繋がりが存在するので、確かに間に合うとも言える。

 ――本当に間に合うのだろうか?

 来月の誕生日で、咲幸は十七歳になる。おそらく、人格の形成はもう完了している。自我を持ち、大人とも言える年齢に達そうとしている。

 そのような娘に他人を愛するよう教育することは、可能なのだろうか?


「うう……」


 倖枝は涙を流して俯いた。

 正面から、舞夜に抱きしめられた。頭上から、すすり泣く声が聞こえた。


 常識的に考えて、間に合うわけが無かった。限りなく不可能に近かった。

 ――それでも、母親としてやらざるを得ないのだ。

 倖枝はその現実に、涙を流した。


 失敗したのは育児ではない。自分が母親として失敗したのは明白だった。

 倖枝も舞夜を抱きしめた。ふたりで抱き合った。

 失敗した母親と、失敗した娘――ふたりで泣いた。


 しばらくして、涙が落ち着いた。

 ふたりでベッドに横になっていた。それぞれ、ぬいぐるみを枕代わりに仰向けになり、ぼんやりと天井を眺めていた。

 泣き疲れ、そして寒いながらも居心地の良い空間であることから、倖枝はなんだかどうでもいいような気持ちだった。


「クリスマスプレゼント、ありがとうね……。とりあえず、寝室に飾ってみたわ」


 だから、ふと思い出したことを、何気なく漏らした。


「それはよかったです。ちゃんと、昨日開けましたか?」

「ええ。昨日、思い出してね……。ぶっちゃけ、忘れかけてた」

「ひどくないですか? ギリギリでも思い出してくれたなら、まあいいですけど」


 言葉の割に、舞夜の声もどこかぼんやりとしていた。自分と同じく、泣き疲れたようだった。


「あんたさ……本当にさっちゃんのこと、好きなの?」


 倖枝は、以前から疑問だったことを訊ねた。


「ええ。本当ですよ。というか、そこを偽ってどうするんですか?」


 さも当然とでもいった回答を得た。先ほど、昨日のことを話していた時の舞夜は残念そうであったため、確かに説得力があった。

 だが、倖枝にはまだ足りず、納得には至らなかった。


「それじゃあ訊きたいんだけど、さっちゃんのどこが好きなの?」

「それは……負けず嫌いで、頑張りやなところです。わたしに無いものを持っているので」


 意外な言葉が出てきたと、倖枝は思った。


 ――咲幸は、誰にでも面倒見いいですからね。


 以前、風見波瑠からそのように聞き、倖枝もそれには納得した。

 しかし、舞夜の挙げたものに心当たりは無かった。幼く無邪気な娘がそのようなものを持っていると、とても考えられなかった。


「そっか……。あんたの目には、そう見えるんだ……」


 とはいえ、自分も昨晩、現在まで全く知らなかった娘の顔を目の当たりにしているので、一概に否定出来なかった。

 きっと、学校では、まだ自分の知らない顔があるのだろう。

 娘のことを理解していたようで理解していなかったと、改めて思い知らされた。

 そして、舞夜が咲幸のことを本当に愛しているのだと、ようやく腑に落ちた。


「別に、さっちゃんと別れたわけじゃないのよね?」

「ええ。そのはずです……」


 駄目だったと咲幸が昨晩言っていたが、舞夜の話を聞く限りは、まだ完全に途絶えたわけでは無さそうだった。

 咲幸の恋愛対象を、自分から舞夜に替える。たったそれだけで済む話であると、倖枝は確認した。

 咲幸のためであり、舞夜のためであり――そして、母親である自分自身のために。


「わかったわ。私が、さっちゃんとの仲と取り繕ってあげる」


 失敗を正し、何としても母としての責任を果たさなければならない。

 倖枝は寝返りを打ち、舞夜の方を向いた。


「ありがとうございます――お母さん」


 舞夜もこちらを向き、顔を合わせた。期待の眼差しを向けられた。

 倖枝は、昨晩からの沈んだ気持ちと恐怖を振り払い、ようやく決心――できなかった。

 思い出すほど、涙が込み上げた。

 それを誤魔化すように、倖枝は舞夜の手を取った。右手小指に嵌っている、黒猫の指輪に触れた。


「私、頑張るから……。お願い……現在だけは、魔女ロジーナで居てくれない?」


 この少女に弱さを一度見せた以上、さらけ出すことは厭わなかった。

 確かに、擬似的な娘から『母』として助けられていた。しかし、現在は『人間おんな』として腕を引っ張って欲しかった。

 現在の気持ちを、一時的に上書きして欲しかった。


「わかりましたよ……。これも、咲幸のためです」


 舞夜はきょとんとした表情の後、にんまりと笑った。

 藍色の瞳が笑うのを、倖枝は久々に見た。ああ、これだ――背筋がゾクゾクと震えた。

 ベッドで並んで向き合っていたが、舞夜が上になり、押し倒されるような姿勢になった。

 そして顔が近づき、唇を重ねられた。倖枝から舌を絡めると、舞夜はそれに応じた。

 ぴちゃぴちゃと――少女の口内を、たっぷりと味わった。

 やがて、顔が離れると、舞夜の唇から糸が引いていた。


「お願い……脱がして……」

「嫌です。こんなにダメなお母さんの願い事は聞けません。自分で脱いでください」


 舞夜は唇を拭いながら、恍惚の表情を浮かべていた。

 倖枝は煮え切らない気持ちで起き上がり、コートから順に衣服を脱いだ。

 暖房器具が無いため、とても寒かった。窓から日差しが入り、灯りの無い部屋は明るかった。その中で、倖枝は化粧を施していない素顔と、素肌を晒した。

 娘と同じ歳の少女から辱められても、構わなかった。むしろ、下の方にある自分の価値を確認することが出来た。


「よく出来ました、お母さん。わたしもムカついているんで、たっぷり可愛がってあげますよ」


 倖枝は、妖艶に笑う藍色の瞳に、身を預けた。

 粗末に扱われたが、不満は無く、むしろ求めた。乱暴な行為に他者の温もりと、そして咎を感じた。

 その方が都合が良かった。

 誰かと身体を重ねることに、愛情など要らないのだから――


 気づいた時には、部屋は薄暗くなっていた。夕陽が沈もうとしていた。


「ごめんなさい……」


 それぞれ衣服を着ている時、舞夜がぽつりと漏らした。


「どうして謝るのよ? 私は、あんたに感謝してるのよ? お陰で、元気出たから」


 倖枝は微笑み、舞夜の頭を撫でた。

 長時間の性交の末、倖枝の気はすっかり紛れていた。泣くこと以外で疲れた現在、ようやく現実と向き合えると思った。


「帰って、さっちゃんとお話してくる……」


 恐怖が無いと言えば、嘘になる。しかし、その痛みに耐えうるだけの準備は整った。

 もう取り乱すことなく、冷静にならなければいけない。

 この三人のために、前に進もう。倖枝は、そう決心した。


「ちなみにですけど、どう話すつもりなんですか?」

「そりゃ、説教よ。いけないことをいけないと教えるのが、大人の役目よ」


 倖枝には、何をどう話すのか具体的な案は無いが、力技になろうとも説くつもりだった。

 とにかく、実の娘から舐められるのだけは嫌だった。現在まで叱ることが滅多に無かったので、それが招いた結果だと思っていた。


「それはダメですよ。無理やり通したら、かえって拗れる可能性だってあります」


 舞夜が慌てて口を挟んだ。

 確かに、その言い分はもっともだと、倖枝は思った。娘として失敗だと自負している舞夜だからこそ、説得力もあった。


「それじゃあ、あんたはどうすればいいと思うの?」

「そうですね――」



(第10章『失敗』 完)


次回 第11章『交錯』

帰宅した倖枝は、咲幸と向き合う。

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