第11章『交錯』
第027話
十二月二十五日、日曜日。
午後七時頃、倖枝は自宅であるマンションに、タクシーから降りた。エレベーターで上がり、自室の扉の前で一度立ち止まった。
おそらく、この扉の向こうで娘が帰りを待っている。
昨晩の出来事が、まるで遠い昔のようだった。咲幸から想いを伝えられたことも、キスをされた感触も、どこか曖昧だった。
――失敗にしないでください!
現在は、舞夜からの励ましが、まだ近くに残っていた。
彼女のためにも、自分のためにも、そして娘自身のためにも――逃げずに、泣かずに、咲幸と向き合わないといけない。
倖枝は改めて腹を括り、解錠して扉を開けた。
「ただいま」
玄関には一足のスニーカーがあった。リビングは明るく、テレビの音が聞こえた。
リビングの扉を開けると、ソファーに座っていた咲幸が振り返り――安心した表情で微笑んだ。そして、ソファーから立ち上がり、倖枝に抱きついた。
「おかえりなさい……。ママ……」
俯いて抱きついているので、倖枝には咲幸の顔が見えなかった。
正面から娘の熱を感じ、昨晩の記憶と共に、強烈な嫌悪感が蘇った。今すぐにでも嘔吐したいぐらいであった。
しかし、咲幸に見られなくとも倖枝は笑顔を作り、咲幸の頭をそっと撫でた。咲幸がどう感じたか分からないが、恐る恐るの手付きだった。
「ごめんなさいね。一晩空けちゃって」
これまでも、娘ひとりに一晩留守番させることはあった。だが、今回は娘から逃げるという意図だった。
母親として明らかに非があるため、倖枝はまず謝罪した。
「いいよ。ちゃんと帰ってきて、サユ嬉しいから」
咲幸は顔を上げて微笑んだ。
髪を下ろしているが、化粧はしていない。まだ幼さの残るあどけない表情は、いつもと同じだと倖枝は思った。
――まるで、昨晩何も無かったかのように。
もしかすれば咲幸なりの気遣いなのかと勘ぐった。倖枝にも『無かった』ことにして流すという選択肢が生まれた。
「さっちゃん……。ちょっとお話しようか。そこに座りなさい」
しかし、向き合うことを選んだ。実の母娘として、同じ屋根の下で暮らす間柄として、決して有耶無耶にしてはいけなかった。
倖枝はコートを着たまま、ダイニングテーブルに座った。テレビの電源を切った咲幸が正面に座った。
これが俗に言う『家族会議』なのだろうと、倖枝は思った。現在まで一度も、こうして改まって話すことは無かった。その必要が無いほどに、咲幸は順調に育っていたように見えていた――倖枝の目では。
「はっきり言うわね。昨日のさっちゃんに、母さん凄くビックリした。……あれは冗談じゃなくて、本当なのよね?」
「うん、本当だよ。サユはママのことが好き」
「家族としてじゃなくて……別の意味での『好き』と捉えていいのかしら?」
「そういうこと。サユはママと、恋人になりたいって思ってるよ」
咲幸は、ニコニコと明るい笑顔を浮かべながら答えた。
願わくば否定して欲しかったが、昨日の言動はやはり倖枝の思っていた通りの意図が含まれていた。
いざ娘本人からそう聞かされ、倖枝はひどく動揺した。
「……いつからそう思ってたの?」
必死に平常を装いながら、さらに訊ねた。ひとまずは、咲幸のことをなるべく把握しておきたかった。
「うーん……。はっきりとは覚えてないけど、中学に入ったあたりかなぁ。恋愛ドラマ観て、クラスの子らと好きな人の話をするようになった時ぐらい」
ちょうど思春期を迎えた頃なのだと、倖枝は理解した。
人間として性に目覚め、異性を意識し始めるのは、いたって正常だった。咲幸にも大多数と同じように、同年代を対象にして欲しかったが。
「それより昔から――ママはサユの中だと、ママというより『カッコいい大人』だったよ。それは現在も変わんない。だから、好きなの」
母親への強い執着である、俗に言う『マザー・コンプレックス』の類似や延長だと倖枝は思っていた。
だが、違った。話を聞く限り『大人の女性』としての憧れから始まった感情なのだ。学校で生徒が教師に抱く恋心に近いものだろう。
――それならば、きっと一時の気の迷いだ。
思春期特有の現象は、通常ならば長続きしない。これからの心の成長や価値観の変化を支えれば、矯正できる可能性は充分にある。
「そう……。さっちゃんのこと、大体わかったわ」
倖枝は理解すると同時、安堵した。事態は思っていた程に深刻ではなかった。
しかし、どうすれば矯正できるのか。
咲幸の事情がどうであれ、ここで説教するつもりだった――舞夜と別れ際に相談するまでは。
「それじゃあね……母さんと、恋人として付き合ってみようか?」
恐怖が込み上げるが、倖枝は精一杯笑顔を作り、そう提案した。
少なくとも、自分ひとりでは絶対に浮かばなかった内容だった。
「え……いいの?」
きっと、予想外の対応なのだろう。咲幸は目を丸くして驚いた。
「とはいっても……現在は、さっちゃんと同じ気持ちじゃないから……。同じ気持ちになれるように、頑張るわ」
露骨に嫌がる素振りを見せないよう、倖枝は細心の注意を払った。余裕があるように装った。
だが、答えた内容は嘘だった。倖枝には、咲幸の気持ちに寄り添うつもりは全く無かった。
「うんうん! それだけでも、サユ超嬉しい! なんか、夢みたいだよ!」
表情がぱっと明るくなり、咲幸は大喜びした。
これほどまでに嬉しそうな咲幸を、倖枝は初めて見たようだった。自身の意図に対する態度としては、とんでもない皮肉に感じた。
「ただし、ふたつ条件があるわ。まずひとつは、このことを絶対に誰にも言わないこと。母さんとふたりだけの、秘密の関係よ」
「えー。付き合ってるのに?」
「母さんにも立場があるからね……。だから、お外で恋人みたいな真似は誰にも見せられないの。わかった?」
「……うん。それでいいよ」
舞い上がるような勢いが露骨に下がるが、咲幸は渋々頷いた。
倖枝としては、この条件を飲んでくれないと思っていた。ここで不平を垂れる咲幸を苦労して説得するはずだったので、嬉しい誤算だった。
「もうひとつ――母さんとの関係を隠すために、表向きは舞夜ちゃんと付き合いなさい」
ひとつ目が通過した現在、これも難なく通ると倖枝は思っていた。
「それは無理だよ。だって、もう舞夜ちゃんのこと全然好きじゃないんだもん」
しかし、頭ごなしに否定された。舞夜からは別れたわけではないと聞いていたが、咲幸としてはそのつもりなのかもしれない。
倖枝は調子が狂う中、無難な落とし所を考えた。
「別に、好きになる努力をしろとは言わないわ。友達でいいから――舞夜ちゃんと縁を切るのだけは止めなさい」
「それでも……そんなハンパな気持ちだと、舞夜ちゃんに悪いよ」
「そんな気を遣わなくていいわよ。大人の恋愛って、そういうものだから……」
自分にその気が無い分、咲幸にも同じことを推奨した。倖枝としても罪悪感が和らぐため、その方が都合が良かった。
「うーん……。そこまで言うなら、そうするよ。友達の延長みたいな感じで、適当にあしらうね」
ふたつ目の条件も、咲幸は渋々承諾した。
目標は下がったが、咲幸が舞夜と絶縁さえ無ければ良かった。
倖枝は、舞夜の気持ちを汲み、こうして繋ぎ留めた。恋人として復縁出来るのかは、舞夜次第だ。
「それじゃあ……本当に、サユと付き合ってくれる?」
「ええ。いいわよ」
戸惑う気持ちを隠し、改めて頷いた。
咲幸は嬉しそうに微笑むと、椅子から立ち上がり、ソファーに腰掛けた。
「ねぇ、ママ。こっち来て」
ソファーの隣を叩かれ、倖枝もそこに座った。
先程まではダイニングテーブルを挟んで向かい合っていたが、腕が当たるほどに隣接した。この距離での咲幸の存在感に、倖枝は緊張した。
「……キスしてもいい?」
咲幸から、上目遣いで訊ねられた。
恋人として付き合うことを了承したから――遅かれ早かれこうなるとは、覚悟していた。
避けては通れない道だ。慣れるしかない。
倖枝はそう自分に言い聞かせたが、やはり嫌悪感が込み上げた。
「ええ。いいわよ……」
しかし、ここで拒絶すると、間違いなく咲幸を傷つけてしまう。表情を崩すことをぐっと我慢しながら、瞳を閉じて咲幸に向き合った。
しばらくして、熱量が近づき――唇に柔らかな感触が伝わった。
そして、閉じた唇を咲幸から器用にこじ開けられたところで、倖枝は反射的に突き放した。
「――ごめん、さっちゃん。舌入れるのは……まだダメよ」
この状況下でよく言葉を選んだと、倖枝は自分を褒めたいぐらいであった。『まだ』を付けずに否定していれば、きっと咲幸の気分を害していただろう。
「そうだね……。ちょっとずつでいいから、ママとこういうことしたいな」
現に、突き放された咲幸は驚いた後、苦笑で済んでいた。時期が早いという意図を汲んでくれたようだった。
とはいえ、倖枝にしてみれば舌の有無に関わらず、キス自体はなるべく避けたいところであった。
覚悟していたが、やはり生理的に受け付けない。絶対に慣れるわけがない。
少しだけ侵入した咲幸の舌の感触が、まだ口内に残っていた。込み上げてくる酸味を、ぐっと堪えていた。
咲幸はソファーに座り直すと、そっと抱きしめてきた。
具体的に何が違うのか倖枝には分からなかったが、現在までの『娘が母親に抱きつく』ではないように感じた。これは、愛する人を大事にしたい『抱擁』だった。
「サユ、とっても嬉しいよ……。ママのこと、大好き」
倖枝は耳元で、咲幸から囁かれた。
それに応えるように、咲幸の背中に腕を回し――軽く叩いた。まるで、赤子をあやすかのように。
「母さんも、さっちゃんのこと好きよ……」
その言葉は、確かに『娘』へと向けたものだった。
実の娘からは『女』を求められ、他人の少女からは『母』を求められていた。
交錯した奇妙な関係の中心に、倖枝は立っていた。
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