第028話
「それじゃあ、あんたはどうすればいいと思うの?」
「そうですね――この際、咲幸を一度受け入れてはどうでしょうか」
咲幸に説教をしようとしていた倖枝には、舞夜の提案はとても意外だった。
「はい? さっちゃんと付き合えってこと?」
「そういうことですよ。実際に付き合ってみて、母娘で恋人なんて無理だと思わせれば……たぶん、角が立ちません」
舞夜の言うことを、倖枝は理解出来た。
否定意見を述べるには、まずは肯定から入る。営業職というより、社会人の会話としては基本的な流れだった。要するに、その延長だと思った。
確かに、母娘で恋人など良くないと頭ごなしに否定しても、咲幸は納得しないだろう。それどころか、反感を買い亀裂が入りかねない。
そう。こちらから否定するのではない。咲幸から諦めて貰うのだ。
倫理的な部分を説くよりは合理的だと、倖枝は思った。
母娘で恋人として付き合っても――上手くいかないのは、目に見えているのだから。
「わかったわ。そういう風にしてみる」
「……わたしから言っておいて何ですが、そう簡単でもないと思いますよ?」
倖枝は頷くも、舞夜から不安そうな表情で見上げられた。
娘からキスをされただけで――泣いて自宅を飛び出すほどに心が弱いと知られていた。こうして心配されるのは当然だった。
「それでも、頑張るわ」
倖枝としても、自信が無かった。怖かった。出来ることなら、このような手段を選びたくなかった。
しかし、大人として、母として――やらざるを得ないのだ。
倖枝は苦笑すると、舞夜の頭を優しく撫でた。
「だから……あんたも頑張んなさい。さっちゃんがあんたと別れないようにするから、私からさっちゃんを引き剥がしてちょうだい」
咲幸が母娘での恋人を諦めると同時に、他人へと鞍替えをする。これが倖枝の思い描く、理想の展開だった。
そのためには、舞夜の協力が必要不可欠だった。
「さっちゃんのこと、好きなんでしょ? それが本当なら、自分の手で掴み取ってみなさい」
「……はい!」
舞夜は倖枝を見上げ、しっかりと頷いた。
少女の決意を確かめると――倖枝はそっと抱きしめた。その力強さが眩しく、頼りたかった。
「ふたりで頑張りましょう……お母さん」
舞夜からも抱きしめられた。正面から、ふたりで抱き合った。
これから辛い目に遭うだろうが、決してひとりではない。こうして協力者が居る。
倖枝はそう思うだけで、恐怖が少し和らいだ。
舞夜には、弱りきった姿をもう見られている。かといって頻繁に頼りたくはないが、どうしても辛い時は――再び縋ろうと思った。
*
夕方のことをぼんやりと思い出しながら、倖枝は湯船に浸かっていた。
咲幸との話を終えた後、専門店のフライドチキンと冷凍ピザ、そして手作りケーキを食べた。どれも咲幸が用意していたものだった。
例年通りのクリスマスを母娘で過ごし、倖枝は風呂でひとりきりの時間を得た。
倖枝は、入浴剤を使った黄色い風呂湯を、両手ですくった。柚子の香りがした。
ひとまず、咲幸の件は応急的に片付いた。気分は良く無いが、明日の仕事には支障が無かった。夢子や従業員の皆には迷惑をかけたため、明日の昼食で埋め合わせをしようと思った。
――咲幸の根本的な部分は、まだ何も解決していない。
咲幸から、母親として見られなかった理由。大人の女性として見られた理由。
話を聞いた時は何も思わなかったが、現在振り返ると、思い当たる節があった。
幼少期の咲幸と過ごす時間が、あまりにも少なかったのだ。
母娘の開いた距離は『拒絶』へと繋がるはずだが、咲幸の場合は『他人』だった。おそらく、咲幸の祖父母が両親代わりとして機能していたからだろう。たまに顔を見せる母親には血縁を感じず、憧れの対象となった。
やはり、ろくに育児を行わなかった結果だった。
今さら後悔はしなかった。自分自身に呆れるしかなかった。
「はぁ……」
十七年越しの責任が、倖枝の肩に重く伸し掛かった――その時だった。
「どうしたの? 溜め息なんかついて、何か嫌な事でもあった?」
風呂場の扉の向こうから、声がした。
倖枝は振り返ると、曇ガラスの扉に影が映っていた。扉一枚隔てた向こうに誰が居るのかは明白だった。
「なんでもないわよ……。さっちゃんこそ、そこで何してるの?」
脱衣場と洗面所を兼ねているので、咲幸が歯を磨いている可能性は充分にあった。同じ屋根の下で生活しているので、これまでも、そのような場面は何度もあった。
しかし、衣服の擦れる音に、倖枝は嫌な予感がした。
「久しぶりに、一緒にお風呂入ろうよ!」
扉が開き、咲幸が姿を現した。自身と同じく髪をまとめ、全裸姿だった。手には何かのボトルを持っていた。
咲幸がこの歳になっても、一緒に入浴することはあった。このように、咲幸が突然押しかけていた。
その度に、甘えん坊だなと倖枝は思っていたが――現在はとても思えなかった。
咲幸の裸体を見ることすら抵抗があり、思わず視線を反らした。倖枝もまた、湯船で脚を抱え、自身の裸体を隠した。
「……ここ狭いんだから、ひとりずつにしましょ」
倖枝は拒む理由を咄嗟に探した結果、それを選んだ。
「そんなこと、今さらじゃん。サユは狭い方が、ママと一緒な感じがして、好きだよ」
咲幸はシャンプーやリンスの棚にボトルを置くと、かかり湯としてシャワーを浴びた。そして、湯船に入ってきた。
仕事でいくつもの物件を見ているため、この湯船はとても狭いと、倖枝は引っ越した時からずっと思っていた。所詮は賃貸マンションなので仕方ないと、割り切っていたが。
ろくに脚を伸ばせない程であった。咲幸も入ることで、湯船から大量の湯がこぼれた。
過去から咲幸と一緒に入ることがあっても、片方が身体を洗い、交互に湯船を使用していた。このように、同時に入ることは初めてだった。
倖枝にしてみれば、想像を絶する窮屈さであった。ただでさえ肌が密着するのに、咲幸がもたれ掛かってきた。咲幸を背後から覆う構図となった。
「えへへ。こういうの、懐かしいね」
咲幸が振り返り、無邪気に笑った。
「さっちゃんがまだ小さかった頃よね……」
確かに、このように一緒に湯船に入るのは咲幸が小学校低学年の時以来だと、倖枝は思った。
当時は両親と四人で一軒家にて暮らしていたので、現在より湯船は広かった。しかし、それ以上に咲幸がまだ幼かったので、母娘ふたりでも充分に余裕があった。
咲幸は現在以上に小柄であり、当然ながら胸の膨らみもまだ無かった。
倖枝は懐かしさを覚えると同時、咲幸の成長を実感した。
そう。不注意から、自分の意に反した成長を遂げた娘は――
「母さん、のぼせちゃったから、もう出るわね」
咲幸の意図を知っている以上、このように素肌を重ねたくないのが本音だった。倖枝は、湯船から立ち上がった。
「ママ! これ、サユからのクリスマスプレゼント! 塗ってあげるから、座って」
しかし、咲幸も立ち上がり、風呂場から出るのを呼び止められた。
振り返ると、咲幸は持ち込んだボトルを棚から取っていた。
「……それ、何?」
「ボディオイルだよ! いつまでも綺麗なママで居て欲しいからね!」
塗るという言葉から、それが何なのかおよその見当がついていた。倖枝は嫌な予感がしたが――やはり、思った通りのものだった。
咲幸から肩を掴まれ、椅子に渋々座った。
「さっちゃんに塗って貰わなくても、ひとりで出来るわよ」
製品の種類こそ違うが、倖枝はボディオイルを過去にも使用したことがあった。保湿のため、肘や膝等の乾燥しやすい部位に塗っていた。
確かに、風呂上がりから身体を拭くまでに塗るのが、効果がある。
「ダメダメ。マッサージが効くみたいだから、サユに任せて」
咲幸は倖枝の背後に屈むと、手にオイルを垂らした。左右の手のひらに伸ばし、倖枝の首筋に触れた。
首筋から鎖骨にかけて、倖枝はオイルを塗られた。鎖骨からすぐ下の乳房を警戒したが、そこまで手が伸びることは無かった。
首と肩を背後から揉まれた。ボディオイルとの兼ね合いは分からないが、マッサージとして気持ちよかった。
娘からのクリスマスプレゼントとしては悪くないと、倖枝は思った。しかし――
「次は、ここ」
オイルを手に再度垂らした咲幸から、腹部を触られた。
「ちょ――」
へそから横腹、そして肋骨へと手が上がった。少し乳房に触れたが、手使いから、まるで持ち上げられたかのような錯覚に陥った。
マッサージの言葉通り、へそ周りを揉まれた。
「ママって、そんなに運動してない割にはお腹周りの
背後からの囁くような声と共に、指で腹の脂肪の厚みを確かめられた。体型には自信が無いため、倖枝はそれを知られることが、単純に恥ずかしかった。
横腹を揉まれ、くすぐったかった。胴の脂肪という意味では――乳房ではないにしろ、そこを揉まれているのに近い感覚だった。
「おへそも可愛い……」
「さっちゃん! もういいから!」
指の腹でへそを撫でられ、倖枝の不快感は限界だった。
拒む代わりに椅子から立ち上がり、浴室の扉を開けてバスタオルを取った。
「……クリスマスプレゼント、ありがとう。とっても嬉しいわ」
倖枝は身体を拭きながら、笑顔を作った。
ここで怒ってはいけない。あくまでも肯定し、受け入れなければいけない。
「喜んでくれて、よかったよ。またやってあげるね」
湯船に戻った咲幸が微笑むが、出来れば二度目は許して欲しいと内心で思った。
倖枝は、咲幸がクリスマスプレゼントにボディオイルを選んだ意図がわからなかった。
本当に美容面を考えてのことなのか――それとも、素肌に触れるためのきっかけなのか。
少なくとも、現在の倖枝には後者寄りに感じられた。
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