第02章『再会』

第004話

 黄昏の空を背に、藍色の瞳が笑っていた。目の前の少女は恍惚の笑みを浮かべていた。


「わ、私は――」


 倖枝はゆっくりと、目の前の少女に手を伸ばした。

 もう一度掴みたい欲望が込み上げる。一度知った快楽を、再び欲する。

 それに忠実に従っていたが――伸ばした手は宙を掴み、無気力に降りた。


「――お互い、忘れましょう」


 頭から咲幸の顔が離れなかった。

 ひとりの母で在りたかった。娘の幸せを考えたかった。だから、倖枝は我慢し、娘に譲ることを選んだ。

 少女を欲するために、咲幸の帰宅を望まないのではない。あくまでも、この場面を見られたくないからである。

 しかし、これは倖枝ひとりの問題では無かった。


「あの夜は無かった……。それでいいわね?」


 都合の良い内容だと思いながら、倖枝はそう提案した。

 美人局で無いのかもしれないが、未成年に手を出したのは事実だ。その件で脅迫される可能性は充分にある。

 受け入れて貰えるとは到底思えなかった。


「倖枝さんは、それでいいんですか?」


 月城舞夜は、何も動じなかった。提案に対し肯定も否定もせず、倖枝の意思を確かめた。

 藍色の瞳は笑ったままだった。まるで、本心を見透かされているようだと、倖枝は思った。


「……」


 嘲笑うかのような視線に、腹を立てる立場ではなかった。

 倖枝は居心地が悪くなり、舞夜から視線を外して俯いた。

 やはり、一筋縄ではいかなかった。脅迫はないのかもしれないが、舞夜が何を考えているのか分からなかった。


「ただいまー」


 玄関の扉が開く音と共に、咲幸の声が聞こえた。

 倖枝は顔を上げた。まるで、救いが訪れたかのようだった。いつの間にか強張っていた肩の力が、すっと抜けるのを感じた。


 舞夜を見ると、ソファーに腰を降ろしていた。

 先程までの恍惚の笑みは無く、実に涼しげな表情だった――まるで、何事も無かったかのように。


「ほら。期間限定のやつあったよ」


 リビングに入った咲幸は、テーブルにコンビニのビニール袋を広げた。

 棒状のクッキーにチョコレートをコーティングした菓子の箱を、嬉しそうな笑みと共に舞夜に見せた。


「あら。美味しそうね」

「でしょ。でも、この時間だから一袋だけね」


 舞夜は平然とした態度で咲幸と接していた。

 咲幸の帰宅で倖枝が安心したのも束の間――あの少女からあのソファーで押し倒され、キスをされたことを思い出した。唇に感触がまだ残っていた。

 そのことを、娘は知らない。改めて、背徳感が込み上げた。


「……母さん、お茶淹れるわね」


 詰まりそうになった声をなんとか押し出すと、倖枝はキッチンに向かった。

 電子ケトルの湯を、カップに置いたドリップコーヒーに注いだ。コーヒーの香りが、少し気分を落ち着かせた。


「ねえねえ。サユが居ない間、ママと何話してたの?」

「さっちゃんに美人な彼女さんが出来たのね、って話してたの――そうよね?」


 咲幸が舞夜に訊ねたが、倖枝は咄嗟に割って入った。もし先程の出来事を正直に話されたらと思うと、怖かった。


「ええ。若くて綺麗なお母さんですね、って話してたわ。まるで、咲幸のお姉さんみたいね」


 キッチンに立つ倖枝は、舞夜から視線を向けられた。

 舞夜の口元が微笑んでいた。

 舞夜の言葉は嘘ではなく、確かな事実であった。だから倖枝には更に皮肉に聞こえ、上唇を噛んだ。


「でしょ? でも、舞夜ちゃんの言う通り、ママはサユのお姉ちゃんなんだよ」


 咲幸の言葉も嘘ではなかった。舞夜は相変わらず涼しげな表情だったが、きっと理解していないだろうと倖枝は思った。

 二杯のコーヒーが乗ったトレイを、リビングに運んだ。


「舞夜ちゃんを混乱させないの。……うちは複雑な家庭なのよ」


 コーヒーをテーブルに置く際、倖枝は言葉を濁した。

 戸籍上の関係を咲幸は肯定的に捉えているが、倖枝にとっては愉快な話ではなかった。誰であろうとも、なるべく話したくない事情だった。


 倖枝はリビングからすぐに立ち去り、キッチンに戻った。ドリップコーヒーの出涸らしで、マグカップに自分の分を淹れた。

 不味いコーヒーを片手に、リビングを眺めた。どこにでもいるような年頃のふたりの少女が、楽しそうに談笑していた。

 ――何もおかしくない光景であった。

 監視のつもりでしばらく眺めていたが、舞夜が咲幸に先程の出来事を話さないだろうと倖枝は思った。

 飲みかけのコーヒーを手にしたまま、気配を消して自室に移った。そっと扉を閉め、六畳の狭い空間で、ようやくひとりきりになった。

 ベッドに腰掛け、サイドテーブルにマグカップを置いた。煙草に手を伸ばしかけたが、吸う気分でもなかった。カーディガンを羽織ったまま、ベッドに横になった。


「……」


 倖枝は頭の中を整理した。

 あの夜、舞夜がバーに居たことも、自分を誘ったことも――そして、咲幸に恋人として近づいたことも、全て偶然ではない。舞夜は、明らかに何らかの計画で動いている。

 子供に踊らされていることが、倖枝はたまらなく腹立たしかった。だが、舞夜の狙いが分からなく、咲幸も巻き込まれているので、下手に手を出せなかった。


 そう。咲幸だ。

 リビングのソファーに座るふたりを思い出す。

 現在になって振り返ると、あの光景に少なからず嫉妬していた。

 このようなかたちであれ、舞夜と再び会えたことに倖枝は少なからず喜んでいた。


 ――わたしは、咲幸のことが好きですよ?


 この言葉を、信じたいようで信じたくなかった。

 娘が利用されるだけの存在であって欲しかった。

 倖枝はベッドに仰向けになった。天井の明かりが眩しくて、右手で両目を覆った。


「忘れられるわけ無いじゃない……」


 舞夜にはおそらく届かなかっただろうが、自分こそがあの提案を飲めなかったのだ。

 藍色の瞳に飲み込まれた快楽は、自分の思う以上に深く根付いていた。ソファーでの熱が、まだ腕の中で微かに残っていた。それを必死に手繰り寄せていた。

 倖枝はただ、そんな自分に呆れた。腹が立つことすら無かった。

 きっと、時間と共にこの感情は薄れていく。舞夜の存在には耐えて慣れるしかない。投げやりにそう思った。


 こうして一旦退けたから、現在になってようやく気づいた。

 かつてロジーナ・レッカーマウルと名乗った少女の本名は――


「月城舞夜……か」


 右手の指の隙間から天井の隅を眺め、少女の氏名をぽつりと漏らす。

 月城という名字は、この街では有名だった。倖枝も仕事でよく聞く銘柄だった。

 どちらかといえば珍しい名字なので『あの月城』と全くの無関係だとは考え難かった。淑やかな佇まいと上品な雰囲気が、更に裏付けた。

 遠い親戚、或いは――


 だからこそ、どうして自分なんかが目をつけられたのか、倖枝は余計に分からなかった。

 きっと、偶然同じ名字なんだろう。あの一族とは無縁の人間なんだろう。

 悪い予感を振り払うように、倖枝はそう思った。投げやりに割り切った。もう何も考えたくなかった。

 いっそ寝てしまおうと意識を遠退けるが――扉の向こうの気配が、それを許さなかった。玄関へと向かう複数の足音が聞こえたので、倖枝は仕方なく身体を起こした。

 扉を開けると、玄関でスリッパを脱ぐ舞夜と、見送ろうとしている咲幸が見えた。


「あっ、ママ。舞夜ちゃん帰るよ」

「はい。夕飯前なのに、失礼しました」


 扉から出た倖枝に、舞夜は礼儀正しく頭を下げた。


「おばさんの顔を見られて、よかったです」


 そして、口元だけで微笑んだ。


「……また遊びにいらっしゃい」


 煽りのような言動に対し、倖枝は精一杯笑顔を作った。

 大人気ないと思いつつも、煽り返したつもりだった。だが、母としての社交辞令の挨拶には――少なからず、本心も含まれていた。


「それじゃあ舞夜ちゃん、明日学校でね」

「ええ。また明日……」


 長い黒髪をなびかせ、月城舞夜はこの部屋を後にした。

 それを倖枝は、咲幸とふたりで見送った。

 娘がどのような表情をしているのかは――敢えて確かめなかった。

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