第005話

 十一月十七日、木曜日。

 午前九時半頃、倖枝は自動車で出勤した。そして、店を開けた。


 この地域へチェーン展開している不動産屋の一店舗。世間では名の知れた看板が掲げられ、駅から徒歩十分と立地も悪く無かった。

 賃貸ではなく不動産売買の仲介を業種としているこの会社に、倖枝は十八歳で入社した。咲幸を産んで誰より金を稼ぎたいという思いから、歩合が強く実力主義の不動産営業職を選んだ。僅かな学生時代をこの街で遊んでいたため、土地感覚に優れていることも強みであった。高校中退という学歴だが、宅地建物取引士の資格試験に一回で合格し、筆記と面接の入社試験を得て採用された。

 倖枝は勤続十六年であり、この支店の店長としては二年目であった。


 店長席に座る中、部下である四人の営業とひとりの事務員が、十時の開店に備え清掃を行っていた。


「おはようございます」

「おはよう、春名。山登り、楽しかった?」

「はい。紅葉が綺麗でしたし、平日で空いてましたし、最高でしたよ」

「それはよかった。リフレッシュしたんだから、また一週間頑張ってね」


 倖枝はパソコンを起動させながら、窓を拭いている次席の春名夢子はるなゆめこと挨拶を交わした。

 部下の中では、一番長い付き合いであった。彼女は高身長とパンツスーツ、耳出しのマッシュヘアであることから一見では中性のようだった。しかし、可愛い響きの氏名だけではなく――胸も女性として立派だと、倖枝は常々思っていた。


「ぼちぼち頑張ります」


 無愛想で眠たげな雰囲気は、およそ営業職向きではなかった。それでも次席まで昇り詰めた実力を倖枝は認めているため、口を出さなかった。


 倖枝はメールソフトを起動させると、休日明けのため大量のメールがなだれ込んだ。どれも不動産ポータルサイト経由での問い合わせだが――店舗のサイトの問い合わせフォームから直接送信されたものが一通あった。倖枝は真っ先にそれを開いた。


「うちに直接、売り査定きてるわ」

「へぇ、珍しいですね。リピーターですか?」


 問い合わせ内容を伝えると、夢子も倖枝と同様の反応だった。

 売却査定の依頼は、不動産ポータルサイトを介して不動産会社に一斉送信されることが多い。真っ先に反応した会社が契約を結ぶという『早いもの勝ち』が主流だった。

 夢子の言うかつての利用者や、従業員の知人から直接承ることが例外だった。


「ミカゲさん? 春名は知ってる?」


 倖枝は店長として店全体の案件を把握しているつもりだが、少なくとも『御影歌夜』という氏名に覚えは無かった。


「いえ。私も知りません」

「だよね。えっと、場所が……」


 倖枝は書かれた物件所在地を読み上げた。

 確かに、この街のものだった。しかし、この仕事でも滅多に目にすることのない地名だった。


「こんな所に家なんてあったっけ? なんか面倒そうね」


 所在地から連想する光景は、街外れの森だった。宅地ですら無い土地の作業小屋かもしれないと、倖枝は嫌な予感がした。


「あっ、一軒だけありますよ。ほら、月城の……」


 夢子の言葉に、倖枝はそういえばあったなと思い出した。絶対に売却されないという前提だったため、そもそも頭に挙がらなかった。


「どうして月城の豪邸を御影って人が売ろうとしてんのよ」


 倖枝は笑いながら検索サイトに所在地を貼り付け、ストリートビューで開いた。

 そして、出てきた光景に笑いがぴたりと止まった。


「……春名。あんた正解」

「えっ、マジですか?」


 驚いた夢子がやって来て、隣からパソコン画面を覗き込んだ。

 インターネットブラウザには立派な門構えが映っていた。その奥に見える家屋は一般的な戸建ての住宅家屋では無く、まさに『豪邸』と呼ぶに相応しい代物だった。


「……たぶん、何かの悪戯じゃないですか?」

「そうだといいんだけど……今日の一時に、その御影さんが来るんだよね」


 倖枝は再びメールの内容を確かめた。依頼者氏名と物件所在地と連絡先の他、今日の午後一時に来店する旨が書かれていた。

 ホワイトボードの予定表に目をやると、その時間帯は営業全員が店を出払っていた。


「時間ずらして残りましょうか?」

「……結構。あんたは予定通り、売主のところに行ってらっしゃい。私が相手するから……本当に来たら」

「というか、御影さんに来店確認の電話テルしなくていいんですか?」

「……結構。私も八割方、ただの悪戯だと思ってるから」

「でも、もしも二割の方だとしたら?」

「……激アツどころの騒ぎじゃないわね」


 倖枝はストリートビューの画面を再び眺めた。驚きを、悪戯だと思い込むことで落ち着かせた。

 あの月城の豪邸を、売却に預かる。まずあり得ない話だった。

 どうして御影という人間が売却依頼をするのか、現在の所有権はどうなっているのか、登記を確認すれば分かるだろう。

 しかし、倖枝は敢えて行わなかった。知りたくなかった。


 ――月城という銘が、昨日再会した娘の恋人を彷彿とさせた。

 彼女がどこで暮らしているのか、倖枝は知らない。だが、あの佇まいとこの豪邸が頭の中で嫌でも結びついていた。

 これも『あり得ない話』として否定したかった。



   *



 正午を過ぎ、倖枝は昼食と食後の一服たばこを済ませた後、歯を磨いた。平日の、自分以外に事務員しか居ない事務所は、静かだった。

 午後一時を五分ほど過ぎた後、入り口の自動扉が開いた。


「いらっしゃいませ!」


 事務員の挨拶と共に、倖枝は席を立ち玄関に向かった。

 玄関には、ひとりの女性が立っていた。

 一目見て、とても美人だった。自分と変わらないぐらいの歳だろうと、倖枝は思った。その意味では、黄色のワンピースと肩に羽織ったデニムのジャケットは歳不相応に感じた。しかし、若作りをしている様子は無く、違和感なく着こなしていた。


「御影様ですか?」

「ええ……」


 貫禄を携えた巻き髪の女性は、店内を見渡すことなく頷いた。


「お待ちしておりました。こちらにどうぞ」


 倖枝は、パーテーションで区切られた商談テーブルの一番奥に案内した。

 テーブルには、一台のタブレットパソコンが置かれていた。


「申し訳ありませんが、こちらのアンケートへの記入をよろしくお願いします」


 女性が座りタブレットに触るのを確かめると、倖枝は一度席を離れた。

 アンケートというが、実際は個人情報から用件まで、店で預かる顧客情報を記入させていた。その間は客の前に座らないのが、会社の規則であった。

 倖枝は自分の机に戻ると、社員証を首から下げ、引き出しから名刺を一枚取り出した。


「改めまして、本日は当店をご利用頂き、誠にありがとうございます」


 頃合いを見計らい、倖枝は事務員の淹れたコーヒーをトレイに載せて席に戻った。


「ご挨拶が遅れました。私、店長の嬉野と申します」


 コーヒーを差し出した後、女性の前に座り、名刺を渡した。

 女性は名刺をつまらなさそうに見ると、テーブルの隅に置いた。


「わざわざ店長さんが相手してくれるの?」

「ええ。物件モノ巨額モノですからね……。失礼致します。拝見します」


 倖枝は苦笑しながら、タブレットを手に取った。

 御影歌夜みかげかよ、四十三歳。実年齢に驚くが、用件が売却であり、物件所在地が事前情報通りだということを真っ先に確かめた。

 ――二割の方だった。

 本当に来店し、本当にあの物件であるとは思いもしなかった。驚くよりも、まだ現実味が無かった。


「念のため確認しますが……あの月城さんの御宅ですよね? 本家になるんでしょうか?」


 株式会社月城住建。全国規模のテレビ番組のコマーシャルでも目にするほどの、全国展開を行っているハウスメーカーだった。

 地元出身の月城一族が二代でここまで大きくし、今やこの街で最も有名な存在となっていた。

 その月城の、本家の豪邸を預かろうとしていた。


「そうよ。本家の人間が住んでいた館、ね」


 歌夜は素っ気なく答えた。

 正面から漂う柑橘系とバニラの香水が、倖枝は不快だったが――歌夜が藍色の瞳をしていることに気づいた。

 よく見ると、美人という印象の向こうに、外国人の面影があった。氏名と言葉遣いには何も違和感が無かった。

 ――藍色の瞳が、あることを予感させた。『ふたり』の年齢を瞬時に計算し、特に可笑しくないことを理解した。

 それを確かめるように、タブレットの画面を『売却理由』の欄までスクロールした。だが、空欄だった。


「失礼ですが、売却理由を伺ってもよろしいでしょうか? 公にはしません。ただ……買い主様にはお伝えしないといけませんし、私も把握しておきたいですので……」


 月城ではなく、御影である理由。ハウスメーカーの自社売却ではなく、個人がわざわざ仲介業者に依頼してきた理由。

 ああ、そういうことか――売却理由は、倖枝の中でおよその見当がついていた。

 昨日再会した藍色の瞳をした少女が、脳裏に浮かんでいた。悪い予感が綺麗に繋がった。


「離婚の財産分与で、あの館が私のものになっただけよ。よくある話じゃない……」


 倖枝の思った通りだった。

 目の前の人物はおそらく、月城住建の現社長の夫人だった女性だ。月城の銘柄は有名だが、現社長の氏名も離婚していた事実も、倖枝は知らなかった。

 離婚理由は、この際どうでもよかった。それよりも、藍色の瞳について、悪い予感を確かめたかった。しかし、訊ねるわけにもいかず、倖枝は仕事に集中した。


「売却後に金銭を財産分与するのではなく、あの館そのものを頂いたという認識でよろしいでしょうか?」

「ええ。貴方の言う通りよ」


 よくある話どころか、極めて稀なケースじゃない――倖枝は笑顔のまま、心中で呟いた。


「事情は把握しました。早速、現地へ査定にお伺いしたいのですが……現在は空き家なのでしょうか?」

「さあね。たぶん、そうじゃないの?」


 歌夜は鞄から分厚いファイルと鍵束を取り出し、テーブルに置いた。

 苛立った歌夜の様子から、本当に現状を知らないのだと倖枝は理解した。かつての住居に近寄るのすら嫌だという意思表示だと受け取った。そして、仕事への支障を危惧した。


「資料一式と鍵だけど、私も同行しないとダメ?」

「必ずということはないですが……もし不明な点があるならば、伺いたいです」

「そう言われても、私もあの館を全部把握してるわけじゃないし……とにかく、貴方ひとりで行ってきて。分からないことあったら、リスト作って持ってきて」

「かしこまりました」


 やはり悪い方に傾いたと倖枝は思うが、笑顔を崩さなかった。


「明日には査定金額きんがく出る?」

「はい。可能でございます」

「それじゃあ、明日の一時にうちまで来なさい」


 倖枝はタブレットの画面をスクロールし、歌夜の現住所を確かめた。駅に直結しているタワーマンションだった。

 わざわざ呼び出す態度が気に入らなかったが、上客である以上、倖枝に拒否権は無かった。


「承知しました。明日の午後一時にお伺い致します」


 倖枝の返事と共に、歌夜は立ち上がった。そのまま出入り口まで向かい、店を出る際に一度振り返った。


「ちなみに、いくらぐらいになりそう?」

「そうですね……」


 倖枝はこの査定依頼自体が悪戯だと思っていたため、事前の概算すら行っていなかった。店長ともあろう者が大失態とも言える準備不足だが、豪邸の映像を思い出し、十六年の勘を当てはめた。


「頂いた資料と現地訪問から改めて計算しますが……現段階でお答え出来るのは、四億でしょうか」


 倖枝の勘では五億円だった。具体的な根拠が何も無いため、敢えて下げて答えた。

 この額で二割は流石に大きかったかなと、倖枝は後になって思った。一割にすればよかったと後悔した。


「そう……」


 しかし、口頭で提示された金額に、歌夜は満足も不満も無い様子だった。

 この時点で不満を口出されると覚悟していたので、倖枝にしてみれば意外な反応だった。査定の同行を避けるほど館を嫌っていることを考えれば、金額よりも早さを重視しているのかもしれないと思った。


「本日は、ありがとうございました。明日、お邪魔致します」


 倖枝は表に出て頭を下げた。フロントグリルにある円を三等分したようなマークが目印の、ガンメタリックのセダンを見送った。


「店長、お疲れ様でした」

「もう最悪……。なによ、セレブだからって偉そうに」


 店に戻ると、テーブルを片付けている事務員に愚痴を漏らし、倖枝はタブレットを手に取った。そのままひとりで給湯室に入り、加熱式煙草の電源ボタンを押した。

 煙草を吸いながら、顧客情報をざっと眺めた。空欄が目立ったが、一番最後の『当店をどのように知りましたか?』には『知人の紹介』にチェックが入っていた。

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