第006話

「戻りました」


 午後四時半頃、店に春名夢子が戻ってきた。


「お疲れ様。どう? 預かれそう?」

「というか、預かってきました」


 夢子は自分の机に鞄を置くと、クリアファイルを取り出した。記入済みの媒介契約書が挟まっていた。

 夢子に任せた案件は、顧客である売主が売却に出すべきか迷っている状態だった。倖枝としては今日は説得だけで帰ってくると思っていたので、嬉しい誤算だった。


「でかしたわ、春名。結局、二千八百万円にいはちで?」

「はい。まあ、売れる額だと思います」

「よっしゃ。来月の売上すうじに絶対乗せてね」

「頑張ります」


 倖枝は店長として、店舗売上の目標を定め、達成するために各営業を後押しするのが業務であった。次席である夢子を軸に、計画を立てていた。


「嬉野さんの方はどうだったんですか? えっと、誰でしたっけ……本当に来たんですか?」

「それがね、本当に来ちゃったのよ。あの月城の豪邸よ?」


 倖枝は机に置いていた鍵束を持ち上げ、席に座った夢子に見せた。


「えっ? マジですか? 状況が全然分からないんですけど、冷やかしじゃないんですよね?」


 長年の付き合いから、夢子が感情を表情おもてに出さない人間だと倖枝は知っていた。今回も驚いている様子は無いが、確かにまだ素直に喜べないのは倖枝も同じだった。


「売る意思はありそうなんだけどねぇ。どうもお家騒動で売ることになったっぽくて、私もまだ全部わかってないのよ。どこまで首突っ込んでいいのやら……」

「へぇ。なんか、ややっこしそうですね」

「というわけで、ちょっと現地見てくるから留守番お願い」

「わかりました。いってらっしゃい」


 倖枝は歌夜から預かった鍵束とファイルを鞄に仕舞い、席を立った。

 店を出ると、陽は遠くに傾いていたが、まだ明るかった。空き家だとすれば電気が止まっている場合が多いので、現地調査は日中に行っておきたかった。


 二台の社用車ではなく、倖枝はフロントグリルの王冠マークが目印の白いセダンに乗った。出勤も含め自家用車を使用できるのが店長の特権だった。

 夕方の街を自動車で走った。帰路を歩いている学生の姿が、何度も目についた。


 倖枝が育ったこの街は住宅地の多い、俗に言うベッドタウンであった。電車に十五分も乗れば都道府県を跨いで都心に移動できるため、利便性に優れていた。

 約三十平米キロメートルの広さに、約三十万人の人口。商業店舗や公共施設の数は申し分なく、治安も悪くはない。つまらないが住みやすい街だと、倖枝は常々思っていた。

 家を建てるにあたり、この街の土地の相場は、現在の坪単価でおよそ七十万円から八十万円である。しかし、今回はそれが通用しなかった。


 自動車で走ること、二十分。街外れの森に、有名な『月城邸』は在った。倖枝は過去から所在を知っていたが、こうして近づいたのは初めてだった。

 公道に接した整備された道は、私道であった。それを含め三千平米――約九百坪の土地を山林から宅地に地目変更していたことを、登記情報で知った。また、こんな場所でも都市ガスと下水が通っていることに驚いた。


 倖枝は私道を自動車で走り、両開きの門の前に駐車した。

 静かな場所だった。風に揺れる周囲の木々の音だけが聞こえた。人の気配はどこにも無かった。

 倖枝は車内からスリッパを持ち、自動車から降りた。門に設置されたインターホンには、電源ランプが点っていなかった。どうやら電気が止まっているようなので、空き家だと確信した。


 鍵束をいくつか試し、門を開けた。

 家屋と門の間にはカーポート付きの駐車場と、庭が広がっていた。いつから空き家なのか分からないが、庭には雑草が無く、まだ綺麗に整っていた。維持のための手入れが大変そうだと倖枝は思った。

 誰にも迷惑をかけないはずなので、門の前に駐車した自動車をわざわざ移動させなかった。


 門から少し歩き、木造二階建ての家屋を見上げた。

 御影歌夜が『館』と呼んでいたのを思い出した。確かに、家というよりも豪邸というよりも――館という表現が、倖枝の中でも違和感が無かった。

 夕陽に照らされた洋館は、厳格な佇まいだった。住まいとしての温もりを感じることは無く、まるで城のようだと倖枝は思った。


「ん?」


 ふと、頭上から視線を感じたような気がした。しかし、二階のどの窓にも人影は無く、気のせいだと流した。

 倖枝は再び鍵束を片っ端から試し、玄関の扉を開けた。

 玄関は二階へと吹き抜けとなっといるため、とても広く感じた。螺旋階段の先では、二階の廊下から手すり越しに玄関口を見下ろせるようになっていた。


「お邪魔しまーす」


 倖枝は持参したスリッパに履き替え、建物内に上がった。預かったファイルから間取り図を取り出し、確かめるように見て回った。

 建物は合計、六百平米――約百八十坪の7LDKであった。トイレが四箇所、風呂が二箇所にあった。

 とても築二十一年を感じさせないほど、建物の経年劣化は無かった。当然ながら建築主は月城住建であり、流石の品質だと倖枝は思った。傷が全く無いわけではないが、査定に響くような大きな欠損箇所は無かった。壁紙の張替えと鍵の交換だけで事足りそうだった。


 どの部屋にも家具は何ひとつ無く、ガランとしていた。倖枝としては珍しく、かつての住人の名残が一切感じられなかった。良く言えば、この建物に相応しく、上品かつ丁寧に扱っていたのだろうが――なんだか物寂しかった。

 森の中の薄暗い洋館は、ホラー映画を彷彿とさせる怖さは無かった。まるで時間が止まったかのような、静寂の空間だった。不思議と落ち着いた。やはり温もりは無いが、そういう意味では居心地は悪く無かった。


 倖枝は螺旋階段を上り、二階も見て回った。どの部屋も間取り図通りであり、増築箇所も撤去箇所も無かった。

 歌夜に訊ねる事も特に無いなと思いながら、最後の部屋――二階の一番端の部屋に入った。


 窓から差し込む夕陽が眩しかった。

 窓辺に立ったひとりの少女が、外を眺めていた。

 突拍子も無く人の気配が現れたが、倖枝は驚かなかった。


 まるで、一枚の絵を眺めているようだった。

 十五畳ほどのこの部屋には、本の無い本棚、教科書の無い勉強机、シーツのみ掛けられたベッドがあった。少女は、夕陽の差し込む殺風景な部屋に溶け込んでいた。長い黒髪と黒いセーラー服の姿は、やはり魔女のようだった。


「あんたね……ここで何してるのよ?」


 倖枝はようやく現状を理解し、口を開いた。この少女が誰であるのか――昨日自宅で見ているので、間違うはずが無かった。

 月城という名字と藍色の瞳から、この建物と縁があるだろうと、悪い予感はしていた。だが、まさか空き家であるここに現在居るとは思いもしなかった。


 少女がゆっくりと振り返った。夕陽の逆光の中、倖枝に近づいた。

 伸ばした右手には――小指に黒猫の指輪が嵌められていた。


「やっぱり来てくれましたね」


 倖枝は、少女から左頬を撫でられた。細い指先から、人間としての確かな熱が伝わった。

 少女の藍色の瞳は笑っていた。歓喜――いや、恍惚を浮かべていた。


「あんたは……」


 倖枝は頬の手を払い除け、少女と向き合った。

 自分の心臓の高まる音が聞こえた。嫌悪や緊張だけではなく、こうして会えたことを喜んでいるからでもあった。入り交じる感情を、必死に抑え込んでいた。


 昨日は咲幸の姿があったが、この空間には他に誰もいない。誰からも邪魔されることのない、ふたりだけの空間だった。ホテルの一室以来だった。

 そして、少女の右手嵌った黒い指輪から、目の前に立つのは月城舞夜というよりも――


「お待ちしていましたよ、サチエさん」


 魔女の館で、倖枝はロジーナ・レッカーマウルと再会したのだと思った。

 そう。あの夜は、まだ明けておわっていない。



(第02章『再会』 完)


次回 第03章『契約』

倖枝は御影歌夜に、査定結果を報告する。

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