第03章『契約』
第007話
「お待ちしていましたよ、サチエさん」
夕陽に照らされた中、まるで客をもてなすように――ロジーナ・レッカーマウルが倖枝に対して微笑んだ。
ここでの遭遇は、倖枝にとって予想外の出来事だった。
ふたりきりでの再会は喜ばしいことであった。しかし、挑発するような態度は倖枝の神経を逆撫でした。ふたつの感情が交錯し、混乱する中、倖枝は自分を落ち着かせた。
「……どうしてあんたがココに居るのよ?」
答えは分かりきっていた。御影歌夜の売却理由と彼女と同じ瞳の色から、嫌でも想像出来た。
倖枝は、確かめるように訊ねた。
「自分の家に居てはいけませんか?」
月城舞夜。昨日ロジーナ・レッカーマウルの本名を聞いた時から、倖枝は彼女が月城の親族だと予感していた。だが、まさか本家の娘であるとは思いもしなかった。
そう。この館は御影歌夜の所有物であると同時に、舞夜の住居でもあるのだ。彼女の言う通り、この場所に居る理由としてはおかしくなかった。
――御影歌夜が離婚するまでは。
「でも生憎、この家は売りに出ようとしているのよ……あんたのママがね」
御影歌夜という氏名は、離婚後の旧姓に戻ったに過ぎない。彼女自身から直接聞いたわけではないが、かつては月城歌夜――舞夜の母親としてこの館に住んでいたのは間違いなかった。
倖枝は舞夜を真っ直ぐ見据えて告げるが、舞夜は顔色ひとつ変えずに微笑んでいた。
ここで倖枝に疑問が浮かぶ。
母親がこの館を売却に出すことを知っている可能性があるにしても――この少女は自分の職業まで知っていたのだろうか? どうして自分を待ち構えるように、この部屋に居たのだろうか?
答えを模索する中、歌夜が『知人からの紹介』で訪ねてきたことを思い出した。
あの夜にしろ、舞夜は計画的に動いていた。理由や方法は分からないが、もはや自分の全てを知られている前提で動かなければいけないと、倖枝は切り替えた。
「ここ、あんたの部屋? でも、住んでいるわけじゃないんでしょ?」
だから、自分のことに触れられるより、先に訊ねた。
館をざっと見て回り、現状は空き家であることを確かめた。唯一僅かな家具が残ったこの部屋も、やはり生活の形跡が微塵も無かった。
「ええ。たまに遊びに来ているだけです」
舞夜は頷き、勉強机の椅子に腰掛けた。右手小指の指輪を、大事そうに撫でていた。
やはり、倖枝の思った通りだった。時刻は午後四時半過ぎ。学校を終えて、その足でやって来たのだろう。
時間としてはおかしくない。しかし、倖枝は『今日のこの時間』であることに気づいた。
「ていうか、あんた学校はどうしたのよ!? 文化祭の準備あるんでしょ!?」
文化祭は今週末だ。いくら駄目な母親であるとはいえ、娘が放課後は準備で大変であるとは把握していた。
「まさか、二日連続でサボったわけじゃないでしょうね!?」
昨日は咲幸も準備から逃げ出したので目を瞑るにしても、舞夜がこの時間にここに居る事実は見過ごせなかった。
咲幸にもこのように言ったことは無かった。この瞬間だけは月城の家庭事情を忘れ、倖枝は人様の娘を感情的に叱っていた。
倖枝自身に自覚は無かったが、自分が高校を中退した身分だからであった。大人としてではなく、学校行事に参加出来なかった嫉妬だった。
「ふふ……あはははは……」
しかし、舞夜は反省する態度を見せなかった。それどころか、幼い子供のように、腹を抱えて大笑いした。
「な、なによ! 何がおかしいのよ!?」
淑やかな令嬢が滅多に見せないであろう姿を目の当たりにし、倖枝は混乱すると同時に、冷静さを取り戻した。このような反応の理由が分からないが、つい感情的になったことが恥ずかしかった。
「いいですよ、倖枝さん。その調子です」
呼吸を整えながら、舞夜が言った。
倖枝にはさらなる煽りに聞こえ、高ぶる感情をぐっと堪えた。
「とにかく! 明日は絶対にサボらないこと! いいわね!?」
「はい……。わかりました」
舞夜は涙が出るほど笑っていた。涙を拭いながら頷いた。
本当に理解したのか、倖枝は疑うが――それよりも、なんだか調子が狂った。
「あと、この部屋の家具も早く退かしなさい。お家の人に頼むなり業者呼ぶなり、あんたならいくらでも手段あるでしょ?」
「サボるなとか片付けろとか叱って……倖枝さんって、なんだかお母さんみたいですね」
舞夜は椅子の背もたれに身を傾け、面白そうに微笑んだ。
やはり大人を舐めているような態度だと、倖枝は思った。しかし、その言葉が皮肉として刺さった。
自分が一児の母だとは、胸を張って言えなかった。自分のことを母親だと認知している人間は、周囲に片手で数える程しか居なかった。
自分に母親らしく振る舞う資格が本当にあるのか、分からなかった。
「咲幸が羨ましいです」
「……」
さらに娘の名前を出され、倖枝は俯いた。
この少女の言葉にどういう目的があるのか、わからない。全てを知られている前提だとしていたが、まさか悩みまで把握しているとは思いたくなかった。
「何が羨ましいよ……」
自分の内側から話を遠ざけようとした結果、移った先は妬みであった。月城の令嬢として、この立派な館で何ひとつ不自由なく育ったこの少女を、恥もなく羨ましいと思った。
――本当に幸せだったのだろうか?
「あんたには、美人のママが居るじゃない」
倖枝はその一言で、確信に触れたつもりであった。
御影歌夜が離婚した理由は分からない。しかし、この館を毛嫌いする様子と――舞夜の言動から、ふたりに何かあったのかとの疑いが芽生えた。
倖枝は顔を上げると、舞夜は相変わらず涼しい表情だった。動揺している様子は一切無かった。
「……ごめん」
だが、倖枝は流石に大人気なかったと思い、謝罪した。
それを聞いた舞夜の口元が少し歪むと共に――瞳が笑った。
「……どうしてあの
舞夜は椅子に片足を上げ、抱えた。黒色のタイツに包まれた脚を自ら撫でながら、倖枝の顔を覗き込むように顔を傾けた。
黒猫の指輪が、倖枝の目に入った。
「言ったでしょ? あれはもう、忘れなさい」
自分こそが忘れられないと、倖枝は理解していた。目の前でこのような艶めかしい仕草を取られると、尚更だった。
しかし、それをなんとか振り切り、毅然とした態度で告げた。
「――忘れられるわけ、ないじゃないですか」
ロジーナ・レッカーマウルから、昨日の返事を聞かされた。
瞳が笑っていた。言葉には切なさではなく、嘲笑う意味合いが含まれていた。
「サチエさんだって、きっとそうですよね?」
「いいえ。違うわ」
「――違いませんよね!?」
拒否を許さぬ少女の一声――トーンが急に上がり、倖枝は驚きに身体が一瞬震えた。少女の感情を、初めて目の当たりにしたような気がした。
「いいんですか? 咲幸に言っても」
「……」
声のトーンは戻るが、言葉の内容は酷だった。
咲幸を持ち出しての脅迫は、倖枝の想定していた中で最悪の事態だった。昨日の様子でこうはならないだろうと考えていたが、甘かった。
同性とはいえ未成年者との淫行である以上、娘に知られると、社会的な立場まで崩れる可能性がある。絶対に避けなければいけない結末だった。
要求内容は分からないが――たとえ飲むことになろうとも。
「もしそれで本当に言わなかったら、あんたが脅迫罪になるわよ?」
しかし、大人しく引き下がるわけにはいかないため、倖枝は挑発に出た。脅迫罪としての訴訟はおそらく通らないが、少女が少しでも恐れることを願った。
「あら。法律に詳しいんですね」
「弁護士の次に法律に詳しいのは、ヤクザと不動産屋よ。舐めないで」
「それじゃあ、咲幸に言うしかないですね。わたしとサチエさんで、何をしたのかを……」
椅子から立ち上がった舞夜が、倖枝に近づいた。軽やかな足取りであり、
「なーんちゃって……。安心してください。言うわけないじゃないですか。でも、その代わり……」
小さく笑う舞夜に、倖枝は顔を覗き込まれた。藍色の瞳から、目を離せなかった。
舞夜が立てた右手の人差し指と中指は、まるでピースサインで煽っているかのようだった。
「ふたつ――わたしのお願い、聞いてくれませんか?」
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