第008話

 十一月十八日、金曜日。


「よし、出来た」


 午前十一時頃、倖枝は御影歌夜への査定書を完成させた。店長に就任してから査定を行うことは数える程しかなかったので、久々の作業だった。

 会社のフォーマットで作成したものを表紙を含め印刷し、ステイプラーで綴じた。それを、目の前の席で仕事している春名夢子に渡した。


「うわ……こんな額、初めて見ました」


 本当に驚いているのか分からない様子で、夢子は数ページに渡る査定書を、順に目を通した。


「確かに説得できる内容だとは思いますけど……ぶっちゃけ、どうなんですか?」

「わからん!」


 返却された査定書を受け取りながら、倖枝は首を横に振った。歌夜の出す売却金額がこれより増減することも、そもそも本当に預かれるのかも、倖枝には見当がつかなかった。あくまでも、忖度の無い金額に理由を添えて提示するに過ぎない。


「預かったところで、売れるビジョンが全然浮かばないし……あの売主きゃくはいけ好かないし……正直言うと、関わりたくないのよ。でもまあ、仕事だしねぇ」


 それは確かに本音だった。

 しかし、仕事以外の理由で――この物件を必ず取りに行くという腹は決まっていた。この案件に関わりたくなくとも、逃げ出すことが出来なかった。


「春名、あんた担当してみる? これ撒いたら、店長に上がれるだけの売上てんすう稼げるわよ?」

「結構です。私には手に負えそうにありません。嬉野さんにお任せしますよ」

「はいはい。面倒事はこっちで何とかするから、あんたは自分のやつ全力ね」

「了解です」


 倖枝にはどの道、この案件を誰にも譲るつもりは無かった。自己都合を抜きにしても、最悪は自分が主導になり店舗一丸で扱わなければいけない規模だった。

 倖枝はクリアファイルに閉じた査定書を鞄に仕舞うと、昼食を済ませた。


 そして、午後十二時四十分頃、店を出た。御影歌夜の自宅まで徒歩十分ほどの距離だが、自動車を使用した。駅前のコインパーキングに駐車し、少し時間を潰した後、自動車から降りた。

 歌夜の自宅である駅に隣接したタワーマンションを、倖枝は過去に何度か取り扱ったことがあった。階数と部屋位置からの間取りと相場は、現在でも頭に入っていた。歌夜の部屋番号から、それらが瞬時に浮かんだ。

 腕時計の長針が十二を指すのを確かめると、倖枝はマンション入り口のインターホンに部屋番号を入力し、呼び出した。


『はい』

「本日午後一時にお伺いの約束をしました、嬉野と申します」


 周辺に住民らしき人物が居ないとはいえ、インターホン越しに不動産会社の社名を出すのはマナーに反した。社用車にも会社ロゴは無い。あくまでも、客のプライバシーを尊重しないといけない。


『入って』


 歌夜の淡々とした声と共に、入り口が解錠された。

 倖枝はすぐにエレベーターに乗り、歌夜の部屋へと向かった。


「こんにちは、御影様。お世話になっております」


 部屋の扉から玄関へと通され、倖枝は満面の笑みで挨拶した。


「待ってたわ。上がってちょうだい」


 腕を組んだ歌夜に迎えられた。昨日と同じく、素っ気ない態度だった。涼しげな様子は娘とそっくりだと、倖枝は思った。


 この部屋は4LDKだが、歌夜以外の人気は無かった。

 リビングにはソファーやテレビ等、最低限の家具しか置かれていないため、良く言えばシンプル――悪く言えばセレブの割に物寂しいと、倖枝は感じた。

 ソファーに腰掛け腕と脚を組んだ歌夜の正面、ラグマットに正座した。


「ランチはお済みですか?」

「ええ」

「今日は天気も良くて、お散歩日和ですね。紅葉が綺麗らしいですよ」

「そう……」


 ひとまず雑談から入るものの、愛想の無い相槌に倖枝は内心で腹を立て、早々に切り上げた。鞄から査定書を取り出した。


「早速、本題に移りますが……お家の方は、昨日あれから拝見致しました」

「何か分からないことあった?」

「……いえ、特にありませんでした。間取り図通りでしたし、補修が必要な箇所もありませんでしたし、非常に綺麗な状態だと思います」


 一室だけ家具の撤去が住んでいない部屋があったが、倖枝は黙っておいた。


「それで……金額の方がですね……」


 査定書を捲って見せながら、説明を始めた。


「土地の方は、四億五千万円となります。この二十一年、地価公示に変動は無く、あの地区での売買記録も御影様の他にありませんでした。ですので、購入当時から相場は変わっていないと判断です。購入価格そのままでの売却が可能だと思われます」


 坪単価は五十万円となる。この街で戸建て住宅を建てる場合、現在の坪単価はおよそ七十万円から八十万円だった。そう考えるとそれなりの割安になるが、森の中なので相応だと倖枝は思った。

 ソファーの歌夜を見上げると、つまらなさそうな表情で査定書を眺めていた。どちらかというと不満そうではあったが、何も口を挟まれなかった。


「次に、建物の方ですが……一般的な木造住宅の場合、減価償却に二十五年かかると言われています。二十五年後には、価値がゼロになるわけです」


 もっとも、リフォームを行った場合はその費用が修繕費として計上されるため、また違ってくるが。昨日見る限りは大規模修繕跡も無く、預かった資料にも記録は無かった。


「ですが、月城住建の場合、建築当時から三十年保証を謳っていますので、三十年で償却すると考えます。つまり、築二十一年ですので、現在は単純に建物購入価格の三十分の九――九千万円となります」


 資料によると、建物購入価格は三億円であった。坪単価は約百六十五万円となり、倖枝の知る中でも最上位だった。月城住建の建物は過去に何度も見ているが、それらよりも圧倒的に品質が優れていたので、倖枝は値段相応だと納得した。


「土地と建物を合わせまして……査定金額は五億四千万円となります」


 やはり、倖枝の勘算出に近い金額だった。

 昨日は歌夜に四億円だと告げているため、彼女にしては嬉しい誤算であるだろう――しかし、歌夜のつまらなさそうな表情は変わらなかった。


「如何でしょうか?」


 満足なのか、不満なのか。この金額で預けてくれるのか、くれないのか。倖枝は何も読み取れなかった。


「……その金額で売りに出すとして、どのぐらいの期間で売れそう?」


 この質問に対する回答を事前に用意していたが、それでもあまり答えたくはなかった。


「正直に申しまして、この価格帯になると買い主様は非常に限られます。ですので、通常に比べ遅く……長くて半年ほどお待ち頂くかもしれません」


 昨日の査定額同様、大きく余裕を持っての回答だった。

 一般的な中古物件は長くて二ヶ月、最悪三ヶ月での売却を目標としている。今回もその目標だが、如何せん扱ったことの無い金額なので、口には出せなかった。


「五億でいいわ――建物でそこまで下げて――その代わり、三ヶ月で売りなさい」


 歌夜の不満げな表情から、倖枝は値上げを覚悟していた。まさか、値下げを指示されると倖枝は思いもしなかった。

 金額に驚き意識が取られたが、時間の条件を付けられたのを後になって理解した。


「差し出がましいですが……私はあくまで、査定金額を提示するのみです。いくらで売りに出すかは、御影様のご自由です。それと、弊社としましては、期間内に必ず売るという条件付き契約は結べません。なるべく早く売る努力はしますが……」


 四千万円マイナスは売却のハードルが大きく下がり、売り手として美味しい話だった。倖枝はふたつ返事で食いつきたいところだが、冷静にマニュアル通りの対応で返した。下手な特約は社内の稟議審査に反する。


「別に、そういう契約じゃなくていいわ。貴方にリスクは無しで、五億で三ヶ月を目標――自信あるのか無いのか、どっち?」


 煮え切らない返事に苛ついたのか、歌夜は脚を組み換え、睨みながら選択を迫った。

 正座の脚が少し痺れたのを、倖枝は感じた。歌夜から目を離さなかった。


「自信はあります。ただ……そこまで急ぐ理由を伺ってもよろしいでしょうか? どうしても三ヶ月以内に売らなければいけないのですか?」


 倖枝の経験上、この手の急かす場合は、金に困っていることがほとんどだった。三ヶ月後にどうしても大金が必要な状況なのか、事情を知っておきたかった。


「別に……。三ヶ月という期間に拘りは無いわ。ただ、お金を手にして一刻も早く母さんの祖国くにに行きたいの。それだけよ」


 歌夜はまるで他人事のように、淡々と語った。本当に急いでいるのか分からない様子だった。

 そういえば離婚をしていたのだと、倖枝は思い出した。この内容を聞く限り、新しい男が出来たから離婚したわけでは無さそうだった。それよりも、金に関して切羽詰まっている状況ではないようなので、ひとまず安心した。


「なるほど。今後はお母様とそちらで生活なされると?」

「そういうこと」

「事情は分かりました――安心してください、他言はしません。それでは、五億円で私共に売却を任せて頂ける、ということでよろしいでしょうか? なるべく早く売れるよう、頑張りますので」

「ええ。それでお願い」


 大金の話だが、歌夜は素っ気なく返事をした。


「かしこまりました」


 倖枝は鞄のファイルから、空欄の契約書を取り出した。

 三種の契約形態を説明した後、専属専任媒介契約で承った。一社独占での、一般的な契約であった。

 そして、少しでも金額を安く見せるため、五億円ではなく四億九千八百万円での売却を提案した。歌夜はそれで了承した。

 最後に、買主が見つかった場合の売主の諸費用として、仲介手数料が約千五百万円必要だと話した。登記費等は、買主が負担することになる。歌夜はその旨も了承した。

 それらを踏まえ、倖枝は歌夜と書面で契約を取り交わした。


「ご記入、ありがとうございました。預からせて頂きます」


 記入漏れや間違いが無いことを確かめると、大切に仕舞った。


「早速、本物件を流通機構に登録しますので、完了次第連絡致します」


 計画通り御影歌夜と契約を交わし、あの館を預かることが出来た。金額は嬉しい誤算だった。

 倖枝は仕事としての達成感よりも、昨日の少女とのやり取りを思い出した。こうして、やり遂げた。

 ――目の前の女性は、少女の母親だった人間なのだ。

 正座から立ち上がりながら、倖枝の中で何かが込み上げた。何かが胸につかえた。


「あ、あの! 私もシングルマザーです!」

「え? いや……私はもう、マザーでも無いのだけど……。ただのバツイチよ」

「し、失礼しました!」


 突然の言葉に、歌夜は目を丸くして驚いた。

 その反応から、倖枝は自分が一体何を発言したのか、ようやく理解した。しかし、どうしてそのような言葉が出たのかは、理解出来なかった。

 頭の中は真っ白だった。


「舞夜さん――私の娘の同級生です! 娘と仲良くさせて頂いてます!」


 その発言と共に、胸が楽になったような気がした。

 きっと、舞夜と面識があることを隠したまま、この仕事をしたくなかったのだ。

 ――舞夜とどのような母娘だったのかを少しでも知るために、歌夜には隠したくなかった。


「……ぷっ。あはははは……」


 少しの間を置き、歌夜は笑った。

 ずっと素っ気ない態度だったこの女性が笑うのを、倖枝は初めて見た。


「別に、貴方が娘のことを知ってようと、私にはどうでもいいわよ。だから、そんな必死な表情かおしないで」


 好きの反対は、無関心――自分が娘に抱くものと同じだと、倖枝は思った。笑われた理由よりも、その事実が重く伸し掛かった。


「ていうか、貴方の娘があの子と同級生って……貴方、三十半ばぐらいでしょ? 一体いくつで……」

「そこは計算しないでください!」


 考え込む歌夜を、倖枝はすかさず制止した。咲幸を産んだ年齢を知られるのは恥ずかしかった。


「貴方のこと、つまらない女だと思ってたけど……意外と面白いのね。貴方に頼んでよかったわ」


 歌夜はそう言い、微笑んだ。

 口元だけでなく、藍色の瞳も微笑んでいた。あの少女と笑う仕草が全く同じであり、やはり血の繋がった親子なのだと倖枝は思った。


「ありがとうございます……。あの……。つかぬことをお訊ねしますが……ロジーナ・レッカーマウルという名前をご存知ですか?」


 帰り際に少し打ち解けた現在、倖枝はふと訊ねた。

 藍色の瞳はやはり外国の血のものだと、こうして分かった。それに関係するものであるなら、歌夜が何か知っているかもしれないと思ったのだ。


「いえ……。聞いたことないけど、それがどうかした?」

「何でもありません! 忘れてください! それでは、失礼致します」


 歌夜はとぼけるわけでもなく、本当に知らない様子だった。

 的が外れたと思いながら、倖枝は慌てて部屋から飛び出した。


「ふー」


 コインパーキングの自動車に戻ると、エンジンをかけ、加熱式煙草の電源スイッチを入れた。

 仕事内容は完璧だった。客とも少しは親身になれた。だが、最後は最悪だった。倖枝は煙草を吸いながら、恥ずかしい思いと共に、反省した。


 ロジーナ・レッカーマウル。改めて気になったので、携帯電話のインターネット検索でその名を入力した。


「あの魔女に、名前なんてあったんだ」


 兄妹が森に迷い込み、お菓子の家に住む魔女に招かれる――倖枝も知っている、海外の有名な童話。その魔女の名前だった。

 ロジーナは一般的な女性名。そして、レッカーマウルは『美食家』を意味するらしい。詳しく調べてみれば、何の捻りの無い名前だった。

 美食家の魔女は、ふたりの兄妹をお菓子で太らせ、最終的に食らおうとする。倖枝は童話の内容をうろ覚えだったが、確かそのような話だった気がする。


 ――わたしは、咲幸のことが好きですよ?


 魔女は『ふたり』に目をつけたのだ。

 月城舞夜がどうしてそう名乗ったのか、倖枝はようやく分かったような気がした。

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