第009話

 倖枝は御影歌夜の元から店に戻った後、すぐに契約書を社内の審査部に通した。会社承認を得ると、不動産流通機構に『御影邸』を売却物件として登録した。明日には反映され、反響もあるだろう。


 午後八時になり、閉店した。従業員全員が戸締まり準備に取り掛かろうとしたその時、倖枝の携帯電話がメッセージアプリの受信を告げた。


『ゴメン! 文化祭の準備で今帰ったから、夕飯遅れるかも!』


 咲幸からだった。

 娘がこんな遅い時間に学校から帰宅したことに倖枝は驚いたが、そういえば文化祭は明日だったと思い出した。前日なら仕方ないと、割り切った。

 倖枝は携帯電話を持って席を立ち、給湯室に入った。そして、咲幸に電話した。


「もしもし、さっちゃん? お疲れさま」

『ママこそ、お仕事お疲れさま! ゴメン、夕飯なんだけど――』

「夕飯の支度、今日はいいわよ。週末なんだし、どこか食べに行こうか」


 倖枝にとっての週末はまだ先だが、世間は金曜の夜だった。

 倖枝が自身の両親と咲幸と四人で暮らしていた頃は、いつも倖枝の母が夕飯の支度をしていた。咲幸はそれを手伝っていたので、日に日に料理の腕前が上がった。

 咲幸とふたりで暮らすようになってからは、咲幸が夕飯の支度だけではなく、進んで家事全般を行っていた。倖枝は自分の仕事上、仕方ないとは思っていたが、それ以上に申し訳なかった。

 だから、母親らしく、たまには家族サービスを振る舞いたかった。


『本当!? それじゃあサユ、あそこに行きたい――』

「また? ……わかったわ。お母さん、もうちょっとで帰るから、出る準備しておいてね」

『うん! ママ、ありがとう!』


 倖枝は電話を切ると、咲幸の出した店を予約した。


 午後八時半、店の戸締まりを終えて、倖枝は帰宅した。

 マンションの前まで自動車を走らせると、ハザードランプを点灯させ、咲幸に電話した。それからすぐ、咲幸が降りてきた。髪はポニーテールにしたまま、フード付きパーカーとスウェットパンツの格好だった。


 咲幸を乗せると、駅前まで走った。昼間のコインパーキングを、再度使用した。

 倖枝は自動車から降りた際、御影歌夜の住むタワーマンションをふと見上げた。


「ママ、早く行こうよ。お腹ペコペコ」


 咲幸に腕を引っ張られ向かった先は、駅前の焼き鳥屋だった。黄色い看板の、全国チェーン店だった。

 週末の夜であるため、店内は混んでいた。予約をしていなければ、空きを待つことになっていた。

 ふたり掛けのカウンター席に通され、並んで座った。倖枝は店員に烏龍茶のみ注文し、咲幸がメニューを眺めながら食べたいものを順に告げていった。


「さっちゃんが焼き鳥好きなのは分かるんだけど、もっと良い店に行こうよ。母さん、お金ならあるわよ? ほら、親鳥を炭火で焼いたやつ美味しかったじゃない?」


 店員が立ち去るや否や、倖枝はそう言った。以前行った別の店の香ばしい味を思い出し、ビールが飲みたくなった。

 ここは全品が均一値段のため、安価であるのが売りだった。しかし、味は所詮チェーン店であるため、倖枝には今ひとつだった。


「えー。親鳥って硬いから、サユはやだよ」

「ふふっ。さっちゃんはまだまだ子供ね」

「子供でいいもん。ここの焼き鳥は、どれも二本だからね――ママと半分こ出来るから、好きなの」


 運ばれてきた二本のもも串を咲幸は一本取ると、残りを皿ごと倖枝に渡した。

 咲幸が美味しそうに、串に齧り付いていた。倖枝は食べ難いという意味で、いつも串から皿に外していた。しかし、咲幸の真似で齧り付くと、なんだか食べごたえがあった。


「ごめんね、お酒飲めなくて」


 ふと、咲幸が漏らした。

 倖枝にしてみれば値段相応の味だが、アルコールを飲みたくないと言えば嘘になる。娘から酒も煙草もやめられない母親だと思われるのは、慣れていた。しかし、気遣われるのは心外だった。


「子供がそんなこと気にしないの。……高校卒業したら、さっちゃんにはすぐに免許取って貰うからね? 大学の授業料の他に、教習所のお金もあるから安心して」

「ありがとう、ママ。車の運転教えてね」


 倖枝は烏龍茶のグラスを持ち、咲幸のミックスジュースのグラスに乾杯の真似をした。

 娘の運転で酒を飲める日は、それほど遠くはないだろう。その時には娘の成長による達成感よりも――きっと開放感の方が大きいのだと思った。


「舞夜ちゃんって、あの月城の娘さんなのね」


 倖枝は、そう話を切り出した。

 仕事の話を娘に聞かせることはあまり無かったが、この件は咲幸にも知っていて欲しかった。


「うん、そうだよ。サユはそういうの、あんまり気にしないし……舞夜ちゃんに、跡取りのお兄ちゃんが居るんだって」


 月城に長男が居ることを、倖枝は初耳だった。


「……舞夜ちゃんの親御さん、離婚してるんだって?」


 確信は無いが、おそらく長男も両親の離婚後は父親側なのだろう。御影歌夜は、あの部屋でひとりきりだった。

 そう。『開放』された女性を、今日目の当たりにした。歌夜の娘への無関心な素振りは、間違いなく自分の延長だった。


「サユも詳しくは知らないけど、そうらしいね。現在はパパと暮らしてるんだって。……それがどうしたの?」

「今日ね……舞夜ちゃんのお母さんから、あの館を売りたいって預かったの」

「えっ、あそこの? いくらで?」

「五億よ、五億。お母さんの人生がもうひとつあれば、買えたわね」


 倖枝は笑った。咲幸には悟られていないが、酒が入っていなくとも自虐気味だった。このような人生をもう一度送るのは勘弁願いたい――もしくは、この人生をやり直したかった。


「へぇ……。五億って、宝くじより凄いじゃん。きっと、一生遊んで暮らせるんだろうなぁ」


 咲幸の言葉にしろ、何か事業を始めるのにしろ、何をするにも困らない額だった。

 ――娘を売った額なのだと、倖枝は理解していた。

 離婚での財産分与で家を全て手に入れるなど、普通はあり得ない。また、離婚後の親権は母親側が圧倒的に有利だが、おそらく敢えて手放している。そのふたつから、御影歌夜は親権と引き換えに館を自分のものにしたと倖枝は考えた。

 倖枝には、歌夜を蔑む資格が無かった。それどころか――僅かでも羨ましさを感じた自分に嫌悪感を抱いていた。


「それだけの大金があっても、子供と離れるのはきっと辛いわよ」


 倖枝は火の消えた小さな釜の蓋を取った。茶碗に鶏釜飯を盛ると、咲幸に渡した。

 ――きっと、そう思うことが母親として正しいのだ。


「うん……そうだよね。もし五億円貰っても、サユはママと離れたくないよ」


 咲幸は明るく頷き、茶碗を受け取った。

 咲幸からそう思われていることが、倖枝には幸いだった。娘からの信頼を大切にしたかった。

 母親としての在り方を、倖枝は今一度考えていた――昨日の、魔女とのやり取りから。



   *



「ふたつ――わたしのお願い、聞いてくれませんか?」


 夕陽の差し込んだふたりきりの部屋で、倖枝は立ち尽くしていた。月城舞夜から顔を覗き込まれていた。


「……言ってみなさい」


 舞夜があの夜のことを、咲幸に言わない条件。まさかふたつもあるとは思わなかったが、飲むしかないのだ。

 おそらく、金銭的な要求ではないだろう。だからこそ、どのような無理難題が吹っ掛けられるのか、倖枝は身構えた。


「まず、ひとつ目は――この館を、必ず倖枝さんの手で売り払ってください」


 しかし、実に肩透かしな内容だった。本当にそれでいいのか、確かめたいぐらいであった。


「あんたに言われなくても、そうするつもりよ」

「約束ですよ? ちゃんと買主を探し出して、売買を締結させてください」


 特に引っかかる言葉は無かった。解釈違いの余地は無く、倖枝は自分の業務を果たすだけだと理解した。

 強いて言えば、必ず成功させないといけない。まだ正式な仲介契約が済んでいないので、もしかすれば頓挫する可能性もあり得る。それさえ許されないということだ。


「私はプロよ。舐めないで」


 この物件を預かったところで、金額上、必ず売り切る自信があるとは言えなかった。しかし、倖枝は営業の人間として弱気な部分を見せられなかった。


「そう言って貰えると、安心です。信じてますからね」

「それで、もうひとつは?」


 倖枝は、残りも同等の条件を期待した。

 舞夜がにんまりと笑った。悪意に満ちた笑顔に、嫌な予感がした。


「ふたつ目は――わたしのお母さんになってください」

「はい?」


 肩透かしというより、意表を突かれた。倖枝は、言葉の意味が分からなかった。


「え? お母さん? ……私の養子になるってこと?」

「ふふっ。そう難しく考えないでください。わたしと擬似的な母娘おやこになるってことです」

「よく分からないんだけど……。なに? そういうプレイがしたいの?」

「もうっ、倖枝さんは本当にやらしいですねぇ。母娘でエッチしますか? 普通しませんよね? ……ただのゴッコ遊びですよ」


 倖枝は、舞夜から人差し指を唇に突き立てられた。


「誰にも内緒の、ふたりっきりの母娘関係です――もちろん、咲幸にも」


 囁く声のニュアンスだけは、あの夜そのものだった。倖枝の中で何かが疼いた。今にでも、目の前の少女を抱きしめたかった。

 しかし、頭は言葉の意味を理解していた。衝動が腕に行き渡るのを制止していた。


「無理よ。あんた……私がクソみたいな母親シンママだってこと、知ってるんでしょ?」


 倖枝は劣等感を正直に告げた。血の繋がった実娘にすら怪しいのに、まして他人の母親になど成れるはずが無かった。


「へー。そうなんですか? だったら、わたしでお母さんの練習をしたらどうですか? 倖枝さんにとっても悪い話じゃないと思いますけど」


 わざとらしい口振りだと、倖枝は思った。やはり、何らかの方法で内面事情を知っているようだった。

 咲幸には母親として本音を話せない以上、確かに他人の娘で練習として接することは悪くないのかもしれない――果たして練習になるのかは、疑問ではあるが。


「まあ……どの道、倖枝さんに拒否権は無いんですけどね」

「わかったわよ! やりゃいいんでしょ!? ――で、具体的には何をすればいいのよ?」


 倖枝は自分の置かれた状況を思い出し、半ばやけ気味に返事をした。


「そうですね……。まずは、この契約の証として、わたしを抱きしめてください――実の娘を想うように、大切に、優しく」


 舞夜は両腕を広げ、抱擁を待った。

 黒髪の下で、藍色の瞳が笑っていた。右手小指の黒猫の指輪が、夕陽に小さく光っていた。


 ――魔女が、甘いお菓子で誘惑していた。

 確かに、これは契約だった。一度受け入れると、きっと戻ってこれなくなる。

 いや、藍色の瞳に飲み込まれたあの夜から――とっくに受け入れていたのだ。


 倖枝は一歩踏み出し、正面から舞夜を抱きしめた。

 咲幸への口止めのためだ。腕の中に居るのは咲幸だ――そう思い描こうとするほど、咲幸の姿は影に覆われた。ロジーナ・レッカーマウルの熱を再度感じていると思うと、強く激しく抱きしめていた。


「これでいいの?」

「ふふっ……。まあ、及第点ですかねぇ。明らかに、娘へのハグではないですけど……」


 嘲笑うような艶めかしい声から、腕の中の存在がどのような表情なのか想像できた。

 倖枝は、今すぐにでもキスをしたかった。舌を絡めたかった。彼女自身をとにかく欲した。


「これからよろしくお願いします――お母さん」


 耳元に届く言葉でかろうじて我慢しながら、倖枝は『女』としての月城舞夜を抱きしめていた。

 しかし、その行為は確かに舞夜を擬似的な『娘』として扱う契約であった。



(第03章『契約』 完)


次回 第04章『保護者』

倖枝は、咲幸の学校の文化祭を訪れる。

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