第04章『保護者』

第010話(前)

 十一月十九日、土曜日。

 不動産屋にとって、世間の休日である土日は繁忙日であった。平日の営業行為で、如何に土日の物件案内の予約を取れるかが勝負所であった。

 そういう意味では来週には『御影邸』の内覧案内を一件でも取っておきたいと、倖枝は店長席で思った。

 正午前だが、店内の営業はひとりを除いて出払っていた。皆優秀だと感心した。


「高橋……私ランチして、その足で御影さんとこの写真撮ってくるわ」

「うっす」

「もし飛び込みで客が来ても、絶対に逃さないこと。いいわね?」

「が、頑張ります」


 倖枝は、電話営業を行うために顧客情報を眺めている男性新入社員、高橋たかはし――名前は忘れた――にそう告げると、席を立った。二十三歳で見た目が若い割に、覇気やフレッシュさに欠ける男だと思っていた。土曜に案内が一件も無いのはこの業種として致命的だが、大学新卒一年目のため、これからに期待した。


 店を出ると、昨日と同じく良い天気だった。物件の確認巡りのつもりで、ドライブをしたいぐらいだった。

 しかし、今日はそういうわけにもいかず、倖枝は自動車に乗った。

 昼食に出かけるというのは、嘘では無かった。向かった先は、自動車で十五分ほどの距離にある、咲幸の通う高校だった。

 なるべく近くのコインパーキングに駐車し、自動車を降りた。スーツ姿のまま少し歩くと、装飾された校門が見えた。


 そう。今日は文化祭の日であった。以前から咲幸に来て欲しいと言われていたので、仕方なく足を運んだ。

 去年は仕事を理由に行かなかった。というより、入学式と二度の三者面談に続き、学校に来ること自体が四度目だった。

 余所の親はもっと来ているんだろうなと思いながら、倖枝は校門で案内状を見せた。案内状には自分の氏名と、案内元である咲幸との間柄を『保護者』と記入しておいた。姉や従姉妹と捉えられただろうが、もし『母親』なら、受付の生徒はどういう目で自分を見るのだろうと思った。


 校門を抜けるとすぐ、飲食の屋台が並んでいた。他校の制服を着た学生の他、保護者だと思われる中年も、大勢の来客で賑わっていた。

 倖枝は他人から『若い母親』だと思われるのが嫌だった。だから、文化祭に限らず――咲幸が小学生の頃から、学校行事への参加は憂鬱だった。

 倖枝の母――咲幸にとっての祖母がよく代わりに参加していたが、実家に帰ったため、もう近くに居ない。それに、咲幸に対しては母親らしく在りたい気持ちはあるので、今日は腹を括った。


 倖枝はひとまず、携帯電話で咲幸に電話した。しかし、繋がらないためメッセージアプリで『今来たわよ』と送った。

 返信を待つまで動かないのは時間が勿体ないと思い、咲幸の教室に向かおうと、校舎へ歩いた。


「ママ! こっち、こっち!」


 屋台の前を歩いていると、咲幸の声が聞こえ、倖枝は立ち止まった。

 声の方向では『陸上部』と書かれた屋台で、三角巾とエプロン姿の咲幸がタコ焼きを作っていた。携帯電話に触れない理由に、倖枝は納得した。


「さっちゃん――見つかって良かったわ。部活の方だったんだ」

「ごめんね、ママ。そろそろ来る頃かなって思ってたんだけど、ちょっと今、手が離せそうに無いの」


 言葉通り、咲幸は忙しそうに鉄板のタコ焼きを回していた。自宅でタコ焼きを作ることは無かったが、実に手慣れた様子だった。


「私のことはいいから、出し物の方を頑張って。さっちゃんのこういうところ見れただけでも、来て良かったから――」


 倖枝は咲幸に微笑んだ。いつも通り、母親として当たり障りの無い言葉を選んだつもりだった。


「ありがとう! 昼食おひるまだでしょ? 焼き立て持っていくから、中庭で待ってて」

「ええ。楽しみにしてるわ」


 咲幸から言われた通り、倖枝は屋台に隣接した中庭に移った。校舎に囲まれた中庭には、ビニールシートやパイプ椅子が置かれ、屋台が近いことから簡易的な食事所となっていた。

 だが、倖枝はそれらから少し離れた――文化祭以前から置かれていたであろうベンチに腰掛けた。娘と同じ年頃の子供達、そして自分より年上の保護者達。やはり、それらに囲まれた空気は苦手だった。


 ぼんやりと、食事所の様子や通行人を眺めていた。

 特定のひとりを探していた。この学校の制服である、黒いセーラー服を着た――長い黒髪の少女を。

 おそらく、どこかには居るだろう。常に一緒に居るものでも無いが、恋人である咲幸の側には居なかった。自分のクラスの出し物で離れられないのかもしれないと、倖枝は思った。


 一昨日は『契約』の後、連絡先の交換をしてすぐに別れた。咲幸に万が一見られてはいけないので『ロジーナ』の名で携帯電話に登録した。

 倖枝は携帯電話を取り出した。電話帳と同期しているため、メッセージアプリにもロジーナの項目があった。しかし、それに触れても会話履歴は何も無かった。


 ――わたしのお母さんになってください。


 そうは言われたものの、倖枝はまだ実感が湧かなかった。咲幸への口止めとして、どのように接すればいいのか、未だに分からなかった。

 ただ、現在は――この中を、咲幸とではなく月城舞夜と歩いたなら、どのような気持ちなんだろうと思った。


「おばさん、お待たせしました」


 ふと、目の前に人影が現れ、倖枝は慌てて携帯電話の隠すように、電源ボタンに触れた。

 顔を上げると、長身の生徒が立っていた。咲幸と同じくセーラー服の上からエプロンを纏い、ショートボブヘアの頭には三角巾が巻かれていた。



「お久しぶりです」

 湯気の立つタコ焼きの乗った紙皿を手に、生徒はニカッと笑った。


「えーっと……貴方は、確か……」


 倖枝としては、初めて見る顔では無かった。確か、咲幸が一年生の時のクラスメイトであり――同じ陸上部の部員であり――咲幸の友達の中では自分が唯一知っている人物のはずだが、名前が思い出せなかった。爽やかな雰囲気をよく表した名前であるとは、覚えているが。


「ハルですよ。風見波瑠かざみはるです」

「ああ、そう! 波瑠ちゃん! 久しぶりね!」


 倖枝の中でモヤモヤしていた晴れ、気分がスッキリした。

 名前を忘れるという無礼を働かれたにも関わらず、波瑠は笑顔を絶やさなかった。


「これ、咲幸からです。すいません……娘さん、タコ焼き作るのめっちゃ上手いんで、ずっとお借りして」


 波瑠からタコ焼きの紙皿を申し訳無さそうに手渡され、倖枝は受け取った。


「いいのよ。あの子、おばあちゃんに似て、料理上手いから。――それ、いくら?」

「お代は要りませんよ。儲けるためにやってるわけでもないんで」


 鞄から財布を取り出そうとしたところ、波瑠から止められた。お代ではなく小遣いとして強引に渡すのも気が引け、倖枝は財布を仕舞った。


「それじゃあ、ゆっくりしていってください」

「波瑠ちゃん――忙しいのは分かるんだけど、おばさんとちょっとお喋りしない? 咲幸のことで」


 屋台に戻ろうとする波瑠を、倖枝は慌てて呼び止めた。

 不思議と、波瑠相手には若いシングルマザーとしての負い目が無かった。誰とでも気兼ねなく接するであろう波瑠の人懐っこい感じを、気に入っていた。

 そう。この手のタイプの人間は人脈が広く、持っている情報が豊富なのだ。


「えー。何ですか?」


 倖枝はベンチの鞄を退けると、波瑠が苦笑しながら隣に腰掛けた。


「うちの子と――月城のお嬢さんが付き合ってるって、本当なの?」

「ああ、そのことですか……。本当ですよ。学校中で、ちょっとした話題になりました」


 倖枝は熱いタコ焼きを冷まして食べながら、話した。

 咲幸と舞夜のことを、ふたりに近い第三者から詳しく聞きたかった。

 恋人としてのふたりを自宅で実際に見たので、疑っているわけではなかった。だが、波瑠からそう告げられ、認めざるを得なかった。

 少し落胆する気持ちは、僅かにあった。


「言うて女子校ですから、そういうのは珍しくないです。……ただ、月城ですからねぇ。うちと同じクラスですけど、まあ凄いですよ」


 波瑠ちゃんこそ背が高くて爽やかでイケメンだし、女子校だと特にモテるでしょ? 倖枝はそう思ったが、口には出さなかった。

 やはり、この学校でも月城は有名な家柄のようだった。とはいえ、波瑠の口振りから、舞夜は周りから距離を置かれた存在なのかもしれない。


「私は、月城あっちから告白したコクったって聞いたんだけど」

「はい。そうらしいですよ」


 その事実を確認したところで、倖枝にひとつの疑問が浮かんだ。

 いや、その疑問があるからこそ、その事実がどうも信じられなかった。


「咲幸は、誰にでも面倒見いいですからね……。モテるのも、分からなくはないです」


 訊ねるより先に、波瑠が言葉を続けた。まさに、倖枝の欲しい回答部分であった。


「ふーん……」


 娘の同級生から娘のことを褒められ、倖枝は嬉しかった。モテるのかは分からないが、咲幸のその性格には、確かに母としても同感だった。

 しかし、そうなった原因は間違いなく自分のせいであるため、複雑だった。


「なるほど。波瑠ちゃんの目には、そう見えるわけだ」


 舞夜が咲幸を好きになった理由。倖枝はあくまでも波瑠からの憶測を聞いただけであり、実際どのような理由なのか、結局は分からなかった。


「で――ぶっちゃけ、ふたりのことどう思う?」

「どうでしょうねぇ……。まだ付き合って日が浅いんで、うちには何とも言えません」


 ふたりを近くで見ている第三者の所感は、倖枝と同じだった。

 倖枝には、波瑠が当たり障りの無いことを言っているようにも、言葉を濁しているようにも聞こえなかった。波瑠の回答に納得した。


「ねぇ……。波瑠ちゃんに、ちょっとお願いがあるんだけど」


 倖枝は鞄から自分の名刺を一枚取り出すと、社用の携帯電話番号にボールペンで二重線を引いた。そして、個人用の携帯電話番号を書いた。


「ふたりに何かあったら、私にこっそり教えてくれない?」

「えっと……。それは『どっちの意味で』ですか?」


 名刺を渡すと、波瑠は困った表情で受け取った。


「もちろん、関係が悪くなった場合よ」


 恋人としての関係が良くなるのは、おそらく外野から見ていても変化を捉え難いだろう。しかし、悪くなる分には実に分かりやすいに違いない。


「ちなみにですけど……。もしそうなった場合、うちはふたりをフォローした方がいいんですか?」

「それは波瑠ちゃんにお任せするわ。自分の思うように動いてちょうだい」


 娘の幸せを願おう。数日前は、確かにそう心に決めた。しかし、自分の姿勢に他人を巻き込むわけにはいかなかった。

 波瑠がどう動くつもりなのか分からないが、その行動結果に口を挟むつもりは無かった。


「……もういっこ、いいですか? どうして、悪くなった場合の報告が必要なんですか?」


 苦笑する波瑠から、倖枝は訊ねられた。

 この子は本当に勘が鋭いな――まるで、心の裏側を見透かされているかのようだった。


「それはね……さっちゃんを慰めるためよ」


 倖枝は、営業用の満面の笑みで答えた。

 ふたりが関係を良いように育むに越したことは無い。確かにそう願う。

 だが、上手くいかない場合は仕方ない。咲幸には無理をして欲しくない。肩を張ることなく、あるがままの姿で付き合える人と幸せになって欲しい。

 ――それこそが母としての願いなのだと、倖枝は自分に言い聞かせた。


「わかりました……。『何かあれば』連絡しますね」


 波瑠は微笑むと、名刺を学生服のポケットに仕舞った。

 波瑠の気持ちは読み取れなかった。しかし、おそらく悟られていないと、倖枝は思った。もし悟られているとしても、波瑠はこの会話を咲幸に告げない手応えがあった。

 そう。波瑠は典型的な体育会系だった。誰よりも調和を望み、そして年上を敬う気持ちを大切にしているだろう。


 報告を貰った際は何か褒美を用意しようと思った、その時――倖枝は、頭上から視線を感じた。

 正面の校舎の二階と三階を見上げるが、窓からは生徒と来客が廊下を歩いているのが見えた。誰かに見られていることも、見知った顔も、無かった。

 ――確かに、二日前に御影邸で感じた視線と同じものだった。


「どうかしました?」

「いえ……。何でもないわ。ごめんね、長々と引き止めちゃって。さっちゃんには、フォローしておくわ」

「助かります」


 倖枝はいつの間にか、紙皿のタコ焼きを全て食べ終えていた。

 波瑠に続き、倖枝も立ち上がった。そして、ふたりで屋台に戻った。

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