第010話(中)

「遅いよ、波瑠! どこで油売ってんの!?」


 相変わらず、咲幸は忙しそうにタコ焼きを回していた。


「ごめんね、さっちゃん……母さんが、波瑠ちゃん借りてたわ」

「え……そうだったの?」


 苛立った様子の咲幸だが、倖枝が事情を説明すると、大人しくなった。


「ちょっとね……さっちゃんのこと訊いてたのよ」


 それは確かに、嘘ではなかった。

 倖枝は、咲幸の隣に立った波瑠に視線を送ると、苦笑を返された。


「サユのこと、変に言ってないよね?」

「うちがそんなことするわけないじゃん。何もおかしなことは言ってないよ」


 波瑠が咲幸から、肘で小突かれていた。

 それも確かに、嘘ではなかった。話を合わせてくれたことに、倖枝は心中で礼を述べた。


「さっちゃん、タコ焼き美味しかったわよ。ご馳走様」

「本当? 生地に混ぜる出汁にはこだわったからね! またウチで、みんな呼んでタコ焼きパーティータコパしようよ!」

「そ、そうね」


 倖枝としては自宅に大勢を呼ぶのは気が引けたが、この場は適当に相槌を打った。


「あらあら……賑やかなこと」


 ふと、背後からその声が聞こえ、倖枝は振り返った。

 まず目に入ったのが、両手で持った『おばけやしき』と書かれた看板だった。だから、学生服の上から黒いケープを羽織り、黒い三角帽を被った姿は、宣伝の一環なのだと理解した。

 倖枝は素直に、それが可愛いと思った。


「舞夜ちゃん、いらっしゃい!」


 咲幸の表情が、パッと明るくなった。

 魔女の仮装をした月城舞夜もまた、咲幸に微笑んだ。そして、倖枝に向かって礼儀正しく頭を下げた。


「こんにちは、おばさん。先日は、ありがとうございました。……いらしていたんですね」


 咲幸にはきっと、自宅に訪れたことについての礼だと聞こえているだろう。

 しかし、これは二日前の出来事に対してだと、倖枝は理解した。


「そりゃ、こういう機会だし……『娘』の頑張ってるところ、見たいから」


 舞夜と向き合いながら、咲幸に横目を送った。クスリと笑う舞夜の口元が、視界の隅に入った。

 中庭で感じた視線は、おそらく舞夜のものだろう。自分の姿を確かめた後、こうして姿を表したのだろうと、倖枝は思った。


「月城さん、クラスの方はどんな感じ?」

「列が出来るぐらいには盛況よ」


 波瑠から訊ねられ、舞夜は看板を掲げて見せた。

 そういえばふたりは同じクラスだったなと、倖枝は思い出した。


「そっか……。部活こっちに付きっきりで心配だったけど、安心したよ」

「というか、ほとんどサユ達だけじゃん! いい加減誰かと代わって、見て回りたいんだけど! せっかくママが来てるんだし!」

「急に欠員出たから、仕方ないよ咲幸。それでも、もうちょっとで交代だから、我慢しな」

「なるほど。そんなことがあったのね……」


 苛立ちながらタコ焼きを回す咲幸を、波瑠がなだめた。どうやら、咲幸は人員絡みの事情で離れられないようだった。

 倖枝は、咲幸が当番から離れる時間を見計らって仕事から抜け出してきた。咲幸が離れるまで待ちたいところだが、現在は仕事の合間なので、あまり長居は出来なかった。


「わたし、咲幸のクラスのカレー食べてくるけど……よろしければ、ご一緒しませんか?」


 腕時計に目を落とすと、舞夜から顔を覗き込まれた。近くに現れた顔に、倖枝は静かに驚いた。


「ママも食べておいでよ。一緒に回れないなら、サユの作ったカレー食べてから帰って欲しいな。まだお腹に入るでしょ?」


 咲幸からも、そのように提案された。一緒に回ることを諦めたうえでの、妥協だろう。

 タコ焼き一皿だけではまだ空腹だった。それに、残りの時間で咲幸に関すること触れるには、確かに最善だろう。


「それじゃあ、そうしようかしら……。一緒に行けないのは残念だけど、さっちゃんのクラス覗いてくるわね。舞夜ちゃん、お願い出来る?」

「ママのこと、よろしくね」

「任せておいて。……あっちです。行きましょう」


 淋しげな笑みを浮かべている咲幸から、倖枝は舞夜と一緒に離れた。


「……お気遣いどーも」

「あら? 何のことですか?」


 昇降口に差し掛かり、咲幸から充分に距離を取った後、倖枝はぽつりと漏らした。

 時間に関してわざとらしい素振りを見せたつもりだが、咲幸ではなく舞夜に拾われたのは想定外だった。

 この子のことだから、どうせ何か狙いがあってのことだろう。倖枝はそう思いながら、スリッパに履き替え校舎に入った。

 舞夜と並んで廊下を歩いていると、断りも無く、隣から手に指を絡められた。


「ちょっと――何してるのよ!?」


 倖枝は驚きを必死に隠しながら、小声で言った。周囲に生徒や来客が居るので、表情も平常を装った。


「母娘で手を繋いで歩くのは、全然不自然じゃないですよ」


 表情は見えないが、舞夜の声は楽しそうな笑みを含んでいた。

 きっと、からかっているつもりだろう。またこの子のペースに飲まれたと、倖枝は思った。


「私なんかじゃ、あんたに全然釣り合わないわよ。本当に母娘だって勘違いされたら、どうするのよ?」


 一部とはいえ、舞夜とこうして身体を重ねることは嫌では無かった。手のひらから、かつてのロジーナ・レッカーマウルの温もりが伝わっていた。

 しかし、面前だと話は違った。擬似的な母娘遊びも、ふたりだけの秘密という契約はなしのはずだった。


「……勘違いすればいいじゃないですか。本当の母娘に見られるなら、わたしは嬉しいですけど」


 言葉は皮肉のように聞こえた。しかし、力強く握る舞夜の手が、それを否定しているように感じた。

 校内の有名人なだけあり、舞夜は廊下を歩いているだけで、他の生徒から視線を集めた。それどころか、上品な雰囲気と美人な容姿から、来客の一般人達も振り返っていた。

 そして、彼女の保護者はどのような人物なのか――視線はそのまま、倖枝にも向けられた。若く見られることの羨望よりも、若すぎる事情への哀憐が含まれていた。


 いつものことだった。咲幸と歩く時も、こうだった。

 それでも、倖枝はこの視線に慣れることがなかった。現在も、とても居心地が悪かった。

 見知った顔は、校舎外の風見波瑠以外には、おそらく居ない。怯える心配は無いが、だからこそ勘違いを恐れた。


「わたしのお母さんに見られること、嬉しくないんですか?」

「私は嫌よ」


 勘違い――それは即ち、咲幸との母娘関係を否定されることになる。いや、咲幸と舞夜を並べるわけでもなく、外野達はそもそも咲幸を認知していない。それすら無く、この姿が各々に刻み込まれるのは否定ですらないのかもしれない。


「……安心してください。大方、社長秘書か家庭教師と思われてるでしょうから」


 淡々とした声だった。この少女がどのような気持ちなのか、倖枝には分からなかった。

 舞夜の挙げたふたつは、倖枝には馴染みの無い言葉だった。月城家には実際に、そういう人間が居るのだろう。学校行事に親代わりの保護者として訪れていたとしても、おかしくないと思った。

 親と保護者は似たようで、確かに違った。案内状で保護者として名乗った倖枝自身が、よく分かっていた。

 血縁が無くとも、保護者は名乗れる。ただし、社長秘書や家庭教師のように、相応の地位や責任能力が求められる。


「そんな立派な人間ものじゃないわよ……」


 いくらスーツで身を整えているとはいえ、娘を私立の学校に通わせる学費を稼いでいるとはいえ――倖枝はこれまでの経験から、阿漕な商売をしていると自負していた。同業者全員が同じではないだろうが、少なくとも倖枝は客のためではなく、自己利益のためだけに仕事をしてきた。

 周囲に比べいい加減な人間だと、この学校では特に実感した。保護者を名乗る資格すら無いと思った。自己嫌悪に拍車がかかった。

 ――現在もなお頭の中は、こうして手を繋いでいる『いい女』と性行為をしたいと思っているのだから。


 倖枝自身、わからなかった。

 舞夜と恋人として上手くいくことが咲幸にとっての幸せなのだと、理解はしている。そう願おうとしている。

 しかし実際は、それを望んでいなかった。だから、風見波瑠にあのような根回しをした。

 舞夜との契約もそうだった。小娘に弄ばれるのは嫌なはずなのに、何らかの接点が生まれたことを好機と捉えていた。

 月城舞夜ではなく――ロジーナ・レッカーマウルと、もう一度繋がりたいと思っていた。だが、母娘として接する契約が、かろうじてその気持ちを阻止していた。

 倖枝は、ふたりの少女に挟まれた状況と、そのうえで自分が何をしたいのか、わからなかった。


「というか、そういう風に見られてる感じしないんだけど……」


 注がれる視線に、そのような感触は無かった。どちらかというと『月城の夫人』からの期待外れの落胆が強かった。


「そうですか――お母さん」


 倖枝はふと隣を見ると、舞夜がにんまりと笑みを浮かべ、こちらを眺めていた。そして、嬉しそうに繋いだ手を振り動かした。幼い子供のような一面もあるんだなと、可愛かった。

 そして、彼女にとっての本当の『保護者』が訪れる気配が無いのだと気づいた。月城住建の社長である父親は多忙なのだと理解するが、なんだか寂しかった。

 舞夜がどういう意図であの契約を提案したのか、倖枝にはこれも分からなかった。

 何にせよ、現在の自分は彼女にとって仮初の保護者だと思った。

 ――咲幸にとっての間柄と何が違うのか、疑問だった。

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