第010話(後)
「ここです」
しばらく歩き、校舎の二階にある咲幸の教室に着いた。
窓には『カレー』と書かれた紙が貼られていた。倖枝は、舞夜と入った。
並べた机にクロスが敷かれ、レストランを模したような内装だった。
メニューはカレーライス一品のみだった。おそらくは作り置きだろう。客を待たせることも会計に手間取ることも無いので、文化祭としては理に適っていると倖枝は思った。
入口で代金を払い、ふたり掛けのテーブルに舞夜と向かい合って座った。しばらくして、紙容器に盛られたカレーライスが運ばれてきた。
「あ……。とっても美味しいですね」
口元を抑えながら、舞夜が感想を漏らした。満足そうな表情なので、世辞では無さそうだった。
「これ、ウチの味なんだけど」
一口食べて、倖枝は思った。
幼少の頃より食べていた、母の味だった。市販のカレーのルウを使用した一般的なものに――倖枝は知らないが、隠し味にウスターソース、生姜、にんにく、味噌、焼肉のタレ、インスタントココアを加えたものだった。
本来ならば倖枝が母から継承する味だが、倖枝を飛ばして孫である咲幸に渡った。自宅で咲幸が作るカレーは、親しんだこの味だった。
「そういえば、咲幸が仕切って作ってました……。へー、これが嬉野家のカレーなんですね。倖枝さんが作っても、この味なんですか?」
「私はレシピ知らないし、そもそも料理なんて全然出来ないわよ。いっつも、さっちゃんが作ってくれてるから」
「……本当にダメな母親なんですね」
「うるさいわね」
舞夜がニヤニヤと笑っていた。
おそらく、この子も料理は出来ない――というより、家庭によって味の違ってくるカレーに、月城家の味はあるのだろうかと、倖枝は疑問だった。しかし、母親が居ない現状では、それに触れるのはやめておいた。
目の前で魔女の格好をした少女がカレーを食べているのは、奇妙な光景だった。ふと教室を見渡すと、昼食時であるため、混んでいた。食べ慣れた味のカレーも、この場所だからか新鮮に感じた。
教室だけではない。学校中が生徒と来客で賑わい、まさに文化祭という雰囲気だった。
三十四歳の倖枝にとっては、懐かしいものでも無かった。
倖枝は、高校時代に文化祭に参加したことが無かった。それまでに退学していたのだった。
だから、妬みと――退学に至った行動への後悔が、入り混じっていた。
「私、学校に良い思い出無いから……こういうお祭りムード、苦手なのよ」
その結果、舞夜に
口が裂けても咲幸には言えないことだった。他人にだからこそ、正直に話せた。
「……わたしも、賑やかなのはあまり好きじゃありません」
舞夜がプラスチックスプーンを一度止め、ぽつりと言った。
「好きじゃなくても、あんたはもうちょっと参加しなさい――高校生活は現在しかないのよ?」
倖枝は別に、同意が欲しいわけではなかった。弱音を聞いて貰えるだけで良かった。
舞夜が文化祭の準備から逃げていたのは知っていた。挙げ句、こうして看板を掲げて宣伝に回っているということは、クラス内でも浮いているのだろう。家柄が足枷になっているのかもしれないが、舞夜本人からも積極性を感じられなかった。
「お説教、ありがとうございます」
舞夜は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
年長者の話を聞いている様子は無かったので、倖枝は呆れた。
「倖枝さん、まだ時間ありますか?」
ふたり共カレーを食べ終えた頃、舞夜から訊ねられた。腕時計を見ると、もうそろそろ学校を離れないといけない時間だった。
「うーん……。あとちょっとならね」
「それじゃあ、行きましょう。倖枝さんに見て貰いたいものがあります」
咲幸のクラスを出た後、舞夜に腕を掴まれ歩いた。
「言っとくけど、あんたのクラスの出し物は結構よ」
「あんなの、どうでもいいです」
舞夜の言う通り、おばけやしきのクラスを素通りした。倖枝は幽霊の類が苦手というわけではないが、安い仕掛けで驚かされるのがくだらなくて嫌だった。
やがて、舞夜に連れて行かれた先は、校舎の隅にある書道室だった。
誰も居ない部屋だった。何か文化祭の出し物があるわけでもなく、部屋の明かりも点いていなかった。
「これ、見てください。先生に褒められると、ここに貼って貰えるんです」
舞夜は、部屋の後ろにある掲示板を指さした。
倖枝は眺めると、いくつか貼られている毛筆作品の中で、確かに月城舞夜のものがあった。まるで蛇のように達筆な字のため、何が書かれているのか理解できないが。
「うん……。よくわかんないけど、凄いんじゃない?」
とはいえ、上手いか下手かで言うと前者だと、倖枝の感性は捉えた。それ以上の感想は出なかったが、他にも強いて挙げるなら、書道が上手いのは令嬢としての嗜みだと思った。
「ふふっ。ありがとうございます」
舞夜が嬉しそうに微笑んだ。年相応の、実に子供らしい笑顔だった。
そして、三角帽を脱ぎ、頭を差し出された。
「ほら。ここなら誰も居ませんよ」
「え――なに?」
人気の無い薄暗い教室で、ふたりきり。誘うような台詞から、倖枝の連想したものはひとつだけだった。
学校という場所での背徳感を覚えながら――倖枝は舞夜の小さな唇にキスをしようとした。
「何しようとしてるんですか……。お母さんは、娘の頭を撫でて褒めるものですよ?」
しかし、舞夜から呆れるような半眼の視線を送られた。
倖枝はようやく、舞夜の意図を理解した。
「これでいいの?」
乗り気では無く、言われるままに舞夜の頭を撫でた。
絹のような黒髪に久々に触れ、倖枝の中で疼くものがあるが、我慢した。
「よく出来ました……。お母さんには、ご褒美をあげましょう」
その言葉と共に、倖枝は舞夜から頬にキスをされた。頬に唇が触れることないジェスチャーは、まるで海外ドラマで見る挨拶のようだった。
「どうしました?」
「……なんでもない」
倖枝にとっては、寸止めの生殺しだった。
それを理解しているのか、藍色の瞳が小悪魔のように笑っていた。
用は済んだ。倖枝は落ち込みながらもこの場を離れようとするが――舞夜からスーツの裾を引っ張られた。
「写真、いいんですか? お母さんなら、娘の頑張るところを撮りますよね?」
舞夜が、掲示板を指さしていた。
言われてみれば、母の行動としてはそれが正しいと倖枝は思った。舞夜の作品を、倖枝は携帯電話のカメラで渋々収めた。後で観ることがあるのか、わからないが。
「それじゃあ、そろそろ帰るわ」
「お仕事、ご苦労さまです。また会いましょうね――お母さん」
書道室から廊下に出て、舞夜と別れた。魔女の格好をした少女は看板を持ち、人混みに消えていった。
特に約束はしていないが、また近い内に会えそうな予感が、倖枝にはあった。
携帯電話に、咲幸からの連絡は無かった。もし合流可能なら、連絡があると思った。
倖枝は校舎から出て屋台を覗くと、咲幸はまだタコ焼きを作っていた。
「さっちゃん、カレー御馳走さま。美味しかったわ」
家の味だったけどねと付け加え、倖枝は微笑んだ。
「ママ! それは良かったよ! ……もう帰るの? お腹いっぱいになった?」
「うん。
「来てくれて、ありがとう! お仕事、頑張ってね!」
実の娘と回れなかったのは名残惜しいが、咲幸から拗ねることなく見送られた。
倖枝はその場から離れようとして――ふと思い立ち、携帯電話のカメラを咲幸に向けた。
何も言わずとも、それに気づいた咲幸が満面の笑みを浮かべた。倖枝はそれに焦点を合わせ、シャッターを押した。
携帯電話に保存されている写真一覧を眺めながら、校門を抜けた。
物件やメモ代わりの資料等――仕事関係の写真がずらりと並ぶ中、よくわからない書道作品と娘の笑顔が、最後にあった。
思えば、咲幸の写真を撮ることは滅多に無かった。学校での一枚はとても満足であり、倖枝は待ち受け画面に設定した。
これが撮れただけでも、保護者としてわざわざ来て良かったと、初めて思った。
(第04章『保護者』 完)
次回 第05章『海月』
咲幸と舞夜のデートに、倖枝は同行する。
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