第05章『海月』
第011話
十一月二十一日、月曜日。
仕事を終え午後九時頃、倖枝は街外れのバー『NACHT』の扉を開けた。
入口でまず目を向けたのが、カウンター席だった。真っ赤なドレスを着た女性の姿は、今夜は無かった。
「バイオレットフィズ」
倖枝はカウンター席にひとり座ると、バーテンダーの男性に注文した。
服装が何であれ、ロジーナ・レッカーマウルはこの店に居なかった。今夜は平和に飲めると、安心した。
しかし、倖枝は――この席でふたりで飲んだことが、忘れられなかった。隣に座っていた彼女の影を、無意識に追い求めていた。
しばらくすると、紫色の飲み物が入ったグラスが差し出された。
見た目はよくないが、菫の良い香りがした。口にすると、甘い味わいに続き、添えられたスライスレモンの酸味が後を引いた。
――週末、ここに来れば会えるかもしれないと、微かな期待を抱いていたのだった。
所詮は、あの一回のみ。よくわからない目的のために待ち伏せていたのだと、冷静に考えれば気づいたはずだ。
バカだなと自嘲しながら、倖枝は甘酸っぱい酒をひとりで楽しんだ。
ふと、携帯電話を取り出した。
メッセージアプリの『ロジーナ』を開くが、やはりまだ空白のままだった。お互い、一度もメッセージのやり取りが無かった。
倖枝はメッセージアプリを閉じると、次は電話に指が伸びた。連絡先の画面をスクロールし『須藤寧々』を開いた。
あとは通話ボタンを押すだけだが――今頃は子供を寝かせつけているのだろうと思うと、押せなかった。
「ずるい人……」
十六年前、この店に連れてきてくれたのは貴方なのに――
寂しさを他人の責任にすることは簡単だった。孤独を認めることは、とても難しかった。
しかし、認めなくとも啄まれていた。隣に誰も居ない現状は、どうにもならなかった。
倖枝は横目で店内を見るが、一晩限りの『その場凌ぎ』になりそうな『人肌』は無かった。いや、もし有るにしても、近づいて声をかけるような気分ではなかった。
擦り減った心では、悪酔いすら出来なかった。
不味い酒を飲み干すことはなかった。倖枝は会計を済ませると、店を後にした。
タクシーで自宅近くのコンビニで降り、缶ビールとスナック菓子とサラダとインスタント味噌汁を購入した。
帰宅したのは午後十時過ぎだった。
「ママ、おかえり! 水曜日、空いてる!?」
リビングに入るなり、テレビを観ていた咲幸が慌ててソファーから立ち上がった。
倖枝は沈んだ表情を慌てて素面に替え、コンビニのビニール袋をテーブルに置いた。
「あれ? 夕飯まだだったの?」
「うん……ちょっとね……。それで、どうかした?」
憂鬱な気分も強引に切り替えながら、スーツのジャケットを脱いだ。遅い夕飯よりも、先に風呂に入りたかった。
「そうそう。今度の水曜、休みじゃん?」
明後日の二十三日――何の日かは忘れたが、祝日であることを倖枝は覚えていた。営業職の休日と重なる、珍しい日であった。
「母さん特に予定は無いけど、どうしたの?」
「舞夜ちゃんとデートするから、
「はい?」
全く予想していなかった要望が出てきたため、倖枝は口をぽかんと開いた。
言葉の意味は理解出来たが、どう答えるべきなのか、思考が追いつかなかった。
「いや……。電車使いなさいよ」
少し悩んだ後、倖枝は肯定でも否定でもなく、他の選択肢を提示した。常識的に考えて、どんなかたちであれデートに親が干渉すべきではないと思った。
――正直なところ、嫌だった。咲幸と舞夜が恋人としてデートしている光景を、見たくなかった。
「えー。電車で行っても、駅から遠いんだもん」
「……ちなみに、どこに行くつもりなの?」
「うーんとね……あそこの水族館」
咲幸の言う場所に倖枝は行ったことが無かったが、およその地理は理解していた。確かに、電車で降りた後にバスでの移動が必要だった。
電車よりも自動車を使用する方が確かに合理的だと、納得した。
「車なら、舞夜ちゃんに出して貰えばいいんじゃないの? 月城さんのとこなら、そういうの全然不自由しないでしょ?」
倖枝の勝手な想像だが、運転手付きリムジンでも手配して貰えそうだった。
それほど豪華なものではないにしても、自動車を出す余裕なら間違いなくあるはずだった。舞夜が敢えて出し惜しんでいるのではないかと、倖枝は疑った。
「サユそういうの苦手だし緊張もするから、ママにお願いしてるの!」
娘としては、見知らぬ運転手が出てくるのが嫌らしい。倖枝は理解できるが、そういう子と付き合ってるんだから慣れるしかないんじゃないかと思った。
どうやら、その理由で咲幸自らが提案しているようだった。舞夜の意思は分からなかった。
「わかったわよ……。今回だけだからね」
他に断る理由が見つからないので、倖枝は渋々頷いた。早く話を切り上げて、風呂に入りたいという気持ちもあった。
「本当!? ママ、ありがとう! 舞夜ちゃんに連絡するね!」
ソファーに座り笑顔で携帯電話に触る咲幸を眺め、倖枝は風呂に入った。
二十分ほど湯船に浸かった。風呂から上がると、髪にトリートメントを付け、一度タオルで包み込んだ。
身体が温もったせいか眠気に襲われたが、空腹も限界だった。
「ママ、どうしよう!?」
冷蔵庫の前で缶ビールを開けて一口つけたところ、咲幸が自室から慌てた様子で飛び出してきた。
「デートに着ていく服が無いよ!」
「……」
次はそれかと、倖枝は缶ビールを片手に呆れた。
倖枝は自室に行き、財布から一万円札を一枚取り出すと、不安そうな表情の咲幸に渡した。
「まだ時間あるんだから、明日の帰りに買ってらっしゃい」
「えー。服のことなんて知らないから、ママ一緒に来てよ。明日休みでしょ?」
「若い子のファッションなんて、わかんないわよ。波瑠ちゃんにでもお願いしたら?」
的確な助言は無理にしろ、服装を一緒に悩むぐらいなら倖枝にも出来た。しかし、倖枝は適当に断った。
倖枝に自覚は無かったが、ひとりきりの長風呂で、バーでの暗い気分を思い出していたのだった。だから、投げやりになっていた。
「もー。髪もこんなのだし、最悪!」
咲幸が、肩に乗っている髪の毛先をつまんだ。縮毛矯正の効果はもうほとんど無く、無造作に広がっていた。髪自体も、とても十代とは思えないほどに傷んでいた。
「だから言ってるじゃない、縮毛のケアはちゃんとしなさいって。これに懲りたら、サボらないでちゃんとやりなさい」
倖枝は、タオルを巻いている自分の頭を指さした。自分の髪質は、娘にしっかりと遺伝していた。
しかし、咲幸は面倒がってトリートメントをろくに付けず、風呂上がりにすぐブローしていた。
「うん……。これからは、そうするよ」
倖枝には、しゅんと俯く咲幸が、流石に可哀想に見えた。実際に痛い目を見て、反省しているようだった。
「現在から明日の美容室の予約は無理だけど……いつもみたいにポニーテールにまとめるか、母さんが編み込んであげるから。髪型のことも考えて、服買ってらっしゃい」
これがせめてもの手助けだった。
倖枝もまた、幼少より癖毛で悩んでいたので、暫定的な対処法をいくつか知っていた。
「ありがとう! でも、そこまで言うなら明日一緒に来ても――」
「それとこれとは別。さあ、明日の準備して、もう寝なさい」
「はーい。おやすみ、ママ」
咲幸が自室に戻るのを確かめると、倖枝はテレビの音量を下げ、リビングで晩酌を始めた。
服装や髪を娘に諭し、母親らしい一面を少し見せることが出来たと、少し満足げだった――この時は。
*
十一月二十二日、火曜日。
倖枝は午前九時過ぎに起きると、遅い朝食を摂った。そして、洗濯機を動かしている間、散歩がてら職場まで愛車を取りに行こうとした。
ふと、玄関の鏡に映った自分の姿が目に入った。
チュニックとテーパードパンツ、そして綿ジャケット。近所に買い物に行く程度なら、充分すぎる格好だった。しかし――
倖枝は玄関でパンプスを脱ぐと、自室に戻ってクローゼットを開けた。
「明日、どうしよ……」
デートの当事者でないことは理解している。あくまでも、ただの運転手だ。
それでも、流石にこのようなラフな格好でレジャー施設に行くのは、なんだか気が引けた。
しかし、クローゼットには、仕事用のスーツとブラウスばかりが並んでいた。休日は買い物に出かける程度であり、咲幸とどこかに遊びに行くこともほとんど無いので――俗に言う『よそ行き』の私服が無かった。いや、私服自体を購入することも滅多に無かった。
昨晩、咲幸に偉そうに言っておきながら、自分も同じだった。
倖枝は職場まで歩いて自動車を回収すると、その足で駅前のショッピングモールに向かった。
平日の午前、空いている時間帯に――倖枝は久々に、衣服を購入した。最近の流行が分からないため、マネキンのコーディネートを参考にした。
こんなことなら、咲幸に誘われた通り一緒に来ればよかったと、後悔した。
しかし、昨晩の手前、こうして衣服の買い物に行ったことを咲幸には言えなかった。帰宅後すぐ、購入した衣服をクローゼットに仕舞い、ショップバッグを隠した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます