第012話(前)

 十一月二十三日、水曜日。

 午前八時頃、倖枝は洗面と化粧を済ませ、昨日購入した衣服を着た。

 ネイビーのニットにベージュのギャザースカート、そしてブラウンのミニチェックジャコットを羽織った。歳相応のカジュアルな格好のつもりだった。


「さっちゃん、準備できた?」

「うん。お待たせ」


 リビングで待っていると、咲幸が自室から姿を現した。

 白い大きめのフード付きパーカーに、キャメルのショートパンツ。大胆に露出した素脚は細く筋肉質であり、長距離ランナーらしいものだった。


「似合ってるけど……寒くない? タイツ履いたら?」

「大丈夫だよ。ヘーキヘーキ!」


 十一月も下旬であり、季節は秋から冬へと移ろうとしていた。

 倖枝は見ているだけで寒さが伝わりそうだが、咲幸は我慢している様子も無かった。我が娘ながら同性として憧れる脚であるため、見せたい気持ちは理解できた。


「こっちおいで。髪、伸ばしてあげる」


 手に白いキャップを持った咲幸を、ソファーに座らせた。

 倖枝はヘアアイロンで、咲幸の癖毛をなるべく伸ばした。


「近い内に、美容室行ってきなさいよ」

「うん。ママみたいに、ちゃんとケアするよ」


 こうして熱を加えて乾燥させることは縮毛によくないと、倖枝は聞いたことがあった。やらないよりマシといった効果であり、さらにどの程度保つのかは分からなかった。あくまでも、応急処置に過ぎなかった。

 伸ばした後、ポニーテールに結ぶと、咲幸はキャップを被った。


「さっちゃんも、そろそろメイク覚えないとね」


 いくら明るいボーイッシュな格好とはいえ、化粧をすればより可愛くなると、倖枝は思った。


「折角だからやってよ」

「母さんの手持ちじゃ出来ないわよ。ちゃんと、ティーン向けのコスメ買ってらっしゃい」

「はーい。その時は、教えてね」

「ええ……」


 化粧は母が教えるものなのかな? 自分の場合はどうだったかな?

 倖枝はぼんやりと記憶を辿るが、思い出せなかった。何にせよ、色気の無い娘をそろそろ何とかしなければと思った。


「それじゃあ、そろそろ出ようか」


 咲幸とふたり自動車に乗り、駅へと向かった。

 折角の自動車だから舞夜を自宅まで迎えに行くことも可能だったが、わざわざ駅まで出てくるとのことだった。倖枝としても、舞夜以外の月城の人間とはあまり関わりたくないので、助かった。


 駅の一般車乗り降り口近くに、長い黒髪の少女が立っていた。ベージュのフリルブラウスに、ワインレッドのフリルスカート、黒色のタイツ。そしてチャコールのコートを纏い、可愛いハンドバッグを握っていた。

 倖枝の一目見た感想としては、男受けが良さそう、だった。それは同時に、同性として近づきたくない、も意味した。そういう雰囲気だった。


「さっちゃんの彼女……可愛いわね」

「うん!」


 皮肉のつもりで言ったが、後部座席の咲幸には伝わらなかった。

 倖枝はハザードランプを点けて停車した。フロントガラスから冷ややかな目で眺めていたからか、月城舞夜はそれに気づき、振り返った。


「舞夜ちゃん、おはよう!」

「おはよう、咲幸。……おばさんも、わざわざありがとうございます」


 舞夜は行儀よく頭を下げた後、後部座席に乗り込んだ。

 おばさん、か――よそよそしい態度だと、倖枝は思った。

 こうして会うのは、文化祭以来だった。しかし、ふたりきりで過ごした時間は無かったような様子だった。

 倖枝の知る中では、ロジーナ・レッカーマウルとまるで別人だった。大人びた格好が似合うことを知っているからこそ、子供っぽい服装は不自然だとさえ感じた。

 擬似的な母娘関係は、あくまでもふたりだけの秘密の契約だが――そう割り切っても、なんだか寂しかった。


「出すから、シートベルトしてね」

「はい。わかりました」


 舞夜のシートベルトの装着を確認すると、倖枝はハザードランプを解除して自動車を走らせた。

 ふとルームミラーを見ると、後部座席の丁度真ん中に、ふたりの繋いだ手が置かれていた。

 舞夜の微笑む表情は、咲幸に向けられていた。

 咲幸の表情を確かめることなく、倖枝は視線を前方に戻した。


「それで――どうして水族館なの? この時期に」


 運転をしながら、後ろのふたりに訊ねた。

 なんとなく運転手を引き受けたが、秋に水族館はなんだか季節外れだと思っていた。紅葉の散歩や美術館なら、まだ理解できるが。


「この時期だからですよ」

「舞夜ちゃんがね、クラゲ好きだから観に行くの」

「クラゲ?」

「クラゲって、漢字だと海の月って書くじゃないですか。だから今、クラゲのお月見イベントやってるんですよ」

「へ、へぇ……」


 舞夜が珍しく少し興奮気味なので、クラゲが好きというのはおそらく本当だろう。

 しかし、倖枝にはクラゲの良さも、秋の名月としてクラゲが出てくることも、理解できなかった。というより、もう十一月も終わりで月見の時期でもないんじゃないかと思ったが、口にはしなかった。


「クラゲもだけど、サユはイルカのショー観たいな」

「濡れない席に座りましょ」

「えー。濡れたっていいじゃん。時間はと――」


 後ろのふたりは携帯電話でスケジュールの確認をしていた。

 特に、咲幸が楽しそうな笑顔を浮かべていた。おそらく、この水族館へは初めて行くだろう。少なくとも、倖枝が連れて行ったことは無かった。

 水族館に限らず、咲幸を遊びに連れて行くことはほとんど無かった。娘のこのような笑顔を見られるなら――デートの同行とはいえ、母として一緒に行けて良かったと倖枝は思った。


「ママは濡れたっていいよね?」

「母さんぐらいの歳になると、そういうの楽しめるテンションにならないから、勘弁して……」


 もっとも、倖枝本人が楽しめるかは別だが。


 途中、ハンバーガーショップで朝食を摂り、しばらくして海が見えた。駅から運転すること、約一時間半ほどが経っていた。

 海に面した大きな水族館の屋外駐車場は、既に半分ほどが埋まっていた。天気の良い日ではあるが、予想外に客が居ることに倖枝は驚いた。皆、クラゲを観に来たのだろうかと思った。

 三人揃って車を降り、入口へと向かった。


「運転してくれたんで……わたしが出しますよ」


 チケットカウンターで、舞夜がハンドバッグから財布を出そうとした。


「お気遣い、ありがとう。でも、そうね……あと十年ぐらいしたら、出して貰おうかしら。大事なお小遣いは、取っておきなさい」


 しかし、倖枝は引きつった笑みでそれを制した。

 自分にとっても舞夜にとっても、チケット代程度が痛手ではないことは分かっていた。それでも、娘と同い年の少女には一円たりとも金銭を頼りたくなかった。ひとりの大人として、守らなければいけない自尊心があった。


「ありがとうございます、おばさん」


 倖枝がチケットを三枚買うと、舞夜は微笑んでお辞儀した。

 良心で代金を出そうとしてのか、それとも嫌がらせなのか、倖枝には分からなかった。


 入口を抜けるとすぐ、端から端まで目で追えないほどの大きな水槽に、大小様々な魚が泳いでいた。


「うわぁ……。凄いね!」


 咲幸が、目を輝かせて見渡していた。

 倖枝としても、圧巻の光景に素直に見惚れた。水族館と聞いてあまり乗り気では無かったが、ここまで足を運んだ甲斐があったと思った。


「……美味しそうって思ってるんですか?」


 はしゃぐ咲幸と少し離れたからか、隣で舞夜が小声を漏らした。


「うるさいわね……。ほら、さっちゃん、あれ絶対イワシよ」

「どれ? うっわ、めちゃめちゃ居るね!」


 倖枝には少なからず図星だった。水槽底のアンコウで肝の味を、輝きながら無数の群れでうねる魚で柔らかい煮物の感触を思い出した。

 咲幸と、主に料理の観点から魚の種類を確かめた。デートの付き添いだということを忘れるほど、母娘ふたりで盛り上がった。


 無数の水槽を抜けると、カワウソやペンギンやアザラシ等、可愛い海洋動物のコーナーだった。


「ぬいぐるみみたいで、ヤバい……」

「うん。可愛いね!」


 ペンギンの愛くるしい姿に、舞夜がにんまりと笑っていた。

 以前から偶に見せる幼い一面に、倖枝は可愛いと思った。

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