第012話(後)

 そこからさらにエスカレーターを下ると、目当てのクラゲコーナーだった。

 天井には、クラゲの傘を模した巨大なオブジェが広がっていた。中央には球体の水槽があり、ドーム状の部屋の壁には、いくつかの水槽があった。そのどれもに、様々なクラゲが入っていた。

 倖枝は月見イベントだと聞いていたが、特設ではなく、元よりクラゲを大々的に取り上げているようだった。珍しい水族館だと思った。


「へー。きれい……」


 咲幸が息を飲んだ。

 倖枝にも確かに、海中の月を彷彿とさせた。

 暗い部屋に青白い光が漂う空間は、とても幻想的だった。クラゲの展示というより、空間としてのひとつの芸術のようだった。


「あ……。ごめん、サユちょっとお手洗いに行ってくる」


 三人揃って、ぼんやりと立ち止まったからだろうか。咲幸がふと、思い出したように言った。


「慌てなくてもいいからね。……あそこで待ってるから」


 部屋の柱に円状のベンチがあり、倖枝はそれを指さした。


「うん、わかった。それじゃあ、行ってくるね」


 咲幸は再びエスカレーターに乗り、姿を消した。

 残された倖枝は言葉通り、舞夜と並んでベンチに腰掛けた。


「ほら……。あんた、これ観たかったんでしょ?」


 脚を組み、クラゲを眺めながら――つまらなさそうに言った。

 倖枝は内心では、この空間に浸っていた。ゼリー状の生物は魚類ということを――水の中を泳いでいることすら、忘れさせていた。ゆらゆらと揺れ動く影からは時間や音を忘れ、幻想的な癒やしを与えられていた。


「クラゲの寿命って、何年ぐらいだと思います?」


 ぽつりと呟くように、舞夜が訊ねた。


「さあ……。十年ぐらいじゃないの?」


 倖枝にしてみれば、何の脈絡もない唐突な質問だった。舞夜の表情を見ること無く、思った数字をそのまま口にした。


「そんなにも生きられませんよ。大体、二年ぐらいです……。でも、飼われてるクラゲはもっと短いでしょうね。せいぜい一年ぐらいでしょうか」


 思っていたよりも短いなと、倖枝は思った。

 そして、目の前の水槽で泳いでいるものが野生よりも短命だということが、疑問だった。狭い空間だが、餌を与えられ大切に扱われているはずだ。


「クラゲは本来、自分で泳ぐ生き物じゃないんですよ。潮の流れに乗って漂う生き物なんです。……でも、この水槽に水流なんてほとんど無い。沈むのを嫌がる特性なんで、こうして頑張って泳いでいるわけです」


 舞夜に言われて、確かにどのクラゲも上方向に傘を動かして泳いでいると、倖枝は気づいた。こうして意図的に泳がされているからこそ野生よりも短命なのだと、納得した。


「沈んでしまえばラクなのに……もがいて、もがいて、もがき苦しんで……本当、バカですよね」


 美しい展示の裏には、酷な事実があった。

 狭い水槽の中で飼われているクラゲは、本当に幸せなのだろうか? 倖枝は、そう思うが――


「……だから、クラゲが好きなの?」


 隣に座る舞夜を見た。

 儚げな表情で微笑みながら、クラゲの水槽を眺めていた。

 嘲笑うわけでも同情するわけでもなく――物淋しげな笑みだった。


「ええ。だって、ほら……綺麗じゃないですか」


 クラゲそのものなのか、それともクラゲの生き方なのか、どちらに対する言葉なのか倖枝には分からなかった。


「倖枝さんは、どっちですか?」


 舞夜がこちらを向いた。

 薄暗い空間の中、倖枝は藍色の瞳に自分の顔が見えた。何かに怯えるかのような表情だった。

 その場から逃げ出したい気持ちが込み上げるが、ベンチに置いていた左手に、舞夜から右手を重ねられた。

 小指には、黒猫の指輪が嵌っていなかった。


「どっちって――」


 その二択を、倖枝は理解していた。しかし、答えられなかった。

 手を重ねられたまま、舞夜から顔を覗き込まれた。

 答えが分からないことよりも――舞夜から名前で呼ばれたことに、現在気づいた。現在はふたりきりだが『お母さん』ではなかった。

 ふと、舞夜が手を離した。


「お待たせ! 戻ったよ!」


 そして、直後に背後から咲幸の声が聞こえた。きっと、咲幸が戻ってきたことを舞夜には見えたのだろうと、倖枝は理解した。


「さっちゃん……おかえりなさい」


 振り返って咲幸の姿を確かめると同時、倖枝は立ち上がった。


「母さん、ニコチン切れたから、ちょっと吸ってくるわね。ついでに、ひとりでブラブラしてくるから、何かあったらケータイに連絡して」


 そう言い残し、咲幸と入れ替わりで立ち去った。必死に、ふたりを気遣った風を装った。


 エスカレーターで上がると、そのまま屋外に出た。

 海に面したウッドデッキには飲食を含む売店が並び、休憩スペースの他――一番端に、喫煙スペースがあった。倖枝はそこまで歩くと、ベンチに腰を下ろした。加熱式煙草の電源を入れた。

 秋が終わろうとしていた。潮風は肌寒かった。


 周りに人がほとんど居ない一角で、倖枝は考える。

 ニコチンが切れたことも、ふたりに気遣って離れたのも、嘘だった。単純にあの場から逃げ出し、落ち着くために煙草を吸った。


 ――倖枝さんは、どっちですか?


 沈むのか、もがくのか。その二択を訊ねられていたのは明白だった。


 母として――クラゲのように、もがこうとはしていた。

 しかし、月城舞夜ロジーナとの出会いから、女として沈む一方だという自覚はあった。わざわざ今日の衣服を新調したことに、今更ながら呆れた。


 いや、もがいたところで何になるのだろう――水槽のクラゲを観て、倖枝はそう思った。狭い水槽から出られないように、ただの自己満足のような気がした。

 所詮は、あと数年。咲幸が高校を卒業して大学も卒業して社会人まで送り出せば、親としての最低限の責任は果たされる。そこまでの学費は充分に有る。

 たったそれだけのことに、意地を張る必要はあるのだろうか。

 馬鹿みたいにもがく必要は無い。楽に沈んでしまえばいい――


「……」


 倖枝は海の水平線をぼんやり眺めながら、加熱式の不味い煙草を吸っていた。

 今にでも泣き出したい気分だった。

 未婚の母としてやってきた十七年のいい加減な育児と、このまま待ち受けるだろう結末から――虚しさに包まれていた。

 一本吸い終わっても、立ち上がる気にはなれなかった。何もかもがどうでもよかった。


 しばらく呆けていると、ふと視界が暗くなった。


「だーれだ?」


 背後から娘の声が聞こえ、倖枝は視界を覆う手を退けた。


「もう……何してるのよ?」

「えへへっ」


 咲幸に背後から抱きつかれ、そして小動物のように頬を擦り合わされた。

 倖枝は不思議と、それが鬱陶しいとは思わなかった。


「舞夜ちゃんはどうしたの?」

「売店でクラゲのグッズ見てる」

「さっちゃんも一緒に行ってきなさいよ」

「そういうの面倒だし、よくわからないからパス」

「それでも、付き添うものなの――付き合ってるんだから」


 咲幸は笑顔だった。

 冗談を言っているようにも自分を気遣っているようにも、倖枝には見えなかった。自分に恋愛経験は無いに等しいが、娘には恋愛マナーを学んで欲しかった。


「ママ……。今日は連れてきてくれて、ありがとうね。サユ、とっても嬉しいよ」


 ぽつりと、咲幸が漏らした。


「なかなか休日やすみが合わないけどさ……また、ママと一緒にお出かけしたいな……。今度は、ふたりっきりで」

「さっちゃんもいい歳なんだから、そろそろ母さんから離れなさい。舞夜ちゃんが居るじゃない……」


 無責任な発言をしている自覚が、倖枝にはあった。

 親離れを促すのではなく、世話役を舞夜に丸投げしたに過ぎなかった。


「ううん……。ママは……サユの大切な人なんだもん」


 ぎゅっと――咲幸から、強く抱きしめられた。

 咲幸の振り絞ったような声は、倖枝にはとても弱々しく聞こえた。いつも明るく元気な娘なので、意外な一面であり、少し驚いた。


「もう……。さっちゃんは、いつまでも子供なんだから……」

「――子供じゃないよ」


 倖枝は茶化すが、咲幸がたった一言で否定した。拗ねるような声ではなく――重く深いトーンであった。


「あたしなりに、考えてるから」


 そして、苦笑しながらそう言った。

 倖枝はなんだか違和感を覚えるが、その正体が分からなかった。言葉の意味も、よく分からなかった。


「そ、そう……。母さん、ちょっとブラブラしてくるから、さっちゃんも舞夜ちゃんのところに戻りなさい」


 しかし、意味を訊ねなかった。

 倖枝は咲幸の腕を振りほどくと、立ち上がった。そして、逃げ出すようにその場から立ち去った。

 それからしばらく、館内をひとりで見て回った。冷めた気持ちで何かを思うわけでもなく、ただ時間を潰すことに専念した。


 咲幸と別れて、一時間ほど経った。倖枝は煙草を吸おうと、再びウッドデッキに出た。

 喫煙コーナーと丁度反対側――人気の無いベンチに、咲幸と舞夜が並んで座っていた。

 寄り添う姿は一見、仲の良い友達だろう。しかし実際は恋人として付き合っているのだと、倖枝は知っていた。

 ふたりとまだ会い辛いのは確かだが、そろそろ遅い昼食をと思った。館内に飲食店があり、もしくは帰路でどこかに寄るのも良かった。


「さっちゃ――」


 声をかけようとしたその時、ふたりの少女は見つめ合い、そして唇を合わせた。

 画になる光景だった。初々しい様子ではなかった。少なくとも、初めてのキスではないようだった。


 その場には、当事者のふたり以外は誰も居なかった。倖枝以外に目撃者が居なかったことが幸いだった。

 見てはいけない光景を見てしまったという自覚は、倖枝には無かった。

 ――見たくない光景だったのだ。

 ふたりを祝福しようとは思わなかった。それどころか、舞夜の相手が自分ならと、娘に嫉妬さえしていた。


 倖枝は、挙げようとした手を無気力気味に下ろした。嫌悪感に支配された頭で、かろうじて――この場から一度離れて仕切り直そうと、思考が働いた。

 ふたりに気づかれていないのなら、何も見ていない振りをするのが最善だった。


 しかし――顔を離した舞夜が咲幸を抱きしめながら、横目でこちらを見た。

 距離を開けて、倖枝は舞夜と目が合った。

 舞夜の瞳は、倖枝を嘲笑っていた。可愛い顔に似合わず、とても下劣に。



(第05章『海月』 完)


次回 第06章『人肌』

沈んだ気分の倖枝は、ある人物に慰めて貰う。

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