第06章『人肌』
第013話
十二月一日、木曜日。
倖枝にとっての一週間が始まったが、気分は憂鬱だった。理由はふたつあった。
ひとつは、御影邸。
倖枝は店に出勤してすぐ、店舗ウェブサイトのアクセス解析を確かめた。御影邸の物件紹介は、自分が扱った中でかつてないほどに閲覧されていた。
顧客プライバシーを保護するため、当然ながら月城の銘は出していない。建築主の月城住建は本来なら立派な売り文句になるが、紛らわしいので伏せていた。しかし、所在地と外観写真から、誰もが『月城の館』であると理解しているだろう。
続いてメールソフトを立ち上げると、御影邸の案内問い合わせが二件入っていた。
どちらも同業者であった。確かに四億九千八百万円というのは転売可能な売値であり、倖枝としても転売は歓迎だった。しかし、どちらの業者も会社規模から、そもそも買い取るだけの予算が無いことを倖枝は分かっていた。冷やかしですらなく、成約の望みは無いに等しい問い合わせだった。
閲覧こそあるものの、まともな反響がひとつも無い。倖枝の置かれた状況は最悪だった。御影歌夜には三ヶ月を目標に売却すると伝えているが、既に不安が押し寄せていた。
憂鬱な理由のもうひとつは、先週同行した咲幸と舞夜のデートだった。
舞夜と咲幸のキス、そして咲幸を抱きしめて嘲笑う舞夜の瞳が、現在も倖枝の頭に焼き付いて離れなかった。もう一週間経つが、まだ胸が苦しかった。
あれからすぐ期末試験の準備期間に入り、現在は試験期間だった。そのため、舞夜と会うことも無かった。
会えないことが喜ばしいのか、寂しいのか――それすらも、倖枝は分からなかった。どうしようもない苦しみを、ひとりで抱え込んでいた。
「嬉野さん……店長!」
名前を呼ばれ、倖枝は我に返った。開店早々、店長席でぼんやりしていた。
春名夢子が自分の席で、鞄を抱えて呆れていた。
「な、なに? どうしたの、春名」
「リフォームの打ち合わせあるんで、行ってきます。あと、その脚で銀行にも寄るんで……昼過ぎには帰ります」
倖枝は、夢子が預かっている案件を思い出した。中古戸建ての売却は既に買主が見つかり、リフォーム費用を含めた最終的な金額を算出する段階だった。
「今日の打ち合わせに買主さん来る?」
「来ませんよ。社長と施工出来るかを確認するだけなんで」
夢子はスーツのポケットから、物件の鍵を取り出して見せた。
「私も連れてって――銀行に用あるから」
「……わかりました。行きましょう」
自分の自動車の鍵を渡すと、夢子は眠そうな表情で受け取った。
倖枝は助手席に乗ると、夢子が自動車を走らせた。
銀行に用があるというのは、嘘では無かった。しかし、主な目的は――
二十分ほど走ると、住宅地の一角にある目的地に着いた。空き家となっている戸建て住宅の前には、赤いトールワゴン型の軽自動車が停まっていた。この国で最も売れているその自動車は、以前より倖枝にファミリーカーのイメージを与えていた。
夢子は、軽自動車の後ろに停めた。
倖枝は降りると、軽自動車からもひとりの女性が降りた。
「社長、久しぶり」
「あれ? 店長も一緒なの? 久々じゃん」
ウェーブパーマの前髪無しショートヘアは片側をかきあげて、大きなイヤリングが揺れているのが見えた。小さなオーバル眼鏡は知的な雰囲気を出していた。そして、ベージュのニットに白いワイドパンツ、ブラウンのチェスターコートは柔らかな清楚な格好だった。
有限会社須藤工務店の社長、
「ちょっと見学にね」
倖枝は、引きずっていた暗い気持ちがぱっと明るくなったのを感じた。
そう。夢子に付いてきた主な理由は、寧々に会うためであった。
店長に就任して以降は、仕事で会う機会は減り――仕事以外で個人的に、不定期に会っていた。しかし、ここ一ヶ月近く会っていなかった。
「社長、お世話になります。早速、見て貰いたいんですが――」
夢子が自動車から降り、玄関の扉を開けた。
「へぇ。まだ綺麗じゃん。余裕で住めるのに、それでもリフォームするんだね」
三人で中に入るとすぐ、寧々が感想を漏らした。
二階建ての空き家だが、所々に家具の置かれた形跡があった。前住人の『使用感』はその程度であり、特に大きく傷んだ箇所は無かった。
倖枝も、どちらかというと真新しさを覚えた。ハウスクリーニングと玄関の鍵交換程度で充分だと思った。
「春名、ここ築十五年ぐらい?」
「十三年ですね。旦那の転勤で売ることになった感じです」
「リフォームなんて勿体ないと思うけどねぇ」
「社長がそれ言っちゃう?」
「ていうか、私に言わせたら中古はどうかと思うよ。いくら
「違いないです。それでも、需要と供給があるから私達が食べていけるわけで……」
一般客にはとても聞かせられない会話だと、倖枝は思った。
三人で笑いながら、キッチンへと向かった。
寧々はメジャーでステンレス製シンクの長さを測り、水管の位置を把握すると、タブレットパソコンでカタログを確かめた。
画面には、人造大理石シンクが映っていた。買主が希望しているものだと、倖枝は理解した。
「春名ちゃん、大丈夫。取替出来るよ」
「よかったです。あとは、全室クロス貼り替えて、キッチンと洗面所をフッ素コーティングして――浴槽の交換ですね。どうも、中古の浴槽使うのが気持ち悪いみたいで」
「言わんとしてること、わからなくはないけど……本当に勿体ないね」
「ちなみに、トイレは替えないの?」
「それは大丈夫みたいです」
倖枝には、買主の交換基準がよく分からなかった。
その後、家中を見て回った。買主の要望に応えられることを確認すると、玄関に戻った。
「社長、ありがとうございました。工賃と納期は見積もり通りでいいですか?」
「うん。あれで大丈夫」
「了解です。進めておきますね」
夢子は、バインダーに挟んだ見積書にボールペンを走らせた。
これで最終的な金額を買主に提示できると同時、ここでの用事は済んだことを倖枝は理解した。
「春名……ちょっと社長と話すことあるから、先に車に戻っておいて」
「……わかりました」
眠そうな瞳を一度向けられた後、玄関の鍵を渡され、夢子が玄関から立ち去った。
バタン、と――扉が閉まったことを確認すると、倖枝は寧々の手を引いてリビングへと向かった。
シャッターの閉まったリビングは外からの光を遮断し、暗かった。
倖枝は家具の無い広々としたリビングの壁に寧々を押しやり、そしてキスをした。
額に眼鏡があたった。唇に柔らかな感触と、他人の温もりが伝わった。
「店長さん、盛りすぎでしょ。私も
「店長はやめて」
「そんなに会いたかったの? ――倖枝」
暗くとも、密着すれば相手の表情が見えた。
倖枝は微笑む寧々を見ると、ニット越しの胸部に顔を埋めた。寧々のほうが背が高く、寧々から頭を優しく抱きしめられた。
「会いたいどころじゃなかったわよ……」
先週NACHTでひとり飲んでいた時から、寂しさを感じていた。会いたくても、呼び出せなかった。
須藤寧々は既婚者であり、現在は二児の母である。寧々が婿養子を迎えた十二年前から――倖枝は寧々の愛人として、不倫関係にあった。
「噂には聞いてるよ。月城の豪邸を預かったんだって?」
「ええ……」
「そっか……。大変だったね。頑張ったね」
「もう無理。もう頑張れない……」
倖枝は、自分が今にでも泣き出しそうな表情をしていると分かった。
外で夢子が待っていないなら、現在が仕事の合間でないなら、きっと涙をこぼしていただろう。かろうじて我慢し、寧々を求めた。もう一度、唇に触れるだけのキスをした。
舌を絡めたかった。素肌で抱き合いたかった。
理性が働いていることが、残念でたまらなかった。何もかもを投げ出して、現在ここで寧々を味わいたい気分だった。
「寧々さん、お願い……慰めて」
寧々の首に抱きつきながら、倖枝は懇願した。
「いいよ。……次の
寧々が優しく微笑んだ。
願望をこの場で預けられ倖枝は居た堪れなかったが、仕方ないと割り切った。
「だから、それまで頑張りな。しゃんとしないと、春名ちゃんに笑われるよ?」
週末には寧々と再び会える。本来なら仕事の動因となるべき予定だが、中多半端なキスで生殺し状態となっている倖枝には、逆に辛かった。
「店長としても……シンママとしても、頑張れないの……」
ここでも、倖枝の脳裏には咲幸と舞夜のキスが浮かんだ。
慰めて欲しい理由としては、仕事よりもそちらの方が大きかった。寧々には伝わっていないだろうが、娘への嫉妬でがここまで響いているのだった。
「倖枝はシンママとして、よくやってるよ。咲幸ちゃん、あそこまで育てたじゃん」
「あれは、お母さんとお父さんの教育が良かっただけよ」
「そんなことないって。片親のひとり娘なんてほぼ確実にグレるのに、あんなに良い子なのは倖枝がちゃんと育てたからだよ」
倖枝は頭を撫でられながら、寧々から諭された。
家族ぐるみの付き合いがある中、寧々と咲幸は面識があった。咲幸もまた、寧々に懐いていた。だから、寧々の言葉に説得力が無いわけではなかった。
倖枝の欲しい言葉ではなかったが、少なからず励みにはなった。
「ありがとう……。ごめんなさいね、面倒くさい女で」
倖枝は乱れた衣服を正すと、鞄からクレンジングシートを取り出し、唇を拭いた。そして、口紅を塗り直した。
「今さら? 倖枝と、もう何年目よ?」
寧々から笑われ、倖枝も笑い返した。
そう。過去からこうした『面倒くさい部分』を何年も寧々にぶつけているが、未だに嫌な表情をされなかった。
久々に寧々と会い、倖枝は少しだけ元気が出た。週末までは頑張ろうと思えた。
「それじゃあ、月曜にいつもの店で」
「うん。無理してでも、頑張りなよ」
ふたりで外に出ると、寧々と別れた。
店長として、母として――誰かの上に立つ責任者としては、確かに無理をしてでも頑張らないといけない。寧々は、それを言ってくれる唯一の人間だった。
倖枝は、改めて気持ちを引き締めた。そして、玄関の鍵を閉めると、夢子の待つ自動車へと向かった。
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