第003話

 十一月十五日、火曜日。

 休日であったため倖枝は夕飯を作り、午後七時頃に咲幸と食べていた。


「ねえ。明日、学校が終わってから……サユの彼女、ウチに連れてきてもいい?」


 咲幸の言葉に、倖枝はナポリタンを巻くフォークを一度止めた。


「えっと……文化祭の準備が終わってから? 遅くなる?」


 咲幸の学校事情をあまり知らないが、最近は文化祭の準備で部活に行けないと愚痴を漏らしていたのを思い出した。


「ううん。明日はちょっと休ませて貰うから、五時頃かな」

「わかったわ。母さん、買い物にでも出かけてるから」


 倖枝の仕事は、毎週火曜日と水曜日が休日だった。明日も特に予定は無く、自宅でのんびりと過ごすつもりだった。

 しかし、自分ひとりが出ていくだけで、娘と娘の恋人にふたりきりの空間を与えられる。それは実に効率的だと理解した。保護者としても、立場の弱い未成年を相手に拒めなかった。


 自室を見たい、喋りたい、一緒に勉強をしたい――様々な『用途』が倖枝の頭に浮かぶが、その中でも性的な行為を勘ぐってしまった。

 いつか咲幸が言った通り、同性である以上、妊娠の心配は絶対に無い。だから、最悪それに使用しても構わないと思った。倖枝は安心して部屋を渡せた。


「ううん、そうじゃないの。ママに会って欲しいの」

「えー」


 だが、予想外の提案に、倖枝は露骨に嫌そうな表情を見せた。

 恋人の性別に関わらず、現在の段階で直接関わるのはなんだか気が引けた。


「まだ早いんじゃない? あっちだって、会いづらいでしょ? 無理に会わせること無いわよ」


 娘の幸せを願うつもりだが、悪い可能性を考えていた。まだ付き合い始めて間もないため、すぐに別れる可能性は充分にあった。

 まずはふたりで時間をかけて、関係が安定したのなら――その時は、直接顔を見たかった。

 現に、娘から恋人の写真を見せられることも、名前を聞かされることすらも、まだ拒んでいた。まだ知りたくなかった。


「サユじゃないもん。彼女の方から、ママに会いたいって言ってるの」

「え? どうして?」


 さらに予想外の提案に、倖枝は驚いた。


「わかんない。なんか、早めに挨拶しておきたいんだって」

「いや、挨拶って……。余計に緊張するんだけど……」

「そうは言っても、サユからもお願い! 明日はウチに居てね!」

「うーん……。わかったから、かしこまらないでね? わざわざ挨拶に来るんじゃなくて、普通に遊びに来る感じで気楽にね?」


 正直なところ、倖枝は適当な理由をつけて逃げ出したかった。

 しかし、娘からの願いとして言われると断れず、渋々頷いた。


「ありがとう! ママこそ、大げさにもてなさなくてもいいからね!」


 娘からとても嬉しそうな笑顔を向けられたが、憂鬱な気分は晴れなかった。

 そういえば、今まで娘の友達の顔をほとんど見たことが無いことに倖枝は気づいた。仕事で不在の間に自宅に招いていることがあるのは、知っていたが。

 そのような経験が無いので、どのようにもてなせばいいのか分からなかった。自分の学生時代を思い出しながら、明日はどのような菓子と飲み物を用意しようかと、ぼんやりと考えた。



   *



 十一月十六日、水曜日。

 扉の鍵が開く音で、リビングのソファーに座っていた倖枝は目が覚めた。

 窓の外は薄暗く、陽が落ちようとしていた。正面のテレビ画面では、ワイドショーが映っていた。

 どうやら、いつの間にか眠っていたようだった。


「このスリッパ使って」


 耳に届いた咲幸の声で、倖枝は状況を理解した。娘が恋人を連れてくることを思い出した。

 部屋着のスウェットではなく、午前からチノパンツとカットソー、そしてカーディガンを羽織っていたのが幸いだった。

 頭はまだぼんやりとしていたが、リモコンでテレビを切り、玄関に向かった。


 ポニーテールの娘に続き――黒くて長い髪が、倖枝の目に映った。

 まるで絹のように滑らかな、美しい髪だった。

 少女は行儀よく靴を揃えると、振り返った。長い黒髪が揺れた。


「お邪魔します」


 そして、頭を下げた。

 少女は黒いセーラー服を身に纏っていた。

 黒いタイツ以外は咲幸と同じ制服だが、咲幸とは違い、随分品のあるように倖枝には見えた。お辞儀の仕草、佇まい、そして雰囲気――決して余所行きの付け焼き刃ではなく、彼女自身にしっかりと備わったものだった。


「はじめまして。月城舞夜つきしろまやといいます」


 少女は顔を上げると、自己紹介と共に微笑んだ。

 ――眼が微笑んでいた。

 たとえ学生服姿であろうとも、淑やかな雰囲気であろうとも、その妖艶な瞳はドレス姿の時と全く同じものであった。


「……」


 先程まで寝ていたせいか、これは悪い夢なのかと倖枝は思った。

 しかし、驚きにより頭は目覚めていた。この光景は確かに現実であった。無常にも否定された。


 倖枝は先週、その瞳に魅了された。決して忘れることは無かった。

 そう。あの夜ロジーナ・レッカーマウルと名乗った女性が、自宅を訪れていた――娘の恋人として。


「サユの自慢のママだよ!」

「……い、いらっしゃい。さっちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう。狭いところだけど、ゆっくりしていってね」


 倖枝は必死に動揺を抑えると、作り笑顔を浮かべた。長年の営業職の経験に助けられた。

 そして、その場から逃げるように、キッチンへと向かった。


 ――あの夜は、本当に偶然だった?

 自分の心臓の音が耳に聞こえる中、その疑問に思考は覆われた。しかし、思い当たる節が何も無いまま混乱するばかりで、頭がどうにかなりそうだった。

 電気ケトルで湯を沸かしている間、棚からインスタントのドリップコーヒーを取り出した。

 茶菓子も取り出そうとするが――酒の肴としてのスナック菓子ばかりがあるだけで、無かった。


「さっちゃん、ゴメン。お菓子切らしてるから、ちょっとコンビニまで行ってくるわね」


 不幸中の幸いだった。もてなしの準備を忘れていたのは本来なら許されないが、今回は自身の不注意に救われた。

 リビングに目をやると、ふたりは並んでソファーに座っていた。

 倖枝はとにかく、この場から逃げ出したかった。


「いいよ、ママ。切らしてるなら丁度いいや。サユが選びたいから、行ってくるよ」

「さっちゃん――」


 だが、咲幸がソファーから立ち上がり、そのまま部屋を飛び出した。

 何も知らないであろう純真無垢な娘は、この場から居なくなった。


「……お母さん、若くて綺麗ですね。咲幸のお姉さんだと言われても、信じますよ」


 キッチンに立ち尽くしていた倖枝の耳に、リビングから少女の声が聞こえた。まるで初対面でのお世辞のようだが、皮肉のように感じた。

 倖枝は苛立ちながら、リビングに姿を現した。


「お母さんもお姉さんも、やめて! あんたにとっては、ただのオバサンでしょ!?」


 ソファーの前で腕を組み、睨むように少女を見下ろした。

 だが、少女は涼しげな顔で、淑やかに座っていた。膝に置いた両手――右手の小指に、黒い指輪は無かった。


「オバサンだなんて、そんな……。ねぇ、サチエさん」


 少女は動じることなく、クスリと口元で笑った。

 名前を呼ぶ声の抑揚は、あの夜と全く同じだった。

 別人だという僅かな可能性を捨てきれなかったが、望みは絶たれた。間違いなく、真紅のドレスを着ていたあの女性だった。

 倖枝は怒りよりも、動揺する気持ちが込み上げた。手を伸ばすと、こちらを見上げる少女の顔――その横に置いた。


「いい加減にしなさい。大人をからかわないで」


 威圧のつもりで顔を近づけ、静かに告げた。

 しかし、少女は倖枝の態度に怖じけることなく――藍色の瞳が、笑った。

 倖枝は少女から首に両腕を回され、抱きつかれた。


「……わたしの乾きを満たしてくれるんじゃないんですか?」


 そして、耳元で囁かれると、耳から首筋にかけて舌を這わされた。

 倖枝は嫌悪感のままに少女を引き離そうとしたが、少女からソファーに押し倒された。


 あの夜、この少女はバーでモヒートを飲んでいた。

 心の乾きを満たすと、確かに約束した。

 モヒートという飲み物の名前は確か『濡らすmojar』が由来だったと、この状況にも関わらず倖枝はふと思い出した。

 いや、語源には諸説があり、他には――記憶を辿ろうとするが、馬乗りになった少女の存在に遮られた。


 乱れて垂れ下がった黒髪の隙間から――天井の明かりの逆光の中、笑った相貌が見えた。上唇を舐めている舌のせいか、獲物をじっくりと見定めている獣のようだった。

 美しい顔は、恍惚の表情を浮かべていた。

 既視感のある光景だった。ビジネスホテルのベッドの上で、九日前に視たものだった。


 倖枝は、妖艶の瞳に吸い込まれていた。頭はぼんやりとし、身体は動かなかった。まるで、魔法にかけられたかのようだった。

 だから、少女からのキスに抗わなかった。抗えなかった。

 娘の恋人からのキスを、あるがままに受け入れた。

 唇に伝わる柔らかな快楽を――倖枝は我に返り、拒んだ。ある一点で、踏み留まった。

 少女をゆっくりと引き離すと、自身も起き上がり、ソファーから離れた。


「どういうつもりよ!?」


 胸の鼓動を抑えながら、倖枝は唇を指先で拭った。

 娘と同い年の少女を相手に、精一杯強がって見せた。


「美人局なの!?」


 ――あの夜は、偶然ではない。

 絶対の根拠は無いが、倖枝はそう確信した。あの夜に行きつけのバーに居たことも、今日こうして自宅に押し寄せてきたことも、間違いなく計画的な行動だと思った。


「違いますよ……。安心してください。わたしはひとりです。ただ純粋に、倖枝さんに興味があるだけです」


 少女は顔を上げ、否定した。

 倖枝はとても信じられなかったが、答えや真意は確かめようがないので、この際脇に退けた。

 自分のことよりも――踏み留まった一点の方が、現在は許せなかった。

 いつ終わりを迎えるのか分からない時間と空間の中、少女は髪とセーラー服を整えていた。


「あんたね――さっちゃんの彼女なんでしょ!?」


 現在、この場に咲幸は居ない。

 だから、かつてロジーナ・レッカーマウルと名乗った女性は――月城舞夜は、このような真似が出来た。


「さっちゃんを傷つけたら……許さないんだからね!」


 それは、倖枝の本心では無かった。この場を切り抜けるため、咄嗟に浮かんだ言い訳に過ぎなかった。

 ――それでも、母親として娘の幸せを願おうと、そう思うことに努めた。


「ええ……。わたしは、咲幸のことが好きですよ?」


 陽が落ちていた。夜が訪れようとしていた。

 青色、茜色、そして黒色のグラデーション――窓から見える黄昏時の空を背に、ソファーから立ち上がった舞夜は笑っていた。

 長い黒髪と、黒いセーラー服み身を包んで佇む少女が、まるで魔女のようだと倖枝は思った。


「それで――倖枝さん自身は、どうなんですか?」


 倖枝は一歩近づかれた舞夜から、頬をそっと触れられた。

 妖艶に微笑む瞳に覗き込まれ、動けなかった。

 自身もまた、吸い込まれるように――その瞳を覗き込んでいた。


 そうだ。他には『魔法をかけるmojo』だった。

 倖枝はモヒートの名前の由来を思い出した。

 きっと、あの夜から――魅了の魔法をかけられていたのだ。


 この冷たい瞳に飲み込まれた夜は、とても熱く、とても激しく、とても愛しかった。

 たとえ魔法だとしても、とても心地よい時間だった。

 ――あの時は、何も重荷は無かった。

 刹那の時間だと思っていたが、再び目の前に現れた。手を伸ばせば届く距離に立っていた。

 一度は手に入れたからこそ、欲する気持ちが奥底から込み上げた。

 ――しかし、脳裏に浮かんだ咲幸むすめの笑顔に遮られた。

 もしも手を伸ばせばその表情がどうなるのか、嫌でも想像出来た。


 欲するものは娘の恋人なのだ。

 掴みたくても、掴んではいけない。母として、娘の幸せを第一に考えないといけない。

 倖枝は自分にそう言い聞かせた。

 先週の夜のことも、現在の出来事も、娘には絶対に知られてはいけない。

 ――だから、咲幸が帰ってこなければいいのに。

 それは『どちらの意味』でそう思ったのか、倖枝には分からなかった。

 しかし、二択である時点で、自分への嫌悪感が込み上げた。


「わ、私は――」


 舞夜とロジーナ。現実と欲望。理想と本心。

 それらの間に挟まれ、倖枝は揺れ動いていた。


 藍色の瞳はとても綺麗で、まるで汚く濁った水槽のようだった。

 まだ、そこに浮かんでいた。

 まだ、這い上がれた。

 だが、沈んでしまうと、きっと一瞬だった。


 母として足掻くのか、それとも女として溺れるのか――これは、選択の物語である。



   *



 魔女は、館の窓からふたりを見ていた。

 深い森に、ふたつの獲物が迷い込んだのだ。


 ただ、ふたりが欲しかった。


 魔女は甘い菓子で、館にふたりを招いた。

 食事と寝床を与え、親切にもてなした。

 ――ふたりを太らせ、食らうために。


 まだだ。

 まだ正体を知られてはいけない。

 食らう時まで、どす黒い欲望を隠さねばいけない。

 それまでは、良い老婆で居なければいけない。


 だから、最後に笑おう。

 この長い夜が明ける、その時に――



   魔女は暁に笑う

   Man lebt nur einmal in der Welt.



(第01章『モヒート』 完)


次回 第02章『再会』

倖枝の職場を、ひとりの女性が訪れる。

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