第002話

 倖枝は、これまでも見知らぬ女性達との一度限りの夜を何度も過ごしてきた。

 あの夜も、刹那の思い出のひとつとして――すぐに消えるはずだった。

 しかし、現在いまも心のどこかで引っかかるように残っていた。

 まるで、夢を見ていたようだった。ロジーナと名乗る女性も、彼女との一夜も、果たして現実だったのかと疑った。

 確かな感触が思い出せなくても――あの瞳がまだ忘れられなかった。連絡先の交換も無く、もう一度会いたいわけでも無いが、頭から離れなかった。

 魔女の魔法にかけられたままだと倖枝は自嘲しながら、日常を送っていた。


 十一月十一日、金曜日。

 仕事を終え午後九時過ぎ、倖枝は自宅である賃貸マンションの一室に帰宅した。


「ママ! おかえりなさい! 夕飯ごはん温めるね。もー、お腹ペコペコ」

「だだいま。さっちゃんは先に食べてもいいのに……。こんな時間に食べると太るわよ?」

「走ってるからヘーキヘーキ! ママと一緒に食べたいもん!」


 倖枝としては先に風呂に入りたかったが、娘の咲幸さゆきが夕飯を待っていたので、一緒に食べることにした。

 いつも通り、夕飯自体は咲幸が既に作っていた。温め直したものが、すぐに出てきた。

 ふたり掛けの小さな対面テーブルに、ぶり大根、しめじと小松菜の味噌汁、きんぴられんこんが並んだ。自分には到底作れない、家庭的な料理だった。


「ぶり大根、圧縮鍋で作ったんだけど、どうかな?」

「うん。よーく味が染みて、美味しいわ」

「ほんと? ありがとう!」


 料理の出来を褒めると、目の前に座る娘が喜んだ。

 スウェット姿の少女は小柄だが、十七歳の高校二年生ということもあり、見た目は大人に近かった。やや広がったミディアムヘアは、癖のある髪質も髪型も自分と同じであり、紛れも無い親子なのだと倖枝は思っていた。

 外観だけでなく――料理の腕前も、いつの間にかここまで成長していると感じさせた。


「……」


 親子ふたりの食事の席だというのに、倖枝は何を話せばいいのか分からなかった。

 思えば、いつも咲幸の振った話題に乗っているだけだった。倖枝から話題を振ることは無かった。

 目の前の娘にそのような様子は無いが、少しの沈黙が、倖枝に居心地の悪さを与えた。

 学校どうだった?

 たったその一言でいいのだと、倖枝はようやく気づくが――娘の学校生活に興味が無いことにも気づいた。


「そうだ。あのね……今日、サユに彼女できたよ」

「はい?」


 しかし、倖枝が口を開けるより早く、咲幸から話を切り出された。

 夕飯の席での、突然の報告だった。倖枝は静かに驚き、箸に乗っていた白米を茶碗に落とした。


「彼女って……恋人ってこと?」

「うん」

「お、おめでとう……」


 念のため確認するが、やはり思っていた通りの意味だった。

 これまでの実態がどうであれ、年頃の娘本人から、その手の浮いた話を聞いたことが無かった。

 初めてのことだった。しかし、全く予想していなかった内容だった。


「クラスは違うんだけど、同級生で……告白されて……なんか上手く言えないんだけど、イイと思ったからOKしたの。……ダメ?」


 上目遣いの咲幸は、どこか不安げだった。

 十七歳で親に交際の同意を求めることは、本来はあり得ない。

 これは『相手は同性おんなだけど?』という意味での確認であると、倖枝は理解していた。


「さっちゃんがその子のこと本当に好きなら、母さんは何も言わないわよ」


 だが、その点には敢えて触れず、親として当たり障りの無い回答をしたつもりだった。性別の概念に敏感な昨今では、むしろ自然だと思えた。

 それが無いにしても――咲幸には黙っているが、自身も同性に興味がある以上、決して否定することは出来なかった。この部分で親子としての類似点を感じ、内心は複雑だった。


「それに……娘の幸せを願うのは、母として当然じゃない」


 自分を落ち着かせるように、そう言った。

 これもまた、倖枝の考える『母としての当たり障りの無い言葉』だった。

 本当にそう願っているのか、分からなかった。しかし、願おうとはしていた。

 ――少なくとも、倖枝自身の本心では無かった。


「ありがとう! まあ、妊娠することは絶対に無いから、安心して」

「ちょっと……。ご飯の時に、そういうこと言わないの」


 冗談のように咲幸は笑うが、倖枝にとっては皮肉じみて聞こえた。

 そう。十七年前、倖枝が現在の娘とちょうど同じ歳に――咲幸を産んだのだった。



   *



 倖枝は夕飯の片付けを済ませると、風呂に入った。湯船に浸かり、ようやくひとりきりの時間を得た。


 娘に同性の恋人が出来たという話を、ぼんやりと振り返った。

 あの確認は、性別だけではなく――やはり、交際の同意も含まれていたのかもしれないと、現在になって思った。

 もしも、あの子が自分と同じ過ちを犯したなら、と。娘が成長するにつれ、それだけが心配だった。

 女子校に進学したのも、今まで色恋沙汰の話が無かったのも、こうして同性を選んだのも――どれも娘なりの気遣いだったのかもしれない。そう考えると、申し訳なかった。


 いや。そもそも、咲幸の出産は自分にとって『過ち』だったのだろうか?

 十七年経った現在も、倖枝は未だに折り合いがつかなかった。


 十六歳の当時、異性と身体を重ねたことは、遊びの延長であった。快楽を求めたわけでも金銭を要求したわけでもなく、ただの大人への背伸びだった。

 その結果、子供を身籠った。

 堕ろすという選択肢もあった。しかし、倖枝の中では『殺人』の印象が強かったため、責任を果たすことを選んだ。高校に入学して、一年も経たぬ内に退学した。

 子供の『父親』が誰であるのか、およその見当は付いていたが、彼には責任を求めなかった。自身の両親に見守られながら、倖枝は独身の母親として出産した。十七歳ながら、生涯をかけて守るべき存在が出来た。


 この半生はきっと『過ち』だったのだと、倖枝は頭のどこかで理解していた。咲幸との出会いを美談にするつもりは無かった。

 咲幸は望まれない子供であった。

 だが、産んでしまった以上は、その結果を受け入れた。『過ち』だとは認めたくなかった。人間としての倫理観が、かろうじて否定し続けていた。


「……」


 倖枝は湯船に肩まで浸かり、天井を見上げた。

 自分にとって、咲幸はどういう存在なんだろう。

 2LDKのこの部屋に引っ越し、ふたりきりで暮らすようになって二ヶ月、倖枝はそう思う機会が増えてきた。

 答えは出なくとも――過去から、自分のことよりも娘の幸せを第一に考えようと努めてきたつもりだった。


 倖枝は風呂から上がると、リビングのソファーに座り、睡眠薬代わりの缶ビールを開けた。

 午後十一時。テレビでニュース番組を観ながら飲んでいると、咲幸が自室から出てきた。


「ママの匂い、好き」


 そしてソファーの隣に座ると、ごろんと横になり、倖枝の太ももに頭を置いた。


「こーら。もういい歳なんだから、ベタベタしないで」

「いいじゃん。ちょっとだけだから……」


 倖枝としては鬱陶しかったが、強引に引き離さなかった。

 十七歳にもなった娘が母親に甘えるのを、仕方なく受け入れていた。


 咲幸を産んで母乳を与えつつ、まともな育児を行ったのは最初の一年だけだった。それからは同居している両親と保育所に任せ、金を稼ぐことに必死だった。

 母親としての責任は経済力だと、倖枝は考えていた。直接の愛情では養えないと分かっていた。

 同じ屋根の下で生活していても、営業職のため出勤と帰宅の時間は遅く、休日も合わなかった。すれ違う時間が続き、娘とは血肉を分け与えた存在ではなく、他人のような感覚へとなっていた。金銭面で苦労させないことだけが愛情では無いのだと、後になって分かった。


 いや、遅すぎたのだ。

 娘との開いた距離は、向き合う機会を失わせていた。

 一年前に倖枝の父親が胃癌で亡くなり、二ヶ月前に母親が田舎の実家に帰らなければ――娘とふたりきりで暮らさなければ、倖枝は現在も向き合えなかっただろう。

 あくまでも『好き』の対義語は『無関心』なのだ。


 倖枝にとっての果たすべき責任は『咲幸が成人して自立するまで経済的不自由なく育て、本人が望むなら大学にも通わせる』だった。

 それは現在も変わらない。だが、こうして親子ふたりで暮らすことになり、母親としての姿を今一度考えるようになった。

 出来るならば、母親としての愛情も与えたい。現在はまだ最低の母親だが、失われた時間を取り戻したい。

 金銭面だけでなく、娘の人間としての幸せを願いたい。

 それは咲幸だけではなく、倖枝自身のためでもあった。

 ――十七年前の選択を『過ち』にしないために。


「さっちゃん……」

「なーに?」

「……何でもない」


 倖枝は、自身の膝で横になっている咲幸の頬をそっと撫で、微笑んだ。

 現在はこの時間を――遅すぎた親子ふたりの生活を、大切にしたかった。

 気持ちが慣れるにはまだ時間が必要だが、少なくともこの日々は、悪くないと思っていた。


「ねえ、ママ。一緒に寝ようよ」

「ダメよ。あんた、寝相悪いんだもん。……ほら。明日も朝練あるんでしょ? 早く寝なさい」

「はーい。おやすみ」

「おやすみ」


 起き上がった咲幸は自室に戻った。


 幸いにも両親の――咲幸にとっての祖父母の育て方が良かったのか、とても自分の娘とは思えないほど良い子に育ったと、倖枝は常々思っていた。

 いっそ、咲幸から軽蔑され嫌われていれば気は楽だった。こうして懐かれているのは幸いであり、そしてまだ複雑な心境だった。

 それでも、現在はたとえ演技だとしても、母としての役に努めなければいけなかった。

 だからせめて、咲幸が酒を飲める歳になる頃には――酒を交わせる親子になりたいと、倖枝はぼんやりと夢に思っていた。

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