魔女は暁に笑う

未田

第1部

第01章『モヒート』

第001話

 十一月七日、月曜日。

 午後九時。嬉野倖枝うれしのさちえは、スーツ姿のまま街外れのバー『NACHT』へと向かった。

 肌寒さを感じる、秋の夜だった。しかし、一週間の仕事を終え、彼女にとっての週末がようやく訪れたので、浮かれた気分だった。


「いらっしゃいませ」


 行きつけの店の扉を開けると、その日も客がほとんど居ないように感じた。曜日としては、おかしくない光景だった。金曜日や土曜日等、世間一般の週末では混んでいるのだろうと、倖枝はいつも思っていた。


 薄暗い店内で、テーブル席で疎らに座っている客の他――カウンターテーブル席の端に座っているひとりの女性客が、倖枝の目を引いた。

 一目見て、とても美しい女性だと思った。

 艶のある黒色の長い髪が、真っ赤なドレスの背中に流れていた。

 月曜日だが何かのパーティー帰りかと、倖枝は思った。暖房が効いている店内で白色のストールを羽織っているとはいえ、丈の短いドレスから覗く素脚は、肌寒そうに見えた。


 倖枝が物珍しそうに見ていたからか――テーブルに肘をつき、ぼんやりとグラスに目を落としていた女性は、顔を上げた。そして、店の入り口に立っていた倖枝に、微笑みを投げた。

 黒髪の隙間からダイヤのイヤリングが、ストールの隙間からパールのネックレスが、それぞれ輝いていた。

 しかし、倖枝にはそれらよりも、眼がとても印象的だった。

 口元だけではなく、目元もしっかりと微笑んでいた。きっと、顔の下半分が隠れていたとしても、同じように感じるだろう。上品な雰囲気の中で、とても艶めかしい瞳だった。


 倖枝はその瞳に吸い込まれるように、女性に近づいた。


「お隣、いいかしら?」

「ええ。構いませんよ」


 バニラとシトラスの香水が、倖枝に甘みとほろ苦さ、そしてそれらが複雑に入り混じった豪華な印象を与えた。

 自然な感じの化粧を信じるならば、女性はとても若く見えた。おそらく、二十代前半。三十四歳の自分では釣り合わないように倖枝は思うが、今さら引き返せなかった。


「何を飲んるの?」


 口紅だけはドレスと同様、真っ赤で派手なものだった。

 縁に口紅跡の付いたグラスには、少し濁ったソーダにミントの葉とライムが入っていた。

 倖枝はそれが何の酒であるのか分かったが、会話のため敢えて訊ねた。


「モヒートですよ。……ノンアルコールですけど」


 グラスを持つ右手の小指には、黒い指輪が嵌められていた。

 よく見ると、黒猫が指に巻き付くような形をしていた。玩具のような指輪だった。意外と可愛いものを着けているなと、倖枝は思った。


「お酒にも意味があってね……モヒートは『心の乾きを癒やして』なんだけど、ご存知?」


 それは適当な言葉ではなく、確かな知識であった。

 女性がその意味を知らずに飲んでいたのか、それとも意図的にサインを出しているのか――倖枝の中で半々だった。


「へぇ……。初めて知りました。……まあ、あながち間違ってないかもしれませんね」


 女性はモヒートを一口飲むと、隣の倖枝の顔を覗き込み、面白そうに笑った。


 ああ、この瞳だ――倖枝は、背筋に何かが走るのを感じた。この女性がどういう意図で飲んでいるのかは、最早どうでもよかった。この仕草が演技だとしても構わなかった。

 余裕があるように見せるため、倖枝も微笑んだ。こみ上げるものを抑えて冷静になれたのは、瞳の色に気づいたからだった。

 藍色の瞳だった。

 そうは見えないが、外国人とのハーフ? それとも、カラーコンタクト? 答えの出ないどうでもいい模索に、かろうじて思考が働いた。


「お姉さん、物知りなんですね。……いつも、そうやって口説いてるんですか?」

「さあ……。どうでしょうね」


 見透かされていたと思うも、平静を装った。実際のところは、この『常套手段』のために身につけた知識だった。


 倖枝は手を上げ、バーテンダーの男性を呼んだ。そして、キールを注文した。

 バーテンダーは白ワインとカシスリキュールを四対一で混ぜたものをワイングラスに注ぎ、倖枝の前に運んだ。


「キール? そのお酒はどういう意味なんですか?」

「これはね……『最高のめぐり逢い』とか『あなたに出会えてよかった』とか……そんな感じよ」

「まあ……。素敵ですね」


 倖枝はワイングラスを揺らした。血のように赤く染まった白ワインが、グラスの中で踊った。


「最高の夜に」


 そして、女性の持つグラスに打ち付ける真似で、乾杯をした。

 キールを一口飲んだ。白ワインの苦味よりもカシスの甘みが勝り、すっきりとした味わいだった。

 アルコール度数が高いだけの安酒が、とても美味しく感じた。それほどまでに、心地の良い時間だった。


 ふと、隣の女性が倖枝の肩にもたれかかった。


「……お姉さんなら、わたしの乾きを満たしてくれますか?」


 倖枝から、女性の表情は見えなかった。

 ぽつりと呟くような声は、誘うというよりも、強請るというよりも――なんだか淋しげに聞こえた。

 しかし、倖枝にとって彼女の実情はどうでもよかった。望み通りの展開になったことが、ただ嬉しかった。


「ええ……。私でよければね」


 倖枝は女性の頭をそっと撫でた。見た目通り、まるで絹のように滑らかな手触りだった。


「それじゃあ、お願いします……」


 ぽつりと呟くような願いを、倖枝は聞き入れた。

 キールを飲み干すと、携帯電話でビジネスホテルのデイユースとタクシーの予約をした。


「先に外で待ってるわね」


 倖枝は席を立ち会計を済ませると、店を出た。

 寒さを感じる空の下、携帯電話のメッセージアプリで、娘との会話画面を開いた。帰りが遅くなるから戸締まりをして先に寝ておくようにと伝えた。既読や返信を確かめることなく、携帯電話を鞄に仕舞った。


 これでよかったのだろうか――ひとりになったからか、酩酊の中で倖枝はふと思った。

 たった一杯だった。会話は最低限で、雰囲気に流されるままこうなったのは初めてのことだった。

 疑いが全く無いわけでは無かった。女性の一連の言動には何か意図があるのかもしれないと、頭の隅で勘ぐった。


 とても綺麗な満月が、夜空に浮かんでいた。


「お待たせしました……」


 しばらくして、真っ黒なフォーマルコートに身を包んだ女性が店から出てきた。

 黒色の長い髪が、冬の風に揺れた。

 ――まるで黒いローブを着た魔女のようだと、倖枝は思った。再び、高揚感が込み上げた。


「私はサチエ。あなたのこと、どう呼べばいい?」


 所詮は、一晩だけの関係だった。

 別に女性の本名が知りたいわけではない。雰囲気を楽しむための、記号が欲しかった。


「そうですね……。それじゃあ、ロジーナ・レッカーマウル、で……」

「え? ロジーナ? レッカーマウル?」

「ロジーナ、でいいですよ。サチエさん」


 外国人の名前が出てきて、倖枝は少し興醒めた。やはり外国人とのハーフなのだろうかと、改めて思った。

 しかし、ロジーナと名乗る女性が微笑むと、再び心が動いた。

 妖艶に微笑む藍色の瞳は――まるで魔法のようだった。吸い込まれるように魅了されていた。

 やがて、タクシーがふたりの前にやって来て、後部座席の扉が開いた。


「行きましょうか――ロジーナさん」


 倖枝はロジーナの手を引いた。右手小指の黒猫の指輪は、まるで魔女の使い魔のようだった。

 先程の疑いは、最早どこかに消え去っていた。その瞳は、ほろ酔いの浮いた気分を現実からさらに突き放した。

 たとえ何かの罠だとしても構わないと、倖枝は思っていた。

 そう。この夜に、きっと後悔は無いのだから――

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