第058話
八月三日、木曜日。
倖枝が出勤で自宅を出るより早く、咲幸は予備校の夏期講習に出かけた。都心に位置する大手であり、波瑠の他、舞夜も同じ所に通っているらしい。
昨日の様子通り、気持ちの切り替えの早い強い子だと、倖枝は思った。
午後二時。倖枝は遅い昼食を摂ると、加熱式のタバコを持ち給湯室に入った。
携帯電話のメッセージアプリで、波瑠――いや、悩んだ末に舞夜との会話を開いた。
『さっちゃんどう? 落ち込んだりしてない?』
そう送信し、タバコの電源を入れた。
予備校の時間割を倖枝は知らないが、すぐに返信が送られてきた。
『すごく元気です。やる気に満ち溢れていますよ』
舞夜がそう言うのだから、倖枝は疑わなかった。今朝の様子からも、信憑性があった。
心配していたのではなく――当てが外れたことを確認したかった。
倖枝はタバコを吸い、焦燥を抑えた。
携帯電話のインターネットブラウザを開き、ブックマークからグルメサイトのページを呼び出した。
都心にあるレストランのものだった。恋人向けや結婚式の二次会を売りにしている店だ。倖枝は雰囲気が良いと思い、以前から押さえていた。
倖枝は現在、ふたつのことを悩んでいた。
ひとつ目は、その店に咲幸を連れて行くことだ。ふたりで食事を楽しみ、店の雰囲気に浸りたかった。
咲幸がインターハイで結果を残せたのなら、祝いとして――残念な結果ならば、慰めとしての口実を作れた。
しかし、そのどちらも使用できない。気持ちを受験勉強に切り替えたばかりの咲幸を、外食に連れ出していいものかと、悩んだ。
いや、受験勉強への労いが口実になる。遊びに連れて行くわけではない。自分の欲を満たしたい。そして、もうひとつの悩みのためにも――倖枝は店の電話番号のリンクに触れた。じきに通話が繋がった。
「もしもし? 予約、構いませんか? 六日の日曜日、二十時から、ふたりで」
『かしこまりました。ご座席のご希望はございますか?』
店員からの言葉で、倖枝は散々見ていたグルメサイトを思い出した。もしも、咲幸と行くならば、座りたいと思っていた席は――
「カップルシート空いてます? ……女子会というか、友達とふたりでお喋りするだけなんですが」
恐る恐る訊ねた後、苦笑しながら適当な嘘を付け足した。
『はい、大丈夫ですよ。それでは、お客様の名前と連絡先を伺ってもよろしいでしょうか?』
倖枝はそれに答え、通話を切った。
嬉しい気持ちが込み上げるも、もうひとつの悩みと向き合い、気分が若干重たくなった。
しかし、もう悩んでもいられない。倖枝は携帯電話で、次は自動車ディーラーの担当者に電話をかけた。
「もしもし? 嬉野です。お世話になっております。あの件ですが……明日にでも入金しますので、予定通り八日にお願いします」
以前から欲しかった中古車の買付を、口頭で行った。
もうひとつの悩みは、中古車の購入をまだ咲幸に伝えていないことだ。どのように言い出すか悩んだ末、自宅ではなくどこかで外食をしようと、計画を立てていた。
こうして、計画を実行に移す手筈は整った。
――咲幸とデートをしたかった。咲幸に中古車のことを話したかった。
このふたつを、一度に行う。倖枝は自己都合であると理解していたが、不思議と自己嫌悪には陥らなかった。
そう。自分にはその資格が有るのだから。
『せっかくですので、納車式を執り行ってもよろしいでしょうか? きっと、良い思い出になりますよ』
通話を切ろうとしたところ、担当者から愛想笑いの声で提案された。
「納車式、ですか……」
現在乗っている自動車を購入した際も、そのような行事があった。
大きな模造品の鍵を持ち、自動車と記念写真を撮る。倖枝は気分が上がらず避けたいぐらいだが、同じ営業職として、この行事が何を意味するのか理解していた。
不動産屋によっては、売買契約成立の際に同じような行事がある。顧客側の記念という体だが、実際は営業側の都合だった。『顧客にこれほど喜んで貰った』という実績として、店側も写真を残すのだ。
倖枝はその事情を知っているからこそ、断ることに躊躇した。
「わかりました。こじんまりな感じで、お願いします」
協力する義理は無いが、咲幸とのデートを控え、浮足立っていた。
それに、貰った見積もりの『諸経費』に含まれていると思われるので、勿体ない。
『かしこまりました! それでは八日に、お待ちしています!』
倖枝は通話を切ると、タバコを再び吸った。
ようやく決心して、緊張感が込み上げるよりも――頬が自然と緩み、胸が高鳴っていた。
*
午後九時過ぎ。倖枝は帰宅した。
夏休みだがいつも通り、咲幸が夕飯の支度をしていた。今夜の献立はゴーヤと豚肉の味噌炒めだった。
「ねぇ、さっちゃん。次の日曜日、私と御飯食べに行こうか」
「え? ごはん?」
ふたりで夕飯を食べながら倖枝は切り出すが、咲幸はきょとんとした表情を浮かべた。
「さっちゃん頑張ってるから、ご褒美よ。たまには、ちょっと良い所でディナーもいいんじゃない? とっておきのお店を見つけたのよ」
これは、受験生の咲幸の足を引っ張るものではない。あくまでも応援するためだ。
倖枝はそう自分に言い聞かせ、にこやかに話した。
「ほんと? 嬉しいなぁ」
咲幸の表情が、ぱっと明るくなった。
「それじゃあ、日曜の七時半ぐらいに、あそこで――」
倖枝は待ち合わせ場所を伝えた。
自動車で行く方が楽だが、電車で行き、予備校帰りの咲幸と待ち合わせをしたかった。以前のバレンタインのように。
「オッケー。サユ、楽しみにしてるね!」
咲幸だけではなく、倖枝も嬉しそうな笑みを浮かべていた。
*
八月六日、日曜日。
HF不動産販売は繁忙日で忙しかったが、飛び込みの来客は無く、予定通り夕方には落ち着いた。
午後五時を回り、倖枝は席を立った。
「それじゃあふたり共、悪いけど後おねがい。戸締まりだけは忘れないでね」
「はい。任せてください、嬉野さん」
「うっす」
従業員達には事前に、家族サービスで早退させて欲しいと正直に話し、理解を得ていた。頻繁に早退するつもりは無いが、やはり以前の会社に比べ、融通が利くと思った。
スーツ姿のまま咲幸との待ち合わせに向かうのが、自然だろう。しかし、倖枝は一度帰宅し、私服に着替えた。
黒いカットソーと、黒とベージュのブロックドットのスカートが繋がった、ドッキングワンピース。その上から、白いレースカーディガンを羽織った。どちらも、この日のために購入したものだ。スカート部分がややカジュアルだが、全体的に落ち着いた印象だと思っていた。
さらに、安物だがイヤリングとネックレスを着けた。黒いレザーハンドバッグを持つと、黒いエナメルパンプスを履き、倖枝は自宅を出た。
駅近くのコインパーキングに自動車を駐め、電車に乗った。
向かった先は、流行の先端である洒落た街だった。倖枝には、美術館が多いという印象があった。
現に、待ち合わせに指定したのは美術館とまではいかなくとも、アートギャラリーの建物だった。ホテルのラウンジのようなカフェが出入り口にあり、その前で倖枝は立った。
午後七時半。ようやく陽が暮れたが、蒸し暑さが和らぐことも、人通りが減ることも無かった。
目の前を行き交う人々は若者が多く、この街に溶け込むように洒落た格好をしていた。年齢も、そして格好も――自分が周りから見劣りして浮いていないか、倖枝は落ち着かなかった。
「ママ? どうしたの、それ? 綺麗だね!」
しばらくして、咲幸が姿を現した。予備校通いなので、Tシャツとクロップドパンツといったラフな格好で、リュックサックを背負っていた。
「さっちゃん、お疲れさま。折角だからね、オメカシしたのよ。……さあ、行きましょうか。お腹空いてるでしょ?」
倖枝は微笑み、咲幸の手を取った。
急に手を握られ、咲幸は一度静かに驚くが、すぐに満面の笑みを浮かべた。機嫌が良いようだ。
「うん! ヤバいぐらいお腹減ってきた」
手を繋いだまま、ふたりで歩き出した。
倖枝の方が、僅かに身長が高い。それでも、咲幸の腕に抱きついて歩きたい衝動が込み上げたが、人目を気にして我慢した。
ただ、気分が昂っていた。
倖枝が予約した店は、とあるビルの地下一階にあった。
わざわざビルに入らずとも、道路から伸びた階段を下り、扉を開けた。
「わぁ……。凄いね」
咲幸が息を飲むのも無理が無いと、倖枝は思った。
薄暗い店内の壁は、青い影がゆらゆらと揺れていた。いくつもの水槽が埋まり、魚が泳いでいるのだ。
水槽に囲まれたレストラン――これが、この店の特徴だった。蒸し暑い日々が続くからこそ、涼し気な景色だった。
「すいません。予約していた嬉野です」
倖枝は店員に名乗ると、店内へ案内された。
「へぇ。ソファーじゃん」
「いい感じでしょ?」
予約通りカップルシートへと通されたが、倖枝は座席の名前を口にしなかった。
大きな水槽を正面に、ひとつのソファーとテーブルが置かれていた。
「ふっかふかで、もう寝そうだよ」
「何言ってるの。美味しい料理食べましょう。何でも好きなの頼んでいいからね」
勉強開けの身で薄暗く幻想的な空間に連れて来られると、食欲より睡眠欲が勝るのだと、倖枝は理解した。しかし、行儀悪く寝そべる真似をしている咲幸を起こした。
ふたり並んで座り、メニューを眺めた。咲幸を主導で倖枝が意見し、ふたりで決めた。
桜海老のクラフティサレ、ロースハムのミモザサラダ、白身魚のタルタルソース添え、サーモンのスパイス焼き、サルシッチャのクリームペンネ、そしてバージンブリーズとマンゴージュースを注文した。
「あれ? お酒いいの?」
「駅まで車だからね。それに……さっちゃん頑張ってるんだから、悪いわ」
「別に、気にしなくていいのに」
気遣いする咲幸の頭を、倖枝はくしゃっと撫でた。
アルコールを断った理由は、それだけではなく――万が一にもこの場で悪酔いすれば、咲幸に全ての気持ちをぶつけてしまうと危惧した。それに、アルコールの力を借りずとも、倖枝の気分は既に昂っていた。
やがて、先に飲み物が運ばれてきた。
「リフレッシュしたら、明日からまた頑張ってね」
「こんな所に連れてきてくれて、ありがとう」
乾杯して、倖枝はバージンブリーズに口をつけた。
グランベリージュースとグレープフルーツジュースが合わさった酸味で、さっぱりとした後味が残った。ノンアルコールのカクテルだが、店内の雰囲気と相まって美味しかった。
順番に運ばれてくる料理に、ふたりで手をつけた。どれも美味しかったが、雰囲気を楽しむためにがっつくことなく、ゆっくりと食べた。
「ママ、ありがとう……。なんだか、バカンスに来てるみたい。しんどい夏休みだけど、良い思い出になったよ」
咲幸はスニーカーを脱ぎ、ソファーで脚を抱えた。そして、倖枝の肩にもたれ掛かった。
「受験終わったら春は春で旅行して、次の夏は本当にバカンス行きましょ。……冬でもいいかもね。あっちは暖かいらしいから」
倖枝は海外の有名なバカンス地を挙げた。テレビでしか見たことが無いが、綺麗な海とのどかな雰囲気が印象的だった。
「私は喋れないけど、さっちゃんが外国語喋れるわけだしね」
「もうっ……。そのためにも、勉強しないとね」
咲幸は一度嫌そうな表情をするも、苦笑した。
倖枝にそのつもりは無かったが、咲幸の苦手な教科に目標を定め、良い方向に進んだと思う。
ふと、肩にもたれ掛かっていた咲幸が、倖枝の胸元にまで倒れ込んだ。倖枝はそっと抱きしめた。
「……ママとデートしてるみたいで、サユ嬉しいよ」
咲幸が小声でぽつりと漏らした。
腕の中の少女は正面を向いたまま水槽を眺めているので、倖枝から表情は見えない。少女の頭が倖枝の顔に近いため、汗の匂いがした。しかし、日頃から運動をして身体の老廃物を流しているからか、さほど不快感は無かった。むしろ、なんだか落ち着く匂いだった。
咲幸も、デートしていると認識していた。
込み上げる昂揚が、倖枝の涙腺に触れた。嬉しくて、今にでも泣き出したかった。
だが、我慢するように咲幸を抱きしめた。
「私もよ……さっちゃん」
倖枝は自分の気持ちを口にすることなく、頷いた。
咲幸を外食に連れて行く際は、いつも味の評判を最優先に考える。店の雰囲気で決めたのは、これが初めてだった。
そう。倖枝にはデートの意図があった。かつて、バレンタインで咲幸にデートに連れられて喜んだように――次は咲幸に喜んで欲しかった。
年頃の少女は、この座席の意味をきっと理解していると思った。
予約の際、店員に『友達との女子会』と伝えている。店員全員がそれを知っているとは思えないが、誰ひとりからも『友達』とは見られていないだろう。母娘でカップルシートを利用している客として、白い目で見られている可能性もあり得る。
倖枝はそれでも構わなかった。
揺れる水影に囲まれて――愛する人と、静かにゆっくりとした時間を過ごしたかった。それだけで満たされていた。
この時間がずっと続けばいいのにとさえ、思った。
「ねぇ、さっちゃん……。ひとつだけ、お願い聞いてくれる?」
しかし、永遠には続かない。倖枝は
「なに? お願いって?」
「私、もうすぐ誕生日じゃない? ……自分へのご褒美に、車買い替えてもいいかしら?」
とはいえ、既に入金を済ませ、売買契約自体は終えている。車種や値段は、受験生に不安を煽る可能性があるので、敢えて伝えなかった。
だが、それが無くとも杞憂だったのか――咲幸はソファーに座り直すと、倖枝を向き、おかしく笑った。
「別に、サユに訊くことじゃないよ。ママお仕事頑張ってるんだし、それはママの自由だよ」
深く考えすぎていたのかなと、倖枝は肩透かしを食らった気分だった。咲幸に連れられて、一緒に笑った。
「まさか、それ言うためにわざわざ連れて来たの?」
「ううん。そうじゃないわ……。でも、ありがとう」
倖枝は慌てて首を振るが、実際このデートの目的の約半分はそれだった。
この件はあっさり片付いたとはいえ、無断で売買するより咲幸の許しを得て、気分は楽だった。
「それじゃあ、サユからもひとつ……お願い言ってもいい?」
咲幸は上目遣いで倖枝を見上げた。
畏まった様子ではなく、真剣な話でもないだろうと倖枝は思った。むしろ、自分にとっても得になるような願い事を期待した。
「ええ、いいわよ。言ってみなさい」
「朝か夜、近所を三十分ぐらいジョギングしてもいい? 少しだけでも、身体動かしたいんだよね。ちゃんと勉強するからさ」
倖枝にとっては期待外れの内容――というより、わざわざ訊ねるものなのか疑問だった。
確かに、咲幸は宣言通り、インターハイを終えてからは勉強に集中している。まさか、現在まで我慢していたのだろうかと、倖枝は思った。その程度でも約束を破るのかもしれないと、恐れていたのだろうか。
「それこそ、さっちゃんの自由よ。身体動かした方が、頭も働くんじゃない? ただ、車にだけは気をつけてね」
「うん! それだけは気をつけるね! ありがとう、ママ!」
咲幸にとっての倖枝の願いも、きっとこの程度だったのだろう。
お互い、些細な悩みを言い出せずにいたのだと、倖枝は理解した。そのような『本音』を話すためにも、自宅から場所を変えて食事をして良かったと思った。
他所の家庭がどのように本音を打ち明けているのか、倖枝は知らない。しかし、こうして中々話せない様子は家族らしくないと感じた。
それで構わなかった――むしろ、家族という枷で縛られたくなかった。
食事を済ませ店を出ると、別の店でアイスクリームを食べた。そして、電車に乗り帰路についた。
咲幸とデートとして時間を共有し、倖枝はとても愉しかった。自分の立てた計画を咲幸も楽しんでくれたようで、嬉しかった。
それだけで充分だった。三十四年の人生で味わった二度目の悦びに、年甲斐もなく浮かれていた。とても生き生きしていた。
ただ、幸せだった。
この気持ちを、誰にも打ち明けられなくとも――
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