第23章『愉悦』

第057話

 倖枝は舞夜との性交を楽しんだ後、夕飯に素麺を茹でた。

 それをふたりで食べ、一緒に風呂に入り、そして再び性交に興じた。

 夏の暑い夜。冷房を効かせても身体が火照り、汗ばんだ。

 年甲斐もなく性欲が溢れ出したが、それを『娘』に沈めて貰った。嫌なことを全て忘れるほど、性的快楽に溺れた。

 ――だから、反動が凄まじかった。

 現実逃避と自己嫌悪。押し返した暗い感情が勢いをつけて迫っていることを、倖枝はぼんやりと感じていた。


「あんたさ……最初からこうするつもりで来たんでしょ?」


 倖枝はベッドで脱力気味に横たわりながら、舞夜の横顔を眺めた。

 舞夜は替えの下着を持参していた。一泊するつもりで、訪れていたのだ。


「そんなわけないですよ。倖枝……お母さんと一緒に寝たいとは思ってましたけど、これは想定外でした」

「一緒に寝るだけで済むわけないでしょ」


 小声で漏らす舞夜に、倖枝は笑った。

 母娘で一緒に寝るのは、特におかしくない話だ。現に、咲幸と一緒に寝ることがある。

 しかし、性交までは行わない。行ってはいけない。たとえどれだけの欲が湧こうとも、開放してはいけない。

 あくまでも擬似的な関係だから、成立することだ。

 

「さっちゃんとも、こういうことやってるの?」

「何ですか、それ。最悪のピロートークなんですけど……」


 舞夜から不機嫌そうに睨まれた。

 確かに、何もかもがどうでもよくなり、投げやりになっていると自覚した。しかし、反省はしなかった。

 きっと、自分と接している時の寧々もこのような感じなのだと、倖枝は思う。適度な距離を保ったうえで、適当に相手をする。

 そう。倖枝にとって舞夜は、まるで愛人のようだった。

 舞夜と身体を重ねる行為に愛情は存在しない。都合の良いように扱っているに過ぎなかった。


「私はあんたと、エッチなことしたいのよ」


 だから、後見人にまで選任された擬似的な母娘という関係は、希薄になっていた。

 倖枝は微笑み、舞夜の頭を撫でた。

 

「嫌じゃないですけど……わたしはもっと、本当の母娘のようなことがしたいです……」


 舞夜から上目遣いに懇願された。

 倖枝はそれを聞き入れたいが、具体的に何をどうすればいいのか分からなかった。だが――


「ちゃんとしたお母さんで頑張るためには、必要なことなの」


 それは確かであった。

 母親として、娘からの願望を受け入れてはいけない。こちらの気持ちを隠さなければいけない。

 倖枝は、舞夜に自分の都合を一方的に押し付けている自覚があった。それでも、罪悪感は無かった。

 舞夜には弱さを見せることも、本音を話すことも出来る。居心地の良い相手だった。

 そのようなことをぼんやりと思いながら――娘の匂いのする少女を抱きしめ、眠りについた。



   *



 八月二日、水曜日。

 正午になると、倖枝は舞夜とリビングのソファーに座り、携帯電話の小さい画面をふたりで眺めていた。インターハイのインターネット中継が映っていた。

 女子の千五百メートル走、予選二組。順に選手が紹介され、その中に咲幸が居た。


「さっちゃん頑張って!」

「咲幸なら、いけます」


 ピストルが鳴り、十五名の選手が一斉に走り出した。

 開始直後では、咲幸が首位だった。しかし、後方から徐々に追いつかれ、数名に抜かれた。

 その後、抜き返すも――四分二十三秒での結果ゴールでは、四着だった。


「これ、決勝に何人いけるの!?」


 悔しそうに項垂れている咲幸が映り、倖枝は嫌な予感がした。


「この人数だと、三人ですね……」


 やはり、予選敗退だった。全国から勝ち抜いてきた選手の壁は、とても高い。

 もうカメラは咲幸を映していないが、僅かに届かなかったことが悔やみきれないだろうと、倖枝は察した。


「全然悪くないどころか、むしろ良いタイムです。本来なら、これで決勝にいける数字なんですよ……。でも、このグループのレベルが高すぎました」


 舞夜もまた、まるで自分のことのようにやるせない様子だった。

 これだけの知識を仕入れていることから、舞夜なりに咲幸を応援する気持ちが強かったのだと、倖枝は思った。

 倖枝も応援していたが、こうして残念な結果に終わった。配信画面を閉じ、携帯電話をテーブルに置いた。


 倖枝は心のどこかで、この結果を望んでいた。一刻も早く部活動から足を洗い、受験勉強に専念して欲しかった。

 それなのに、悔しさの涙が溢れた。


「さっちゃん……あれだけ頑張ってたのに!」


 放課後や休日、毎日のように部活動に励んでいた咲幸を、倖枝が一番よく知っている。運動面に恵まれない小柄な身体で、長距離走ぐらいしか選択肢が無かったことも知っている。

 咲幸にとっては趣味の一環だったが、決して生半可な気持ちではなく真剣に取り組んでいた。この三年、自分の成長のために走っていた。

 しかし、報われなかった。


「お母さん……」


 倖枝は両手で顔を覆って俯いていると、舞夜から肩を抱きしめられた。

 しばらく慰められるが、涙は止まらなかった。


「今夜、咲幸が帰ってくるんですから、ちゃんと迎えてあげてください。わたしは明日、予備校で労います」


 舞夜が立ち上がる気配を感じ、倖枝は顔を上げた。

 舞夜はトートバッグを持ち、帰宅の準備をしていた。

 携帯電話を触っているのは、タクシーを呼んでいるのだと倖枝は理解した。そして、急な行動だと思った。


「そんなこと言われても、どうしていいのか私わからないわよ! 何て声かければいいのよ!?」


 咲幸が決勝まで進んでいれば、帰宅は明日以降だった。それが、このようなかたちで早まり、倖枝は心の準備が追いつかないと感じた。

 昨年も一昨年も、倖枝はインターハイの地区予選で敗れ、苦笑しながら帰宅した。倖枝も苦笑して迎えた。

 だが、この結末を迎え、同じ素振りを見せるとは考えられなかった。僅かに見えた、項垂れている咲幸の姿が、倖枝の脳裏に焼き付いていた。

 母親でありながら、娘の欲しい言葉すら分からなかった。


「正解なんて、わたしにも分かりません」


 舞夜から素っ気ない眼差しを向けられた。

 昨日の身勝手な行為に対して、突き放されたように、倖枝は感じた。


「でも、わたしが咲幸の立場なら――お疲れさま、頑張ったね――それだけで、きっと嬉しいですよ」


 その言葉は、倖枝の中で選択肢のひとつだった。結果を残せなかったことに対し、過程だけを肯定すれば神経を逆撫でする可能性も考えていた。

 しかし、咲幸に近い立場の人物がそう提案するならば――信じてみようと思った。


「わかったわ……。ありがとう」

「しっかりしてくださいよ?」


 舞夜は呆れるような瞳を向け、部屋を後にした。

 部屋にひとり残された倖枝は携帯電話を取り、メッセージアプリで咲幸に『惜しかったわね。残念だったけど、よく頑張ったわ』と送った。

 しばらくして『うん。ダメだった』と返事が送られてきた。



   *



 午後十一時、倖枝は駅まで自動車を走らせた。

 昼間に比べ人気の少ないロータリーに停め、娘の帰りを待っていた。

 しばらくすると、顧問教師と三人の生徒――昨日と同じ顔ぶれが現れた。風見波瑠の結果は知らないが、この場に居るということは奮わなかったのだろう。

 倖枝は自動車を降りた。


「ママ! ただいま!」


 咲幸が駆け寄ってきた。ニコニコと、明るく元気な笑みを浮かべていた。

 まるで、悔しがっていないかのように。何事も無かったかのように。倖枝は意外だと感じるよりも、なんだか違和感を覚えた。


「おかえり、さっちゃん――この度は、ありがとうございました」


 倖枝は顧問教師に深く頭を下げ、咲幸からボストンバッグを受け取った。

 咲幸を助手席に乗せ、後部座席にボストンバッグを詰めている時だった。


「おばさん――」


 波瑠が倖枝の元に、小足で走り寄ってきた。

 倖枝は顔を上げると、神妙な表情の波瑠から、真っ直ぐな瞳を向けられていた。


「波瑠ちゃん? どうしたの?」

「すいません――何でもないです」


 波瑠は踵を返し、立ち去った。

 何かを言いたげな様子であったため、倖枝は無視できなかった。しかし、深夜のこの状況では深追いを止めた。


 夏の夜は蒸し暑かった。

 自動車のエアコンが心地良いと感じながら、倖枝は自動車を運転した。


「ちょっとコンビニ寄ろうか。アイス買ってあげる……ご褒美に」

「もう走らないんだから、こんな時間にアイス食べたら太っちゃうよ」


 咲幸は苦笑した。いつも通りの様子だったが、言葉は違った。明確に、次へと切り替えていた。

 しかし、倖枝はそれを無視して、コンビニの駐車場に自動車を入れた。


「それじゃあ、半分コにしましょう。抹茶でいい?」


 咲幸が黙って頷くのを確認し、倖枝はひとり、コンビニに向かった。

 三者面談の夜に食べたアイスクリームの抹茶味をひとつ購入した。自動車に戻り、咲幸にコンビニ袋を渡すと、帰路を走った。

 マンションに帰宅後、咲幸は風呂に入った。

 倖枝は冷凍庫にアイスクリームを仕舞い、リビングのソファーに座った。テレビを点けず、ぼんやりとしていた。浴室からシャワーの音を聞きながら、咲幸の妙に明るい様子を思い返していた。

 やがて、風呂上がりの咲幸が姿を現した。穏やか表情だった。


「さあ、食べましょう」


 咲幸はキッチンからアイスクリームと、ふたつのスプーンを持ってきた。

 ソファーにふたりで座ったところで――倖枝は一度、それらをテーブルに置いた。


「さっちゃん……お疲れさま。よく頑張ったわね」


 そして、咲幸に向き直り、微笑んだ。

 咲幸は静かに驚くと――唇が震え、それに続いて表情が崩れた。両目を片手で押さえ、俯いた。

 いつ以来だろうと、倖枝は思った。それすらも分からないほど、娘の泣く姿を久々に見た。


「もう少しだったのに! 悔しいよ!」


 倖枝はようやく、娘の痛々しい本音を聞いた。何事もないように振る舞っていたのは、気丈だった。やはり、悔やみきれないのだ。

 三年目の大舞台で結果を残せなかったのがどれほど辛いのか、倖枝は想像の域でしか分からない。

 しかし、もう高校生活の部活動が終わってしまった以上、どうすることも出来ない。次は大学生として走ることになる。次があるのなら、大学に入学しないといけない。

 この悔しさをバネに、受験を頑張りなさい――倖枝にはそれを娘に言う資格が無かった。

 その代わり、咲幸を抱きしめた。震える肩を鎮めるように、力強く。


「悔しい思いはいっぱいしてきたから、大学には絶対受かるように頑張る!」


 咲幸は顔を上げ、泣きじゃくった。

 わざわざ言わなくとも本人が理解しているようで、倖枝は安心した。こうして敗北を何度も経験しているからこそ、勝利への執念が湧いてくる。部活動での結果は乗せなかったが、決して無駄ではなかったと思った。

 言葉通り、咲幸はおそらく引きずらないだろう。すぐに気持ちを受験勉強に切り替える予感がした。


「そうね、頑張りなさい。私、応援してるからね」


 倖枝はアイスクリームを取り、蓋を開けた。

 特に皿に分けることなく、ひとつのカップをふたつのスプーンで食べた。少し溶けていたが、それがさらに美味しかった。


「ありがとう、ママ。すっごい美味しいよ」


 泣きながらも、咲幸は笑った。

 咲幸は負けず嫌い――倖枝はふと、誰かがそのように言っていたことを思い出した。聞いた当時は想像出来なかったが、現在になってようやく少し納得した。

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