第040話

 二月十五日、水曜日。

 休日の倖枝は、午前の間に家事と買物を済ませた。

 インスタントラーメンの昼食を摂った昼下がり、ソファーに座ると、須藤寧々に電話した。


『もしもし、倖枝? どうしたの?』

「寧々さん……。今夜、どうかな?」

『今夜? オッケー、いいよ』


 寧々と、今夜会う約束を取り付けた。

 御影歌夜の件で沈んだ気持ちは、昨日持ち直していた。

 倖枝の性欲が無いことは無かった。しかし、慰めて貰いたいわけではなかった。

 ――ただ、確かめたかった。

 倖枝はリビングのテーブルに置いてある、ハート型のチョコレートクッキーが入った袋を見下ろした。



   *



 午後七時、倖枝はNACHTのカウンター席に座っていた。

 平日、かつ開店してまだ一時間ほどしか経っていないので、店内に客はほとんど居なかった。

 その中で、アプリコットクーラーを飲んでいた。杏のブランデーとレモンジュースを主とするそれは甘く、まるでジュースのようだった。


「お待たせ。今日も寒いねぇ」

「お仕事、お疲れさま」


 しばらくして、寧々が現れた。


「カシスソーダ」


 寧々は倖枝の隣に座ると、バーテンダーにそう注文した。

 この後食事に行くので、倖枝と同じくアルコール度数の低いものを選んだようだった。


「咲幸ちゃんの誕生日、どうだった?」

「寧々さんのアドバイス通り、ケーキと焼き鳥作ったのよ。ほら」

「うわっ、凄いね。結局、ケーキも作ったんだ。いい感じじゃん」


 倖枝は携帯電話を取り出し、不格好な料理の写真を寧々に見せた。

 寧々から笑われるも、蔑みは無かった。


「咲幸ちゃん、喜んだんじゃない?」

「ええ。普段、私こんなの作らないからね……。やってよかったわ。ありがとう、寧々さん」


 倖枝は、舞夜と一緒に料理したことを伏せた。娘のような少女と一緒に料理したこと自体が楽しかったとは、言えるはずが無かった。


「それとね、これ昨日さっちゃんと行ってきたのよ」


 携帯電話に映る料理の写真をスライドさせ、昨日撮ったイルミネーションの写真を見せた。


「へぇ。めっちゃ綺麗だね。私も行きたいわー」

「確か、今月の下旬までやってるみたい。ちょっと遠いけどね」

「そうなんだ。なんとか時間作って、行ってくるよ」


 寧々は口にしないが、おそらく親に子供を預け、旦那とふたりきりでだろう。

 そのことに倖枝は妬むどころか、むしろ何も感じなかった。所詮、肉体だけの愛人関係に過ぎないと割り切っていた。


「倖枝、やっぱりちゃんとお母さん出来てるじゃん。前も思ったけど、なんか明るくなったよ」

「そうかしら?」


 倖枝自身に確かな実感があったが、とぼけた。


「そんなことないよ。やっぱり、何かあったんじゃない?」


 このように、深く触れられたくないからだ。

 咲幸との関係も、歌夜と舞夜の母娘関係に首を突っ込もうとしていることも、相談したくても出来なかった。話したところで軽蔑されるのは、目に見えていた。


「そうねぇ……。強いて言えば、あと一年ちょっとでさっちゃんも高校卒業だもん。そろそろ母親らしいところ、見せたいのかも」

「そういう意味じゃ、あともうちょっとじゃん。私なんて、まだまだ先は長いわよ……ふたりも居るし」

「寧々さんなら、きっと余裕よ」


 適当に作った話に寧々が乗ってくれて、倖枝は助かった。

 とはいえ、全くの嘘でもなく、倖枝の中でそう思うことは少なからずあった。


「仕事の方は、どう?」


 次に、寧々から御影邸の進捗を訊かれた。


「それがね、やっと見つかりそうなのよ。ただ……一括で買えないみたいだから、あとはローンの問題なんだけどね」


 歌夜から紹介された中でひとり、購入の意思を示そうとしている者が居た。

 金銭面を突破さえすれば、近い内にこの案件は片付くだろう。まだ不安は残るが、それでも現在までで最も良い状態だった。


「そこまで来たなら、もう決まりそうな気もするけどね。凄いじゃん」

「でも、ごめんね……。たぶん、寧々さんには仕事振れないと思うわ」

「しゃーないよ。月城が絡んでるんだから」


 寧々の言葉に、あの館が月城の建てたもので、かつての月城の住居だったことを思い出した。

 売主が歌夜であり、舞夜がまだ居着いていることから、忘れそうになっていた。

 倖枝は頭の中を切り替え――ふと、疑問が浮かんだ。


「ねぇ。そういえば……月城の社長さん、知ってる?」

「いや……。見たことないどころか、顔も名前も知らないけど」

「私も。この街の有名人のはずなのにね」


 月城住建という会社自体が有名であるだけで、経営者自体は倖枝も知らなかった。寧々だけでなく――おそらく、この街の住民ほとんどが同じ反応を示すだろう。それほどまでに露出が低く、影も薄かった。

 会社のウェブサイトを調べれば分かるだろうが、倖枝はそこまでして知る気になれなかった。


「社長さんが、どうしたの?」

「どんな人なんだろうって、なんとなく気になって……」


 月城住建の現社長――即ち、舞夜の父親にあたる人物も歌夜同様、現在は独身なのだろうか?

 独身だとすれば、再婚願望はあるのだろうか?

 倖枝はその二点が少し気になったが、これらもまた寧々に言えなかった。



   *



 バーで軽く酒を飲んだ後、ファミリーレストランで夕食を摂り、ふたりでホテルに向かった。

 昨日はバレンタインだったが、ふたり共それには触れなかった。それに関して、互いに対象外だった。

 倖枝は久々に、寧々と素肌を重ねた。

 一時的な性的快楽は、頭の中の嫌なことを忘れさせた。

 ――昨日、咲幸と過ごした『楽しい時間』と同等おなじだった。身体で感じる温もりと心で感じる温もりは、同等だった。


「倖枝、どうしたの? 気持ちよくない?」

「ううん……そうじゃないから……」


 きっと、自分が引きつった表情をひているのだろうと、倖枝は思った。首を横に振り、寧々とキスをした。

 昨日の疑問はやはり放っておけず、確かめたいがためにこうして寧々を呼び出した。


 結果は――悪い予感が的中した。

 かつて、気分が沈んだ時に慰めて貰ったのは、寧々と舞夜のふたりだけだった。

 そして、性交ではないが、咲幸が三人目となる。

 もう既に自分の『弱さ』を見られているとはいえ、実の娘にそれを預けるのは、あってはならないのだ。

 現在になって昨日の事実を重く受け止め、倖枝は戸惑った。

 咲幸と恋人として付き合うのは、あくまで仮初だったはずだ。真っ当な母娘関係に引き戻すためだ。

 しかし、倖枝は確かに『弱さ』を預け、温もりを得ていた――まるで、本物の恋人のように。



(第15章『同等』 完)


次回 第16章『指輪』

街に雪が降り積もる。

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