第039話

 二月十日、金曜日。

 午後九時過ぎ、倖枝は帰宅した。


「ただいま……」

「おかえりー。って、ママどうしたの? お疲れじゃん」


 リビングに顔を出すと、咲幸からそのように心配された。


「ええ。ちょっとね……」


 いけないと思い、倖枝は無理に苦笑して見せた。

 職場ではどうにか気持ちを切り替えていたが、帰宅と共に緩んだようだった。


 歌夜と飲んで以来、あの母娘がずっと頭から離れなかった。

 舞夜の気持ちを確かめず、自己満足で動いて、その結果勝手に傷ついて――バカなことをしているという自覚はあった。

 孤独な悩みは、次第に倖枝の心を蝕んでいた。

 舞夜との料理で大丈夫だと思っていたが、あれが原因でやはり須藤寧々が必要な状態となっていた。

 次の週末にでも会おうと思いながら、倖枝はダイニングテーブルについた。


「ごめんね、今日は冷蔵庫の残り物で……。明日、買物に行ってくるから」


 咲幸がキッチンから、味噌煮込みうどんの大きな土鍋を運んできた。豚の細切れの他――ニンジン、大根、しめじ、白菜、沢山の野菜が入っていて、上手く残り物を処理したと思った。


「買物、悪いわね……。重いものは母さん買ってくるから、言ってよ?」

「ありがとう。せっかく自転車買って貰ったんだし、買物自体は大丈夫だよ」


 笑顔の咲幸から、小皿に盛り付けたうどんを受け取り、ふたりで夕飯を食べた。

 味噌と醤油の濃い味と野菜の旨味が、冷えた身体にとても染みた。


「ママ、やっぱりなんか疲れてるね。お仕事大変?」


 倖枝は、正面の咲幸から改めて心配された。

 仕事の方は店長としての通常業務の他、御影邸の問い合わせの対応にも追われ、確かに大変だった。しかし、仕事で疲れているわけではなかった。


「そうじゃないんだけど……」


 曖昧に否定した後、話を仕事に合わせておけばよかったと後悔した。


「別に、生理アレの日でもないよね? お風呂上がりにマッサージしてあげようか?」

「大丈夫だから……。食事中に、そういうこと言わないの」


 女ふたりで暮らしていると、嫌でも互いの生理周期を把握していた。

 そこからの流れでマッサージと言われても、身体のどの部分に触れられるのか分からないため、倖枝は断った。


「それじゃあ、デートしようよ!」


 どうしてそうなるのか――倖枝は理解に苦しんだ。疲れを心配しているのなら、労って欲しかった。


「ほら、来週バレンタインじゃん。折角だから、バレンタインデートしようよ」


 そう言われ、倖枝は壁のカレンダーを見た。二月十四日――咲幸はこれを知っていたのか、惜しくも火曜日やすみだった。

 倖枝は毎年、このイベントとは無縁だった。今年もそれに関するどころか、休日の予定自体が特に無かった。

 沈み気味の気持ちの中で、面倒になってきたと思うが――


「わかったわ。どこか遊びに行きましょうか」


 捉え方を変えた。

 咲幸は『恋人ごっこ』としての提案だろうが、倖枝は母娘で出かけるものとして考えた。人目のつく所では、咲幸の行動はむしろ安全に違いない。

 それに、自宅で怠惰に過ごしていては、きっとこの気分を引きずる。何かの気晴らしが欲しかった。


「ほんと!? 楽しみだなぁ。サユ、頑張ってデートプラン考えるね!」


 咲幸は笑顔で答えた。

 倖枝は特に期待せず、うどんを食べた。



   *



 二月十四日、火曜日。

 倖枝は電車を乗り継ぎ、都心まで出た。午後五時半頃、駅の改札近くで咲幸を待っていた。

 咲幸が一度帰宅した後、車で一緒に向かった方が明らかに効率が良かっただろう。


『せっかくのデートなんだもん。待ち合わせしようよ』


 しかし、咲幸から昨晩そのように言われ、倖枝は仕方なく飲んだ。待ち合わせ場所と時間以外、何も聞かされていなかった。

 ここは都心でも『政治の街』と呼ばれる地域だった。倖枝はこれまで、ほとんど足を運んだことが無かった。

 いくらそのように呼ばれているとはいえ、目の前を横切るのは会社勤めの社会人らしき人物が多かった。この時間帯でも、学生の姿はほとんど無かった。

 若者向けの街に連れて来られると思っていたため、咲幸の意図が分からなかった。


「お待たせ」


 しばらくして、改札からポニーテールの少女が姿を現した。靴下の学生服姿は、露わにした素脚が寒そうだと思った。


「待った?」

「今来たところよ」


 倖枝は体感で十分以上待っていたが、正確な時間が分からないため、微笑んでそのように答えた。

 顔を覗き込んできた咲幸が、無邪気に笑った。とても嬉しそうだった。


「それじゃあ、行こうか」


 咲幸に手を掴まれ、引っ張られるように倖枝は歩いた。

 駅から伸びている地下通路を通り、地上に出ると――


「わぁ」


 一面に広がるシャンパンゴールドの灯りに、倖枝は息を飲んだ。

 それが、立ち並んだ木々に飾り付けられたひとつひとつの灯り――無数の光なのだと理解した。とても綺羅びやかに輝いていた。


「ちょうど今、イルミネーションの期間らしいから」


 地元の駅前でもこの時期は、広場に電球の装飾が施されているが、規模が違った。

 このくらい大掛かりなものでようやくイルミネーションと呼べると思った。この手の装飾を、テレビ越しではなく実物として、おそらく初めて見た。

 倖枝は振り返って夜空を仰ぐと、とても大きく背の高い、ビルのような建物があった。駅と直に繋がっているこの建物を、何かの商業施設だと思った。

 この建物の周囲一帯が、イルミネーションとして装飾されていた。


 倖枝は咲幸に手を引かれ、ふたりでゆっくりと歩いた。

 大勢の人達で賑わっていた。バレンタインという日のせいか、若い男女の姿が目立った。

 学生服姿の少女と手を繋ぎ、母娘として来ているのは、周りから浮いているように感じた。だが、それでも構わないぐらい、イルミネーションが綺麗だった。


「クリスマスは、ここにツリーあったみたい」


 建物前には広場があり、咲幸の言う通りクリスマスツリーが立っていてもおかしくないと思った。


「クリスマス終わっても、置いておけばいいのにね」

「いやいや。それは変だよ、ママ」


 美しい景色に見惚れていたため、倖枝は何気なく漏らした。咲幸が可笑しそうに笑った。

 クリスマス――咲幸との間に何があったのかを思い出し、倖枝は我に返った。今すぐにでも咲幸の手を振りほどきたいところだが、冷静になり、我慢した。

 それでも恥ずかしさを抱えながら、再び咲幸に手を引かれた。


 建物の正面には、庭園のような空間を挟み、もうひとつの建物があった。旧いホテルだが、倖枝は知ることなく――年期の入った荘厳な洋館は、御影邸を彷彿とさせた。

 ライトアップされた館周囲の木々も、シャンパンゴールドの灯りに装飾されていた。さらに、その周りの水堀に、それらの景色が鏡のように映されていた。


「綺麗ね……」


 倖枝は素直に感想を漏らした。

 ここに来ることに乗り気ではなかったが、わざわざ来てよかったと思えた。間接的な映像としてでは、このような感動を味わえなかっただろう。

 柄にもなく、携帯電話で写真を残した。


「こういうのも、たまには悪くないでしょ?」

「ええ。連れてきてくれて、ありがとう」


 倖枝ひとりなら、どこであろうとイルミネーションを見に行こうとはならなかった。先ほどまでの恥ずかしさは消え、咲幸に感謝した。

 ふと、腹の鳴る音が聞こえ、咲幸が苦笑した。


「あはは……。ご飯食べに行こうか。六時半に予約してあるから」

「あら? そうなの?」

「うん。すぐそこだよ」


 時刻はちょうど、午後六時半になろうとしていた。この人の多さから、近辺で食事をするならば待たなければいけないだろう。

 ふたりで外食をする際は、いつも倖枝が予約をしていた。咲幸が進んで予約したのは、おそらく初めてだった。

 娘の行動に成長を感じるが、嬉しいと思うより――どうしてか、戸惑った。

 咲幸に連れてこられた店は、建物一階の外周にあった。ガラス張りの壁から、広い店内と大勢の客が見えた。テラス席もあるが、寒空の下では閑散としていた。

 まるでオープンカフェのような、カジュアルで明るい雰囲気のレストランだった。堅苦しい店でなくてよかったと、倖枝は安心した。


「すいません。予約していた嬉野です」


 咲幸が店員にそう告げると、対面のテーブル席に通された。

 窓際なら先ほどのライトアップされた館が見えたが、残念ながら見えない位置だった。


「へぇ。意外としっかりしてるのね」


 渡されたメニュー表には料理名と値段のみが書かれ、写真は無かった。倖枝としてはファーストフード店のような印象だったので、まともな料理名に驚いた。


「さっちゃんは何頼む?」

「ねぇ、一緒に決めようよ。ていうか、いくつか頼んでシェアしようよ」


 咲幸に言われた通り、ふたりでメニューを眺めて悩んだ。

 結果的に、ローストビーフのサラダ、トマトソースとモッツァレラチーズのパスタ、仔羊のグリリア、そして赤ワインとザクロジュースを注文した。

 しばらくして、料理が運ばれてきた。店員に言わずとも、一緒に小皿を渡された。この店では、共有して食べるのが一般的のようだ。


「はい、ママ」

「ありがとう」


 咲幸が取り分けたものを受け取り、ふたりで食事をした。

 普段、咲幸とファミリーレストランに行くと、それぞれ一品ずつ食べることが多かった。だから、倖枝としては珍しかった。

 味も雰囲気も良く、倖枝は満足した。


「そろそろ、行こうか」


 食べ終わり店を出ようとしたところ、テーブルの隅に伏せてあった伝票を、咲幸が手に取った。

 そして、早足でレジに行こうとする姿に、倖枝は嫌な予感がした。


「さっちゃん、待ちなさい。母さんに伝票渡して」

「いいよ。今日はサユが出すから」

「よくないわよ。いいから、早く」


 咲幸から伝票を渋々渡された。

 倖枝はそれを見るが、料理名のみで値段までが書かれていなかった。とはいえ、メニューに書かれていた値段を、注文時にざっと頭の中で計算していた。高校生の小遣いでは厳しい金額だと分かっていた。

 レジに通すと、やはり合計で約七千円だった。一般的なファミリーレストランに比べて高いが、味と場所代で妥当だった。

 店を出ると、咲幸がなんだかやるせない表情をしていた。拗ねている理由を、倖枝はなんとなく分かった。


「さっちゃんが大人になって初任給貰ったら、奢って貰うからね」


 未成年の子供を不自由なく食べさせるのが親の役目だと、倖枝は過去より思っていた。


 咲幸の言う『デート』としての気遣いは嬉しいが、母親として素直に受け取れなかった。


「わかったよ……。それじゃあ、最後に上まで行こうか」


 まだどこか釈然としない様子の咲幸から、手を掴まれた。

 イルミネーションを眺めて食事をして、倖枝としては既に充分満足だった。

 まだ何かあるのかと思ったが――エレベーターに乗った時、この建物が商業施設だけではなく、オフィスの他にホテルまでが入っていることを知った。

 そして、咲幸は高層に位置するホテル階のボタンを押した。

 倖枝がホテルで連想するものは、たったひとつだけだった。内心で驚いていたが、エレベーター内には他の客も居るため、咲幸を問いただすことは出来なかった。


 やがて、エレベーターの扉が開き――倖枝は息を飲んだ。

 視界の両端には、下の階と同じく灯りの装飾された木が、鉢で飾られていた。両端の壁は間接照明で、ぼんやりとした薄暗い光を放っていた。

 それらに挟まれた薄暗い空間だから、一面に広がる夜景がとても綺麗に映えていた。


 咲幸に手を引かれ、壁側にまで移動した。

 エレベーターの扉の正面には、下り階段があった。倖枝は見下ろすと、窓際のカウンター席で夜景と共に酒を楽しんでいる人達の姿があった。どうやら展望台とラウンジを兼ねた場所のようだった。ここからは見えないが、おそらくホテルのロビーへと通じているのだろう。


「ここ、穴場なんだって」


 咲幸の言う通り、下の階に比べて人気は疎らだった。


「サユが成人おとななら、あそこで飲めるんだけどね」

「ここからでも充分よ」


 倖枝は咲幸とふたり、階段の柵にもたれ掛かり、街の明かりを見下ろした。

 特等席とまではいかないが、入場料を支払う価値があると思った。これを無料で楽しめることが――ここに連れてきてくれたことが、嬉しかった。


「さっちゃん……今日は、ありがとうね」


 この夜景だけではない。イルミネーションと食事も全てを含めて、倖枝は最高に満足していた。

 倖枝としては母娘で遊びにきたつもりだったが、咲幸がデートと称していたことを思い出した。

 今夜の計画を、咲幸ひとりが立ててくれた。自分を喜ばせるために立ててくれた。幼い見た目とは裏腹に、しっかりとした計画だった。下心も無かった。そして、こうしてふたりで楽しい時間を過ごしたならば――確かにデートと呼べるだろうと納得した。

 現在になると、食事の会計で気を遣ってくれたことも嬉しかった。

 たとえ肉親でも、他者からこのようにされたのは初めての経験だった。


「どう? ママ、元気出た?」


 そのように訊かれ、倖枝は驚いた。

 数日前は仕事での疲労として心配されていたが、娘から本意を見透かされていた。


「ええ……。ちょっと落ち込んでたけど、もう大丈夫よ。さっちゃんのお陰で、元気出たわ」

「それはよかったよ!」


 倖枝は咲幸と顔を合わせて、笑いあった。

 沈んだ気持ちが回復したのは本当だった。また頑張ろうと思えた。


 咲幸は鞄を開けると、ひとつの袋を取り出した。リボンで閉じられた透明の袋の中には、ハート型のチョコレートクッキーが何枚か入っていた。

 見た目はまるで市販のようだった。しかし、咲幸の手作りなのだと倖枝は実感した。自身も先日ケーキを作って失敗したことから、その凄さが分かった。


「はい、これ。今日はバレンタインだから」

「わぁ。ありがとう」


 袋を受け取り、リボンを解いた。中から一枚取り出すと、一口かじった。


「うん。とっても美味しいわ」


 見た目だけではなく、味も市販のものかと疑うほどだった。

 倖枝は袋の口を、咲幸に向けた。ふたりでクッキーを食べた。


「こんな所で食べてたら、怒られるね」

「どうせ見つかりっこないわよ」


 もちろん悪い行為だが、それも含めて楽しかった。

 咲幸とふたり、楽しい時間を過ごした。


 ――きっと、一時的なものだろう。

 倖枝は弱い人間なのだから、近い内に再び気分は沈む。根本的な部分は何も解決していない。

 この感情は一時的なものだと理解していた。『悲しい』を『楽しい』で上書きしているに過ぎなかった。

 そう。須藤寧々に抱いて貰うように。心の奥底にまで届かない仮初の温もりに身を委ねているのだと思った。

 いや――限りなくそれに近いものだと理解し、戸惑った。


「あたしは、倖枝のこと大好きだから……」


 実の娘から、守らねばいけない存在から――温もりを与えられて、いいのだろうか?

 その疑問が浮かぶも、束の間。


「ありがとう……」


 心が満たされた現在、深くは考えなかった。

 随分大人びたように見える咲幸の顔、その頬に倖枝は触れ、微笑んだ。

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