第15章『同等』

第038話

 二月六日、月曜日。

 咲幸の誕生日を無事に祝い、そして咲幸と舞夜の仲を取り繕い――倖枝は未だ充実感に満たされていた。

 仕事の方は、歌夜からの紹介された資産家達に順次営業にあたっていた。どれも即答というわけではないが、前向きな手応えを得ていた。


 だから、決して心が弱っているわけではなかった。週末の今日も、須藤寧々と会って身体を重ねたい欲は湧かなかった。

 寧々ではなく、御影歌夜と再び会いたいと思った。

 前回は涙に濡れたが、それまでの食事と会話は単純に楽しかった。

 きっと、似たもの同士だからだろう――寧々とは別の心地良さがあった。かつては同族嫌悪があったが、こうして歌夜の言う通り『友達』となったのだから、なんだか皮肉に感じた。


 時刻は午後一時。倖枝は昼食を摂ると、携帯電話を手に給湯室に入った。そして、歌夜に電話をかけた。

 電話はすぐに繋がった。


「こんにちは、御影様。お久しぶりです。嬉野です」

『あら、嬉野さん』


 電話越しに、歌夜の明るい声が聞こえた。


「えっと、買い手様の方は現在どれも返事待ちの保留状態です、という報告だけではなくて――どうでしょう? また一緒に飲みませんか?」


 日付は敢えて伏せた。倖枝としては今夜が理想だが、流石にそれを提言するのは図々しいと思った。

 とはいえ、こちらが週末であることを歌夜は知っているはずなので、汲んで欲しいと願った。


『あら、いいわね。それじゃあ、今夜はどう?』

「はい! 私は大丈夫です! どこか予約しましょうか?」


 倖枝は心の中でガッツポーズを取りながら、わざとらしく訊ねた――いや、確認した。


 どこで飲むかなど、歌夜の答えは分かりきっていた。


『いいえ。仕事終わったら、またウチにいらっしゃい』

「かしこまりました。楽しみにしています」


 やはり思った通りの運びとなり、倖枝は満足しながら電話を切った。


 年甲斐もなく、今夜は何を食べさせてくれるのだろうと思いながら、一日の仕事を終えた。

 二月の夜はとても冷え込み、身を震わせながら駅前まで歩いた。歩きながら、今回も無償で食事にあやかろうとしていることに倖枝は気づいた。

 前回はともかく、今回はこちらから誘っている。歌夜の財ならば、無償で提供することに痛手は無いだろう。

 しかし、金銭の問題ではない。感謝の気持ちを何らかで示すことが大切だと倖枝は思った。

 途中でコンビニに立ち寄り、缶ビールを二本手に取った。僅か百円ほどだが、他の一般的なものに比べ高く、庶民にしてみれば高級扱いになるものだった。そして、スナック菓子とを購入した。

 どれも、歌夜が口にするとは思えなかった。それでも、これが倖枝なりの『気持ち』だった。


「こんばんは、御影様。こちら、つまらないものですが……」


 歌夜の部屋に上がるなり、倖枝は謙遜してコンビニの袋を手渡した。


「まあ、ビール。丁度よかったわ。ウチに無かったのよ。今夜はこれを飲みましょう」


 これまでから、歌夜が皮肉を言う人間ではないと分かっていた。それでも倖枝には、安物の酒に対しての皮肉のように聞こえた。

 リビングに通されると、ダイニングテーブルにはカセットコンロにホーローの両手鍋が置かれていた。蓋を少し開けてグツグツと音を立てているそれから、コンソメの匂いがした。


「お鍋ですか……。寒いから、良いですね」


 倖枝は鍋の中身におよその見当がついた。と同時、これにはどんな酒も合わないと思った。


「さあ、食べましょう」


 しかし、歌夜は缶ビール一本と氷の入ったグラスをふたつ持ってきた。

 ダイニングテーブルに対面に座り、歌夜が鍋の蓋を取った。

 中にはコンソメのスープに、ウインナーと厚切りハム、玉ねぎとジャガイモとニンジンとキャベツが煮込まれていた。どの具材も豪快な大きさに切られていたが――思っていた通り、ポトフだった。


「これはね……私の国の家庭料理で、アイントプフと言うのよ」

「へぇ。初めて食べます」


 ポトフと呼び名が似ていることから、おそらく同じ料理なのだと倖枝は思った。

 歌夜は器具で胡椒を粗く挽いて鍋に落とすと、缶ビールを開けた。

 倖枝は歌夜から缶ビールを取り上げ、ふたつのグラスに注いだ。


「お疲れさま」


 笑顔の歌夜と乾杯をし、ビールを一口飲んだ。温かい部屋で温かい鍋を目の前にしているので、冷たいそれが美味しかった。


「あのー……。これとビールは合うんですか?」


 レードルとトングで小皿に取り分けたものを歌夜から受け取ったところで、疑問をぶつけた。

 やはり、コンソメ主体の野菜のスープ――あっさりとした味わいのこれが、ビールと合うとは思えなかった。


「ああ。そこのハムみたいなやつ、食べてみなさい」


 歌夜に言われるまま、倖枝は箸で厚切りハムを摘んだ。

 香味料を加えるならともかく、スープに漬かったハムが美味しいとは思わなかった。


 しかし――口に含むと、予想していなかった味に倖枝は驚いた。慌ててビールを飲んだ。


「なんですか、これ!?」


 スープに漬かっていたにも関わらず、とても香ばしさの強い味だった。確かに、ビールととても合う食べ物だった。


「それはアイスバインといってね、塩漬けにした豚のすね肉をさらにハーブで煮込んだものよ。どう? しっかり味がついてるでしょ?」

「はい。病みつきになりますね」


 事前に味付けを行っているからここまで味が香ばしいのかと、倖枝は納得した。

 この料理自体も、普段食べているポトフより塩気が濃い味わいだった。もはや、ポトフとは似て非なるものだった。


「これも御影様が一からお作りになったのですか?」


 倖枝はアイスバイン――名前を忘れたので箸で指し、訊ねた。


「ええ。一週間ぐらいかけてね」

「そんなにもですか……。手間暇かけた分、凄く美味しいですよ。というか、御影様はやっぱり料理お上手ですね。流石は――」


 言葉の出るままに歌夜の料理を褒め称えたが、口から出そうになったそれを冷静に防いだ。

 流石は、舞夜のお母さんですね――舞夜と一緒に料理を行った現在、倖枝の率直な感想はそれだった。

 もしもそう発言すると、歌夜は少なくとも良い気がしないだろう。不機嫌を通り越して怒ってくる可能性すらあると、倖枝は思った。


「何? どうかした?」

「あー……。実は最近、娘の誕生日に私も少し料理をしまして……」

「へー。何作ったの?」


 倖枝はケーキと焼き鳥を作ったことを、歌夜に話した――舞夜の存在を伏せ、ひとりという体で。

 料理の失敗談は、酒を交えての場には丁度いい話だった。歌夜が面白そうに笑った。


「……そんなわけで、サプライズが無事に成功して、娘も喜んでくれました」

「よかったじゃない。ちゃんと気持ちが伝わったのなら、やった甲斐があったでしょ」


「はい……」


 倖枝は小皿に薬味代わりの粒入りマスタードを添えながら、頷いた。

 あんたは舞夜に、嫉妬した気持ちをちゃんとを伝えたの? 自分を棚に上げた現在、そう問いたいが我慢した。

 なんとなくだが、特に理由を告げずに一方的に舞夜を拒んだように、倖枝は思った。


「やってよかったと思ってます。……御影様は、娘さんとのことで後悔はありませんか?」


 あくまでも、自分の後学のため――そのような意味合いを含ませて、倖枝は訊ねた。


「全く無いわね。きっぱりと縁を切って、清々してるわ」


 答えは相変わらずだった。微笑む歌夜の表情には、言葉通り一切の戸惑いが無かった。


 倖枝は本当なら、舞夜と一緒に料理をして楽しかったことを伝えたかった。貴方は実の娘とそのような経験があるのかと、訊ねたかった。

 しかし、そのようなことを言えるはずが無かった。


「もしも……娘さんの方から復縁の申し出があったとしても、断りますか?」

「当たり前じゃない」


 淡い期待を込めて訊ねるが、やはりふたつ返事で拒まれた。

 この母娘の関係は完全に切れているのだと、辛い現実を改めて確かめた。

 その後も歌夜と酒を交わすが、倖枝は酔えなかった。笑顔を作って会話を合わせたが、心はどこか上の空だった。

 怒りの感情は湧かなかった。

 ぼんやりと、居心地の良い時間を過ごした。


 午後十一時を過ぎ、倖枝は歌夜の部屋を後にした。

 いつもならタクシーを呼ぶところだが、歩きたい気分だった。寒空の下、人気の少ない夜道をゆっくりと歩いた。


 今まで、住居に関する営業職として、数多くの家庭事情を見てきた。金銭に余裕のある者、余裕のない者。幸せな家族、複雑な家族。中には同情したくなる家庭もあったが、首を挟まず見ない振りをしてきた。

 今回の顧客に対しても傍観するはずが――あまりにも深く関わってしまった。本来なら、営業職失格だ。

 そう。歌夜と舞夜のどちらとも交際がある身として、ふたりの母娘関係を修復したかった。倖枝はようやく、自分の気持ちを理解した。

 きっと、ただの自己満足だろう。ふたりが、自分と咲幸との関係に近いからに過ぎない。


 少なくとも歌夜は復縁を望んでいないと、今日はっきりとした。

 しかし、舞夜はどうなのだろう。

 舞夜も同じなら、倖枝の行動はふたりにとって有難迷惑だった。そう理解した時点で、身を引くつもりだった。

 舞夜の舞夜の気持ちは、現時点では分からなかった。本人に確かめる他は無い。

 それでも――先日ふたりで料理したことから、舞夜の笑顔から、彼女はそう望んでいないような気がした。あくまでも、倖枝の目での判断だった。


 それだけを根拠に行動に移したが、歌夜はやはり娘を拒絶した。

 ――その結果が、ただ悲しかった。

 倖枝は今にでも泣き出したい気持ちだった。現実はどうにもならず、辛かった。まるで自分のことのように、肩に重く伸し掛かった。

 ぼんやりとした頭と重い足取りで、寒い帰路を歩いた。

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