第16章『指輪』

第041話

 二月十七日、金曜日。


「本当ですか!? 承知致しました! では、進めさせて頂きます!」


 午後二時過ぎ、店長席に座る倖枝は、昂る気持ちを抑えながら電話を切った。

 通話相手は、先月のパーティーで御影歌夜から紹介を受けたひとり――投資家ではなく、個人事業主だった。御影邸の営業を持ちかけた中では、手応えが頭ひとつ抜けていた。

 金銭面で渋っていたが、この度正式に購入の申し出があった。

 十一月に歌夜から預かり、約三ヶ月。後は、融資ローンの審査さえ通過すれば――目標としていた期間内を少し超えるが、なんとか片付く目処が立った。

 物件の状態が『商談中』に移行したのは、これが初めてだった。ここまで長かったと、倖枝は思った。

 倖枝の喜ぶ様子を、春名夢子がぼんやりと眺めていた。何があったのか察しているようだった。


「嬉野さん、おめでとうございます」

「ありがとう。早速だけど春名、銀行に行く用無い?」

「無いことは無いですけど……。銀行ぐらい、ひとりで行けばいいじゃないですか」


 夢子は文句を言いつつも、出かける支度をした。

 倖枝としては、夢子を足として使いたいわけではなかった。


「なに言ってんの。あんたも一緒に頭下げれば、あのお硬い女もイチコロよ」


 倖枝は買主に、既に融資申請書をいくつか書かせていた。

 しかし、申請額に対し、返済元も個人属性も心許なかった。なので、倖枝も一緒になり銀行へ頼み込むという考えだった。

 まずは、倖枝自身が長年世話になり最も信頼があると思われる、地元の地方銀行からだ。


「あの人、忖度してくれると思いませんけど……」

「仲の良いあんたにはしてくれるって」

「そんなもんですかねぇ。まあ、もし上手くいったら、ご飯でも食べさせてください」

「わかったわ。焼肉だっていいわよ」


 四億九千八百万円の売買仲介を両手ひとりで成立させた場合、双方からの手数料と会社から支払われる歩合――この三ヶ月、倖枝は正確な計算を行っていなかった。夢のような金額に目が眩み、仕事への支障となると思ったからだった。

 ようやく終わりが見えそうになった現在でさえ、計算したい欲を我慢していた。最早、全てが片付いてからの『お楽しみ』となっていた。



   *



 世間は平日だが、午後三時が近いからか銀行は混んでいるように倖枝は思えた。

 そして、金融審査部の二階堂灯が苛立った様子なのは、時間や忙しさのせいではないとも思えた。小柄な彼女が前髪を上げ、カリカリと仕事しているのはいつものことだった。


「二階堂さん、こんにちは」

「どうも。ウチの春名がいつもお世話になっています」

「春名さん――と店長さん?」


 倖枝は春名と共に挨拶をすると、灯が机から顔を上げた。やはり笑顔ではなく、不機嫌そうな表情だった。


「実はですね、二階堂さんに見て頂いて欲しいものがあって――」

「お断りします」


 倖枝は鞄から、申請書の入ったクリアファイルを取り出した。

 しかし灯は、それが何の書類であるのかを確認するまでもなく、却下した。


「いや、見てもないですよね?」

「どうせ月城絡みでしょ? 私は関わりたくありません」


 銀行うえではなくて、貴方個人の意向じゃないですか――倖枝はそう言いたかったが、怒らせないよう我慢した。代わりに、横目で夢子を見た。


「まあまあ、二階堂さん。見るだけでも見てくださいよ」

「……わかりました。見るだけですからね?」


 夢子に諭され、灯はクリアファイルを渋々受け取った。やはり夢子を連れてきてよかったと、倖枝は思った。

 灯はクリアファイルから申請書を取り出し、順を追って確認した。眼鏡越しに、つまらないようなものを見る目だった。

 四億九千八百万円の購入金額に対し、二億円の融資申請。本件の投資に対する収入を差し引いても、申請者の事業収入から、なんとか返済できる範囲だと倖枝は思っていたが――


「無理ですね。というか……たぶん、どこに持って行っても同じだと思いますよ」


 灯は、最後まで目を通すことなく書類を机に置いた。


「えっ、どうしてですか? 返せる見込みは全然あるでしょ?」


 倖枝としては、審査に通過する絶対の自信が無かったので、この結果は頭の隅で想定していた。

 しかし、あまりに決断が早すぎるのが腑に落ちなかった。それに、灯の言葉から――何かを見落としているような気がした。


「確かに、通常ならばお貸しする案件すうじですよ。ただですね……この人、住宅ローン組んでるのが勿体ない」

「あー……。そういうことでしたか」


 灯からそう説明を受け、夢子は頷くが、やはり倖枝は納得出来なかった。


「いやいや。住宅ローンがあっても、投資用ローンも返せる感じでしょ?」


 倖枝は、申請者の負債内容を全て把握していた。金持ちなのに住宅ローン組んでいるのだと思ったが、それを計算したうえでの申請だった。


「嬉野さん……。返済能力が問われるんじゃなくて……そのふたつは原則、両立できないんですよ」


 隣に立つ夢子から、そう説明された。

 大学を卒業している夢子は、金銭や法律の知識に倖枝より詳しい。だから、冗談や嘘を言っているように倖枝は思わなかった。


「え……マジで? ダメなの?」

「マジですよ。まったく……先に春名さんに見て貰えば、徒労に終わらずに済んだのに。というか、店長さんともあろう方が知らなかったんですか?」


 灯の呆れる物言いに倖枝は苛立ったが、苦笑しながら頷いた。

 確かに、長年の融資審査で今回のような事例は初めてだった。今後に役立つ知識を得ることが出来たと思うどころか、残念で肩が下がり――ふと、夢子の説明を思い出した。


「ねぇ。原則できないって、どういうこと? 何か抜け道でもあるの?」


 そう。住宅ローンと投資用ローンが絶対に両立できないわけでは無かった。

 倖枝はまだ可能性があると信じた。


「順番の問題ですよ。先に投資用ローンを立ててその収入があるのなら、後から住宅ローンを組む信用に足ります――そうですよね? 二階堂さん」

「はい。そういうことです」

「ああ……なるほど」


 ふたりの説明に、倖枝はようやく納得した。

 つまり、ただでさえ負債のある人間に、成功するのかも分からない投資(ばくち)に金を貸せないということだ。


「ということですので、借金をチャラにしてきてから出直してください」


 この特例は、既に住宅ローンを組んでいる人間には遅すぎた話だった。事後での抜け道にはならなかった。


「はーい、わかりました……」


 自宅である高級タワーマンションを購入した住宅ローンの返済残高は、約一億円。現在から慌てて完済したところで、御影邸購入の申請額が増えるだけだ。その場合、審査に通るのか分からない。

 どちらかといえば非現実な話だと、倖枝は理解した。

 そうなれば、灯をなんとか信用させるしかないが――この場には、投資が必ず成功するという説得材料が無かった。


「でも、まあ……投資用だと正直に言うだけ、店長さんはまだ偉いですよ」

「そういえば、居住用だと嘘の申請するケース増えてるらしいですね」

「はい。バレた時点で全額返済して貰います。それで無理なら、抵当権で差し押さえますからね」

「はは……。なんともまあ、物騒な話ですね」


 倖枝は苦笑しながら、申請者がこの悪知恵を働かせないでよかったと思った。当人だけが被害を受けるには構わないが、紹介した倖枝も銀行からの信用を失くすだろう。


「それじゃあ春名、帰ろうか」

「あっ、待ってください……。二階堂さん、申請用紙いくつか貰えませんか? 店舗のストック切らしそうで」


 立ち去ろうとしたところ、夢子がそう申し出た。

 倖枝は気にしていなかったが、店舗のローン申請書が尽きようとしていたらしい。細かいところにまで目が行き届いている部下に、感謝した。


「わかりました。これ、どうぞ」


 灯は机の引き出しから申請書の束を取り出し、一旦机に置いた。それだけではなく、他にも何かあるのか、まだ引き出しを漁っていた。


「あと、これ――バレンタイン、ちょっと過ぎましたけど」


 不機嫌かつ恥ずかしそうな表情で、包装された小箱を夢子に差し出した。

 ――こういうことをする人間なのだと、倖枝は意外に思った。


「え? もう三日ぐらい過ぎてません? ていうか、私が来るの待ってたんですか?」

「うるさいですね! 十四日は春名さん仕事でしたし、そろそろ来る頃だろうなって思ってたんです!」

「わざわざ待たなくても、言ってくれたら取りに行ったのに……」

「いいから貰ってください! 普段お世話になってるお礼ですよ!」


 灯からガミガミ言われながら、夢子は小箱と申請書を受け取った。


「すいませんねぇ。うちの春名、こういうことに無頓着で。来月のホワイトデーには何かお返し持ってやらせますから、これからも仲良くしてあげてください」

「え? ……あっ、はい。楽しみにしていてください、二階堂さん」

「ふんっ。三倍返しですからね!」


 倖枝は面倒なふたりだと呆れ、夢子と共に融資審査部を後にした。

 銀行から出ると、夢子は包装紙を指で張り、中身を透かせた。


「なんだ、市販のチョコレートじゃないですか」

「あんたね……。本人の前では、絶対にそういうこと言っちゃダメよ?」


 そういえば、ふたりでご飯を食べる仲だったと、倖枝は夢子と灯の間柄を思い出した。とはいえ、夢子が灯の気持ちに気づいている様子は無かったが――

 倖枝はただでさえ審査が通らず憂鬱な気分なのに、部下の無自覚さも加わり、目眩がした。


 その後、倖枝は他の銀行にも融資審査をあたった。しかし、灯の言う通り、同じ理由で全て断られた。

 買主に他の手段で金銭を工面できないかと相談したが、手詰まりだった。

 結果、買主は購入の意思を取り下げ、流通機構の『商談中』登録が外された。

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